今日の言の葉 

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 2/29  手塚アニメのキャラクターには、「アトム」だの「ウラン」だの、理
      科の教科書に出てくる言葉が使われることがあった。「コバルト兄さん」
      とかいうロボットもいた。ライバルには「プルートゥ」という巨大なロ
      ボットも。これは不当に強く作られていたけれど、いいヤツだった。
       キャラクターの名前を考える作業は大変だろうが、こういう作り方も
      なかなかいいものだと思う。「マグマ大使」に「アース」とか「モル」
      とかが出てきたのも懐かしいが、高校生の時、「モル」が化学用語だっ
      たのに気づいて驚かされた。
       ボクたちは後から知って驚くが、当時の大人たちはどう感じていたの
      だろう。理科の先生の中には、自然科学をバカにするなと感じた人もい
      たのではないだろうか。研究や議論の対象がマンガに使われるなんて、
      面白くなかったのではないだろうか。
       若い世代が言葉をいい加減に扱うのに接すると、そんな気持ちになる
      ものだと思う。
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 2/28  子どものころ、ボクはクラスの仲間と違い、どういうわけか、ガメラ
      もゴジラも好きになれなかった。火を吹く怪獣なんて、自分が焼けてし
      まうだろ、と思ったからだ。亀が手足を引っ込めた穴から炎を噴射して、
      回転しながら空を飛ぶのも理解できなかった。さらに、「空の大怪獣ラ
      ドン」なんて、本当にどうでもよかった。何だか華のない、どうでもよ
      い怪獣だった。
       そんなボクが理科の教科書に「ラドン」という元素名を初めて見つけ
      た日の衝撃をなんと表現しようか。ボクが勉強したいもの、知識に取り
      込みたいものの中に、怪獣みたいな名前が入っているのだ。この名前、
      何とかならないものかと思ったが、どうしようもなかった。
       そのうちに、「ラドン温泉」なんて言葉にも巡りあうことになった。
      大人たちは怪獣のことを知らないから、「ラドンは体が温まる」「一度
      行きたいねえ」と平気で使っていたが、ボクはいやだった。売れない怪
      獣の温泉というイメージがあったからだ。
       こう言っては何だが、温泉が好きになった今でも、ラドン温泉とはな
      んとなく距離をおいてしまっている。
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 2/27  スーパーに行くと、タチウオが売られていることがある。きれいな魚
      だが、出会う度にいやな気持ちになる。ああ、また見てしまった。見る
      たびに「太刀魚」か「立ち魚」かと考えてしまうのだ。この魚は、サー
      ベルフィッシュとも呼ばれているので、「太刀魚」が似合いそうだが、
      立って泳ぐという妙な習性を持っている。どちらだろう。毎回、考えて
      も考えても結論が出ない。気になって水族館のホームページとかを見て
      も、「どちらも定説です」のような表現だ。
       生まれながらに掛詞みたいな魚だ。タチウオ。カタカナが日本一似合
      う魚と言っていい。
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 2/26  ちゃんと漢字で書けるのに、爬虫類は「は虫類」と書く。字が難しす
      ぎるのだ。だったら初めから、もう少し簡単な名前にしておけばよかっ
      たのに。
       両生類だって、昔は「両棲類」と書いた。水の中と水の上、どちらに
      も「棲む」動物なのだ。なんだか命の拍動が伝わる書き方ではないか。
      なのに、今や、ほとんどだれもそうは書いてくれない。
       いやいや、哺乳類も「ほ乳類」と書く。生物用語はどうなっているの
      だ。ひらがなで書かれて、何か意味が伝わるであろうか。
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 2/25  昨日の話に似ているが、「ら抜き言葉」の逆の、「さ入り言葉」も問
      題にされている。「書かせて頂きます」「開かせて頂きます」など、
      不要な「」を入れてしまうことだ。つまり、「せる」と「させる」の
      どちらを選べばよいかの分からない人が増えているのだ。
       簡単に言っておこう。「れる」をつける言葉には、「せる」をつけ、
      「られる」をつける言葉には「させる」をつければよいのだ。

       書か
れる  …… 書かせる
       食べ
られる …… 食べさせる
       寝
られる  …… 寝させる
       着
られる  …… 着させる
       来
られる  …… 来させる

