今日の言の葉 

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 7/31  「使用人」という言葉に戸惑ったことはないだろうか。使う側なのか、
      使われる側なのか、よく分からないではないか。一方、「使用者」は使
      う側だとはっきり分かる。意味の似た文字が一文字違うだけで立場が逆
      転だ。英語でも、使用者は「an employer」、使用人は「an employee」と
      いうことで、一文字違い。ボクには覚えられない。
       そう言えば、「酒飲み」と「湯飲み」の関係も面白い。「あいつは酒
      飲みだ」と言っても、「あいつは湯飲みだ」とは言わない。湯ばかり飲
      んでいる人がいたら「湯飲み」だろうが、これは人ではなく、道具なの
      だ。
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 7/30  「井の中の蛙」といえば「大海を知らず」だが、そんなことを生徒と
      話すうち、「されど空の深さを知る」と続くと言われて驚いた。昔はそ
      んなことを言う人もなかった。調べてみると、NHKテレビ「新撰組」
      の中でも使われていたようだ。どうなっているのか。
       このような「続き」のパターンには、次のようなものがある。いずれ
      も出典が不明である。

        されど空の深さを知る
        されど天の深さを知る
        されど空の高さを知る
        されど空の高きを知る
        されど空の青さを知る

       そもそもこの言葉は、あの「荘子」にあるものだ。井桁に足を掛けて
      いた蛙が東海に住む亀に向かって「私はこの古井戸を独占し、居ながら
      青天を望むことが出来る。君もここへ入ってみなさいな」と自慢したと
      き、亀は井戸に入ることも出来ず、大海の広さについて話して聞かせ、
      蛙はただ驚き、亀は蛙の見識の狭さに呆れた、という話だ。これをもと
      に、「狭い世界に閉じこもって、広い世界のあることを知らない。狭い
      知識にとらわれて大局的な判断のできないたとえ。(大辞林)」という意
      味合いで使われるようになったのだ。
       そんな蛙の立場をかばって生まれたのが、前述の「されど……」の言
      
葉なのだろう。お前は井の中の蛙だと言われた誰かが反論して言ったも
      のかも知れない。相手の信念や立場を考えない批判に一矢報いた形か。
       人間の能力には限界がある。広くて深い海は望めないとなれば、深く
      狭い井戸が良いか、浅くても広い海がよいかだ。ボクは浅くてもいいか
      ら、温泉が希望である。
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 7/29  わけが分からない

       こういう場合、「わけ」は「訳」と書く。「理由」の意味の「わけ」
      だ。けれど、この言葉を使うのは、理由が分からないのではなく、それ
      も含めた事情が分からない、混乱していると言いたい場合だ。「いった
      い何がどうなっているのだ」という思いを表すわけだ。
       ボクはこれを「分けが分からない」と考えた。「分け」とは「何がど
      うなっているのか」ではないかと思うのだ。そして、これに「訳」とい
      う文字をあてたのではないだろうか。
       「内訳」と書いて「うちわけ」と読むが、これは「内分け」とでも言
      うべきものだ。「全体ではなく、個別に細かく示すとこうなる」を表す
      から、「何がどうなっているのか」に違いない。「訳」とは「分け」で
      あり、つまり、細かく言わないと意味がないということになる。
       こういったことを最もよく表すのは「訳あり」という言葉だ。いろい
      ろ込み入った事情があるのを、あっさりと一言で表している。何かの広
      告で「わけあり品」と書かれているのも悲哀を誘う。聞いてくれるな、
      と言われているようだ。
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 7/28  瓜に爪あり爪に爪なし

       子どものころ、母に教わったことだ。教室で生徒にも教えている。な
      かなかリズムもよいから、生徒も覚えが良いようだ。
       十二支のウマは「午」と書くが、ボクは昔「牛」と間違えていた。ウ
      シは「丑」の字が当てられているから、十二支にウシが二回登場した。
      やがて、「ウシには角があるがウマにはない」と気がついた。
       「戌(イヌ)」の字には横棒がある。「戊(ツチノエ)」にはない。「戉」
      はこう書いて「まさかり」と読む。「戍」は「まもる」だ。だれか良い
      知恵をくれないだろうか。
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 7/27  売家と唐様(からよう)で書く三代目

       初代は苦労して財をなし、二代目はそんな親の苦労を見ているから教
      えを守って経営し、しかし三代目ともなると、甘やかされて苦労もなく
      育ち、遊びに散財してつい豪邸を売りに出す。その時の貼り札の文字が
      しゃれた中国風であったのが悲哀を引き立てているというのだ。申し訳
      ないが、この言葉を初めて知ったときは、笑ってしまった。高校のころ
      だ。
       しかしまあ、そんな特技を身につけているところがよろしいではない
      か。特別な技能を持つこともなく破産するよりは、何か温かさを感じる
      思いだ。
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 7/26  李下(りか)に冠(かんむり)を正さず

       李(すもも)の木の下で冠の具合を直せば、あたかも李の実を盗もうと
      するように見えるからやめなさいという意味。初めてこの言葉に接した
      ころは、なるほどと思ったが、今では何だか妙な感じ。冠をかぶった人
      物を、たまたま手を挙げていたからといって泥棒と見なすなんて、まず
      それがおかしいと思うのだ。
       それからあなた、その下でこそこそしていると果実泥棒に見えるよう
      な木の下で冠を直すと、一歩動けば木の枝が冠に引っかかるだろうから、
      冠が直したければ、木の下から出た方がいいですよ。
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 7/25  夏の虫氷を笑う

       夏の虫は凍てつく冬を知らぬので、氷などというものがあろうなど、
      信じられない。それで、氷というものがあるという話を聞いて笑うとい
      うのだ。そんな冷たく固まった水