       今日はこのくらいにしておこう。
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 2/24 「ら抜き言葉」の是非は、繰り返し論議されてきた。「言葉は生き物な
      んだから、いいんじゃないの」と言う人あり、「伝統が失われるからだ
      めだ」と言う人ありで、いつまでたっても結論が出ない。
       伝統を守れ派の人は、「『れる』も『られる』も、どちらも未然形に
      つけるが、『れる』は五段活用とサ行変格活用に、『られる』は、下一
      段活用、上一段活用、カ行変格活用にくっつけるのだ」と言うが、そん
      なの、ややこしくて覚えられるわけがない。面倒だから「ら抜き」にし
      ているのに。そう、これは「面倒でもがんばれ」と「面倒だからやめと
      こう」の対決なのだ。
       こんな論争が続くのは、「どちらがいいか」に終始して、「どうした
      ら正しく覚えられるか」が語られていないからだと思う。
       ボクは、双方納得の方法を心得て、子どもたちにも教えている。紹介
      しよう。

       1.とりあえず、「ら抜き」を認める。全部「れる」でいい。
       2.でも、「れる」の直前に、小さく「ァ」を入れる。
       3.これを、言い切りの形に続けて言う。
         すると……
                        伝統を守れ派の主張
       書く +ァれる →
書かれる  = 書かれる
       食べる+ァれる →
食べられる = 食べられる
       寝る +ァれる →
寝られる  = 寝られる
       着る +ァれる →
着られる  = 着られる
       来る +ァれる →
来られる  = 来られる

       どうだろう。「ら抜き」を認めたはずが、適切な表現になっているで
      はないか。
       ボクは要するに、「れる」の直前にア段の音が必要だといいたいのだ。
      最後の「来られる」は「くられる」になると言われそうだが、漢字で書
      いて分かるから細かいことはいいのだ。
       なお、「する」は「する+ァれる=すァれる……される」として頂き
      たい。やや苦しいが、言葉が生き物だというのは、こういう時に使う言
      葉だ。
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 2/23  ヤバイうまい。

       これは、「ヤバイ、うまい」ではない。「ヤバイ」は「すごく」の意
      味なので、間に読点はいらない。「ヤバイうまい」で「すごくおいしい」
      なのだ。ちょっと前まで「すごいおいしい」に驚いていたところだが、
      やっぱり新手が現れた。嘆きつつも面白い表現だと思う。単独で「ヤバ
      イ」と言っても、これはほめ言葉である。食事をして「ちょっと、これ、
      やっべー」というと、「こいつはなかなかうまい」ということになる。
       そもそも「ヤバイ」は「あぶない」などを表す。良くない意味の言葉
      が良い意味で使わるのは、久しぶりに聞いた。名古屋弁の「うみゃあで
      かんわ」はこの用法だ。「うまいで+あかん」とは、うまくて手がつけ
      られない、ということなのだ。そんな新しさがあったが、これは最近の
      「ヤバイ」と共通している。
       さて、「ヤバイ」の方だが、これは意外に古い言葉である。語源を探
      ると、次のような説明が見つかった。

      やば(形動)
       具合の悪いさま。危険なさま。不都合。
      「おどれら―なことはたらきくさるな/滑稽本・膝栗毛 6」
      「俺が持つてゐると―なによつて/歌舞伎・韓人漢文」 (「大辞林」)

      
 つまり、「やばい」は、形容動詞が形容詞化したものだ。しかし、そ
      もそもの「やば」が分からないが、「矢場」だろうか。危なそうではな
      いか。
       なお、「東海道中膝栗毛」は、享和2年(1802)から文化6年(1809)に
      かけて出版されたものであり、歌舞伎「韓人漢文手管始(かんじんかん
      もんてくだのはじまり)」は、寛政元年(1789)大坂角座の初演である。
      そのころにも「やば」はあったのだ。
       200年前にも新しい言い回しだっただろうが、さらに今のように使
      われるとは、想像もしなかっただろう。
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 2/22  「ピアノは弾けないが、風邪はひける」とか言っていたら、「てぐす
      ねも引ける」という人がいた。手ぐすね。どう書くのだろう。

       A.手+くすね  B.テグス+根

       コンピュータで変換すると、「手薬煉」と出てきた。「薬煉」と書い
      て「くすね」と読むらしい。松ヤニと油を混ぜ、煮て練ったもので、粘
      着力が強く、糸や弓の弦に塗って強くするのだそうだ。それを弓の弦に
      引きつつ敵が近づくのを待つ様子が「手薬煉を引く」なのだ。だから、
      正解は「A」である。
       しかし、いよいよ敵が来るというのにそんな粘々したものを手で触っ
      ていて、きちんと弓が引けるのだろうか。昔の人のすることは分からな
      いが、きっとボクならやらない。前の晩に準備しておくだろう。
       「B」は間違いだが、凍った湖に穴を開けて釣り糸を垂れ、テグスの
      根本を引きつつ待つ様子だって、十分にその感じを表すと思うが、どう
      だろうか。テグス根。ボクが勝手に考えて作ったことなのだが。
       これを漢字で書くならば、「天蚕糸根」である。
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 2/21  「ダフ屋」というと、何かのチケットを高く売りつけてもうける人の
      ことだが、ボクはその発音に、なにか「ふんだくる」というイメージを
      持っていた。しかし、その意味はよく分からないでいた。
       最近になり、やっと分かった。これは、「ふだ屋」だったのだ。どう
      して気づかなかったのだろう。「札屋」。隠語によくあることだが、つ
      まりは、逆にして読むのだ。種のことを「ネタ」というのと同じだ。
       そうは分かったものの、「ダフ屋」はやっぱり「ふんだくり屋」とい
      う感じが抜けない。それでいいのだと思う。
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 2/20  日本ペンクラブというのがある。文筆家の集まりだ。ボクはペンを使
      う人たちのことだと思っていたが、そうではなかった。

       P……Poets Playwrights = 詩人、劇作家
       E……Essayists Editors = 随筆家、編集者
       N……Novelists      = 小説家

       ほら、インクを使うあのペンではないのだと、そういうことらしい。
       しかし、文字の列を眺めて思うことは、「いや、そうは言っても、や
      はりあのペンのことなんでしょ」ということだ。上に示したのは、「P
      EN」の文字の並びにうまく意味を与えているのだ。考え出した人は、
      できの良さにほくそえんだものと思う。「PEN」を使った創造的な仕
      事人の集まりらしいではないか。これは「ペン」に違いない。
       もし、「ペン」である必要もないのなら、「NEPクラブ」としてい
      てもいいと思う。日本ネプクラブ……お笑い芸人さんみたいだ。
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 2/19  危険を冒さず名を残すには、やはり、天体観測だ。アマチュア天体観
      測者が何かを発見したことがたまに新聞にも載っているではないか。有
      名な天文台も見つけられなかったものを出し抜いたという喜びもある。
      射止める金星は、さらに大きく輝くわけだ。しかも、夜空に輝く星に自
      分の名前を付けたら、その名は永遠に消えることがない。
       だれか、ボクのために新しい星を見つけてくれないだろうか。できれ
      ば、暗いのではなくて、一等星ぐらいがいいのだけれど。
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 2/18  後世に名を残すには、もともとあった山の名前から取る方法以外に、
      新種の生物を発見するという手があった。見つけた不思議な生物に自分
      の名を付けるのだ。ボクの名前はキシヒロミチだから、「ジャポニカ・
      ヒロミンチス・キシーノ」とか適当に折り込めば洒落ている。
       問題は、すでに43歳を数えるボクに新種の生物が発見できるかどうか
      だ。深海に潜るとか、人跡未踏の地に行くとか、そういう無理はしたく
      ない。
       どうも、人類の科学の発展のためとか、そういう意識からは遠いとこ
      ろにいることに気づいた次第だ。
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 2/17  もう十日も前になるが、職場の旅行で長野県に行った。そびえる山々
      を眺めながらのドライブになったが、地図を見ていて、周辺に「野口五
      郎岳」を発見。そうそう、歌手の野口五郎はこの山の名前を取って芸名
      にしたのだった。
       これがそうなのか、と思って地図と風景を比べても、どれがどれだか
      わからない。まあいいか。脇見運転は危険である。
       さて、山の名前が先にあったとなると、何年たっても野口五郎の名前
      は消えないということになる。百年後にも、二百年後にも、大きな記念
      碑が残される形だ。ボクもそういう名前にしておけばよかった。名前に
      できそうな山はないものかと、そんな気になったので、調べてみた。

       山の名     人 名 (よみかた候補)
       黒部五郎岳……黒部五郎(くろべ ごろう)
       甲武信岳………甲 武信(きのえ たけのぶ)
       安達太良山……安達太良(あだち たろう)
       草津白根山……草津白根(くさつ はっこん)
       治部坂高原……治部坂高原(じぶざか こうげん)

       日本百名山から探したが、あまりパッとしないので途中でいやになっ
      た。やはり、「野口五郎」が一番よい。譲ってくれないだろうか。
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 2/16  昨日の続きだが、「おのずから」の方は、「自ずから」とも「自ら」
      とも書くことが判明した。うわあ、ややこしいことになった。もちろん、
      後者は、「こう書いてもよい」というものだ。お勧めでも標準でもない
      のだ。これは、「自ら」の読み方が「おのずから」なのか「みずから」
      なのか判然としないからだろう。文を書く人には、読んでほしい読み方
      があるのだ。
       さて、「おのずから」は、もともと「おの+つ+から」だった。言葉
      の後半「ずから」については昨日の説明を見てほしい。今日は、前半の
      「おの」についてだ。
       これは「己」と書く。「おのれ」と読むのが一般的だろう。「自分」
      という意味だ。この「おの」に「づから」をつければ、「私自身」「そ
      れ自体」となるところだろうが、そっちの意味は「みずから」に渡して、
      こちらは「自然に。ひとりでに」などの意味を表している。言葉の住み
      分けである。
       気になるのは、「おのおの」という言い方だ。漢字で書くと「各々」
      となるが、「おの」が「自分」なので、本来は「己々」と書くべきだろ
      う。「おのおの」は「自分自分」だ。
       時代劇では「おのおのがた、出合え、出合え」の声で殺陣が始まるが、
      こう呼びかけられると他人事ではない。「自分が行かねば」という自覚
      を呼び覚ますのがこの言葉であると考えた。英語で言うと、「all」にあ
      らず、「every」であるというところか。
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 2/15  漢字で「みずから」と書こうとすると緊張する。「自ら」か、「自ず
      から」か、あるいは「自から」だったか。
       正解は「自ら」で、「自ずから」と書くのは「おのずから」だ。この
      言葉は「〜ずから」の部分も共通しているのでややこしさが倍増してい
      る。
       しばらく前から気になっていたのだが、「手ずから」という言い方も
      あるではないか。こうなると、似た言葉を探す方がよい。

      てずから【手ずから】
      (副)〔「手つ(助詞)柄(から)」の意〕
       (1)自分の手で。直接、手を下して。「―お書き下さる」
       (2)自分自身で。みずから。「―仰せさぶらふやう/宇治拾遺」
      くちずから【口ずから】
      (副)自分の口で。自分の言葉で。「―命令を伝える」
      こころずから【心づから】
      (副)自分の心から。自分の意志で。自発的に。
      「春風は花のあたりをよぎて吹け―や移ろふと見む/古今(春下)」
      みみずから【身自ら】
      (副)自分自身で。自ら。

       当然、ルールがあるなとにらんで調べると、次の通りだった。

      ずから づ―
      (接尾)〔助詞「つ」に名詞「から」の付いたものから〕からだまたは
       その一部分を表す名詞に付いて、直接それを使って、…自身で、…に
       よって、などの意を表す。
      「手―植樹された」「口―」「み―」

       面白いのは、ここに共通する「から」が、「〜から」という意味では
      ないということだ。「から」は「それ自体」という意味の名詞「柄」で
      ある。だから、「みずから」も「自分から」という意味よりは、「自分
      自身」という意味で生まれたものと言ってよい。「みずからを省みる」
      という言い方がそれである。
       さらに、代名詞の一人称として使われた時代もあったようだ。

       多く、身分ある女性が使う。古くは男性も用いた。わたくし。
      「―は九重の内に生ひ出で侍りて/源氏(乙女)」

       以上、「大辞林」によって調べた。与謝野晶子も「君死にたまふこと
      なかれ」に、天皇を指して「おほみづから」と書いている。知らない人
      は見ていただきたい。
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 2/14  ホウボウという魚がいる。「魴」と書いてホウボウと読むが、この後
      ろに「魚+弗」をつけてもホウボウだ。竹麦魚とも書く。
       先日、テレビを見ていたら、海底をはうように泳いでいるので、「は
      うはう」→「ほうぼう」なのだと説明があった。「ほうほう」と呼ぶ地
      域もあるとのことだった。
       魚に詳しくないボクの耳がピクリと来た。徒然草の「猫また」の一節
      がふわりと浮かんだのだ。
       この話では、飼い犬を怪物猫またと思いこんだ法師がその犬に飛びつ
      かれて腰を抜かし、川に転げ落ちてひどい目に遭っているが、兼好法師
      は、彼が家に入る様子を「はふはふ家に入りにけり」と表現している。
      「はふはふ」とは、「這ふ這ふ」である。古典の読みのルールに従えば、
      「はふはふ」→「はうはう」→「ほうほう」となる。
       彼は「這々の体(ほうほうのてい)」で家に入ったのだが、意外なと
      ころで魚とつながっていた。今後、もしホウボウを食べることがあった
      ら、猫またのことも思い出したい。           「猫また」
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 2/13  田舎を笑うという低俗さはどうしたものか。関東に住む人には、千葉
      ナンバー、茨城ナンバーの車は低く見られ、練馬ナンバーは仰がねばな
      らないあこがれとされている。岩手県や島根県は日本のチベットと言わ
      れるが、こうした引き合いの出し方は、岩手県にも島根県にもチベット
      にも失礼だ。紅白歌合戦にも佐賀県のことを小馬鹿にした歌が歌われた
      らしい(見ていない)が、NHKとしてはどうなのだろう。佐賀県知事
      が「いいんじゃないですか、佐賀が有名になって」と言ったとしても、
      それは佐賀県民すべての思いを代表するわけではない。ボクが佐賀県民
      だったら、バカにするなと新聞に投書しているだろう。
       ボクたちは、もう少し言葉のもつ力というものを見つめる必要がある
      のではないだろうか。相手を見下し、これを笑うための言葉というのは、
      きらめきを失っている。

      「その人を笑う」
      「その人と笑う」

       どちらがより温かいであろうか。
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 2/12  1974年、「襟裳岬」がヒットした。フォーク歌手の吉田拓郎が作り、
      演歌の森進一が歌うこの歌を、旅情あふれる名曲と受け入れ、当時中学
      二年生のボクたちは仲間が集まるとよく歌っていた。(「ボク」と書か
      ず、「ボクたち」と書くのは、ボクはこの歌も吉田拓郎のことも好きで
      はなかったからだ。ボクは井上陽水が好きだった。)
       日本レコード大賞も日本歌謡大賞も射止めた曲だったので、その後も
      裾野広く歌い継がれた。吉田拓郎はフォークの貴公子と呼ばれたほどの
      カリスマで、この曲も、学生が集まればフォークギターを掻き鳴らして
      歌っていたものだ。曲の調子から、あまり大勢で歌えるものではないの
      だが、それでも、一人一人が自分なりの思いに浸って歌っていたものだ。
       ご当地ソングの誕生とその空前のヒットに、地元「えりも町」は、盛
      り上がるかと思いきや、大いに反発した。全国にご当地ソングは数々あ
      れど、「襟裳の春は、何もない春です」などとその土地のことをバカに
      した歌はないというのだ。なんという認識の食い違いだろう。
       ボクたちは「何もない春」という歌詞に特別の理解も感情もなく、た
      だ聞き、ただ歌う程度だったし、襟裳という場所が何もないところだと
      思いこむこともなかった。しかし、当時のえりも町は、「何もない」と
      いう事実と闘っていたのだった。
       明治以来の森林の伐採により、この北の地で深刻な「砂漠化」が進行
      していたのだ。これにより、コンブ漁を生業とする町は、森ばかりか、
      海までも死なせてしまった。土砂が流入する海は味噌汁状態で、「襟裳
      のコンブは泥コンブ」と笑われた。えりも町は、これを食い止め、森を
      自然の姿に戻すべく、町が一体となって緑化事業を推進していたのだ。
      そして、ようやく緑が根付き始め、その成果が現れだした時に「何もな
      い」と全国で合唱されたとなれば、その無念がしみじみ伝わるであろう。
       ボクたちは、そんな思いに気づくこともなく、学生コンパに参加して
      は、「何もない春」とうなっていた。その歌がだれかを傷つけているこ
      とをボクたちのだれが知っていたであろうか。
       ボクたちばかりか、一億人総掛かりでえりも町をいじめていたのだ。
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 2/11  ボクたちが子どものころは、日本海側の地方のことを「裏日本」と呼
      ぶのが当たり前だった。なにしろ、NHKがそう表現していたのだ。全
      国津々浦々に標準語を伝える、いわば責任者の表現がこうなのだから、
      ボクたち純真な子どもは、いっそう洗練された表現として、「日本海側」
      よりは「裏日本」を選んだ。そう、表があれば裏もある。暗く寂しくう
      ら悲しい景色を端的に表す言葉として、ボクたちはこれを定着させてい
      た。イメージの共犯者である。
       富山からの転校生があると、波がドドーンと押し寄せてくるイメージ
      をもったし、それで笑おうとする自分がいた。なんと恥ずかしいことか。
      そのころ、それは当たり前のようなものだったが、しかし、他人を笑っ
      て自分は安心という、いたって身勝手な意識から出たものであることは
      言うまでもない。
       そんな意識を受けつがせないのが、ボクたち大人の仕事なのだ。
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 2/10  阿漕の地名は、阿漕という名の漁師がいたことに由来するという意外
      な情報を得た。どこまでが事実なのだろうか。昨日書いたように、この
      浜一帯は一般には禁漁区だったが、阿漕という漁師がひそかに捕りつづ
      け、度重なるうちに罪が露顕し、この浦の沖に沈められて、その名がつ
      いたのだという。
       すると、そんな過去がありながら、阿漕に続いて何人もの漁民が密か
      に取り続けたということだろうか。次第におかしな興味が湧いてきた。
      同時に、不名誉な地名をなんとかできないものかとも思っている。
       そういえば、「どさまわり」という言葉も、そもそも佐渡に渡ること
      を言うものだった。「佐渡」をひっくり返して「どさ」である。佐渡の
      人たちも「どさまわり」と聞くたびにいやな思いになっているのではな
      いかと思う。みんな平気で使っているけれど、これでいいのだろうか。
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 2/9   阿漕の地名と「あこぎ」の関連だが、こういうことらしい。
       伊勢国阿濃郡の阿漕ヶ浦は、もともと伊勢神宮のためのもので、神々
      に供える魚を獲る専用漁場だった。つまり、一般に対しては禁漁区であ
      る。良い魚がよくとれると分かっていながら手の出せない場所だったら
      しい。しかし地元の漁師たちは、禁を守ることができず、いけないと知
      りつつも漁を続けていたという。「赤信号みんなで渡ればこわくない」
      の心理であろうか。
       そんなわけで、不道徳なことを繰り返してあくどくもうけることをさ
      して、「あこぎ」と言うようになったらしい。
       その村の何人までが禁を犯していたかは知らないが、関係のない善良
      な村人まで、「あこぎなヤツ」と思われてしまうのが悲しい。
 
       伊勢の海 阿漕が浦にひく網も 度重なればあらはれにけり

       これはあこぎなことを繰り返してついに捕まったという歌であろう。
      さらに、

       逢ふことを 阿漕の島にひく網の 度重なれば人も知りなむ

       秘めた恋も、いずれは人の知るところになる、ということであろうか。
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 2/8   三重県津市に阿漕ヶ浦という場所がある。いつだったか国道を走って
      いて通りがかったのだが、「あこぎ」と読むのが気になった。「あいつ
      はあこぎな奴だ」「あこぎな真似をしよって……」など、いやらしい意
      味でしか聞いたことのない「あこぎ」と同じ読みなのだ。
       それが、調べてみると、その一致は偶然などではなく、やはりこの地
      名がそういう「あこぎ」の語源だった。もしやと思って調べたらやはり
      そうだったという種類のショック。ボクはある意味心配になったが、そ
      れはこういうことだ。

      ・「あこぎな真似を……」というのは、いわば全国区の言葉である。し
       かし、それが三重県の小さな浜辺のことだと知る人は、全国にもほと
       んどいないだろう。
      ・阿漕の町の子どもたちは、「あいつはあこぎなやつだ」とかいうせり
       ふをテレビで聞いたりして、「ボクたちの町の名と同じ言葉をこんな
       ふうに使うなんて、いやだなあ」と思っているに違いない。
      ・そんな子どもたちも、成長するにつれて、語源と町名の関係に気がつ
       くのだ。そうして、大人になる。阿漕の町の町民たちは、「あいつは
       あこぎなことをする」とか、ふと言ってしまったり、思ってしまった
       りするたびに、罪を犯したような、いやな気持ちになったりするのだ。
       そうにちがいない。それがこの町に生まれたもののいわば宿命であろ
       う。

       ボクは「加野」に生まれて、「うさぎおいしい加野山」と思いこんだ
      ことがあるが、そんなものはかわいいものだと思うところだ。
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 2/7   子どものころ、配られたプリントが人数分なかったり、だれかが教科
      書を忘れたりすると、先生が「隣の子とモーヤイで見やあ」と言ってい
      た。モーヤイ。語源不明。成長してこの言葉から離れるにつれ、不思議
      になっていった。
       これが船の「もやい」だと知ったのはつい最近のことだ。岸につない
      でおく綱、あの「もやい」である。
       意味が分かってよかった。さもなければ、変な言葉を使う、変な地域
      に住んでいたという記憶ばかりが残るところだった。方言に突然変異な
      し。ボクの結論だ。

      (今日は、「あれこれ言の葉」のコーナーの一周年記念日です。二年目
      に突入するのは、これまで日記でもなかったことなので、生まれて初め
      てのことだと胸を張っています。……あれ、おかしいかなあ。)
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 2/6   昨日は人間ドックの受診日だった。胃のレントゲンのために、前日は
      8時以降、胃の中に何も入れてはいけないということだったので、空腹
      感の出る前に寝てしまったが、午前3時半に目が覚めた。結局それから
      仕事をしたが、食べたいものが目の前を行ったり来たりする感覚に困っ
      た、困った。
       さて、人間ドックの受診案内をトイレで読んでいると、ふと表書きの
      部分に目がとまった。

      岸 浩道様  人間ドック資料在中
             開封していただき、必ず内容の確認を行って下さい。

       だれに開封してもらえと言うのだろう。「いただき」と「ください」
      が同居するのでこんな文になってしまった。「開封の上、必ず内容の確
      認を行って下さい」とすればよかったのだ。丁寧にしようと言う気持ち
      が裏目に出た形だ。
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 2/5   「夢」という言葉がある。ボクの夢は、贅沢なものを食べることだっ
      た。贅沢な中でも一層贅沢なものは何なのかと考えると、北京ダックに
      行き着いた。そう、いつかは北京ダックを食べる。それが夢だった。人
      生の目標と言ってもいい。何しろ、北京ダックは、皮だけを食べるのだ。
      ただ皮だけを食べるために手間をかけておいしく太らせた贅沢な鳥。そ
      の肉の部分はどうなるのだろう。凡人には、最も肝心だと言えるはずの
      その肉は、いったいどこへ持ち去られるのか。これほどの謎を秘めた食
      事があるだろうか。
       果てしないロマンを含みつつ、北京ダックはボクを待っていてくれた。
      初めての出会いは四十一歳の夏。台北のレストランであった。
       実はこの街でボクは迷子になり、集合に遅れてしまったのだが、遅刻
      を詫びて席に着いたぼくを待っていたのが北京ダッグだった。いくつか
      の野菜とともに、ナントカというものを巻いて味わう初めての北京ダッ
      グは、おいしいのか何なのか、よく分からない味だった。しかし、これ
      がおいしいのだ、何だか中途半端な味なのは、言葉の通じない土地の夜
      に路頭に迷い、タクシーを飛ばしてあちこち走り回ったあげく遅刻した
      気持ちのせいだと自分に言い聞かせ、おいしふりをして、もしゃもしゃ
      と食べたのだった。
       あれから二年。最近、中国から来た日本語指導員の方と親しく話すう
      ちに、北京ダックの話になった。あの時はろくに味わっていなかったく
      せに、相手のお国の食べ物だからという気遣いも手伝って、つい、おい
      しさを誇張する言い方をしてしまった。すると、その方は、「そうです
      かねえ、そんなにおいしいですかねえ」と言うではないか。「私たち中
      国人も、一度は食べてみたいと思いますが、一度食べれば、もういいと
      いう程度ですね」
       ボクの中で崩れゆく北京ダック神話。本場中国の人も、実はそんなに
      おいしいとは思っていなかったのだ。いわば「珍味」の類だったのか。
      あの日、ボクのために残しておいてくれた仲間たちも、本当にボクのこ
      とを思って残してくれていたのかどうか、あやしくなってきたではない
      か。
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 2/4   大学の先輩に、今日が誕生日という人がいた。名前を「タツハル」と
      いった。「立春」と書くその人は、きりりとした気持ちのいい人だった。
       立春の日に生まれたからその名が付いたというが、もし立夏に生まれ
      ていたら、「立夏」という名前だっただろうか。同様に、立秋、立冬に
      生まれていたらどうだろう。ボクが親なら、そんな名は付けない。
       立春には、ほかにないわくわくした思いがある。長い冬が明けたとい
      う、ほっとした思いがある。
       訪れた春を胸一杯に楽しみたい。まだちょいと寒いが。いやいや、日
      を追って色を深める木々の梢を見たまえ。ふくらんでふくらんで、つつ
      けば春が破裂しそうだ。       
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 2/3   今日は節分だ。教室で「節分は年間四回ある」と説明したが、生徒は
      きょとんとしていた。反応がないのは関心がないからだが、関心のない
      生活があるのだと思う。

       節分  二月三日頃
       立春  二月四日頃
       節分  五月五日頃
       立夏  五月六日頃
       節分  八月七日頃
       立秋  八月八日頃
       節分 十一月七日頃
       立冬 十一月八日頃

       季節の変わり目ごとに節分がある。現代には、春の節分しか形を残し
      ていないが、区切りというのは気持ちのいいものだ。心をこめて豆をま
      きたい。立春大吉。笑門来福。
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 2/2   今日は骨折1周年記念日だ。普通に歩けることに改めて感謝したい。
       骨折当初は、「左脚を失った」と思ったものだが、とんでもなかった。
      この脚のために松葉杖を使い出したが、常に両手がふさがってしまうの
      だ。その状態で、毎日授業をしていたと思うと、自分をほめてあげたく
      なる。三階の教室まで、プリント類を詰めたリュックを背負い、チョー
      クを入れたウエストポーチを巻いて上ったのだ。両腕は鍛えられた。
       トイレでは松葉杖を使わなかったので、右脚だけで移動するのが大変
      だった。スリッパを履くと、心の中で「用意、どん」だ。いわゆる「け
      んけん」で小便器に向かう。たどり着くや、バランスを取りながら用を
      足した。じきに右脚はだるくなる。しかし、左脚をつくわけにはいかな
      い。その脚で、ふとんにも入るのだ。だから我慢だ。……こうして、右
      脚は見事に太くなり、次第に右脚だけで立つことにも、何の苦労もなく
      なった。
       人類は環境に適応する能力のおかげで、こんなに繁栄したのだと聞い
      ことがある。ボクはボクなりに「適応」したのだ。これからの人たちに
      も、そういう力をつけてほしいと願う。
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 2/1  「千円から、お預かりします」
       こんな言い方が、コンビニでもファミレスでも、もう定着してしまっ
      た。手遅れの感がある。本当にもう、どこでも使っている。
       言わせてもらうが、まずこれは、千円札一枚預かって使うような言葉
      ではないのだ。千円は千円。見れば分かる。これは、見ても分からない
      ような、いちいち数えるのがいやになるような数の場合に使うのだ。
       映画「マルサの女」では、銀行にあるはずの証拠書類を見つけたいと
      申し出た査察部の職員に対応した銀行員が、膨大な数の資料から見つけ
      るのは正気の沙汰ではない、それは本気かという調子で、「よろしゅう
      ございます。ご自分でお探し下さい。ただ、20万からございますよ」
      と言っていたが、正しくはこのように使うのだ。
       この間も、コンビニエンス・ストアで買い物をして五百円玉を渡した
      ら、「五百円からお預かりします」と言っていた。硬貨一枚が数えられ
      ないわけではあるまい。使い方を間違えているのだ。
       いつだったか、「五千円からでよろしいですか」と尋ねられたことも
      ある。ぴんと来た。きっと、おつりの計算に使っているのだ。
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     過去文 2003年   2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月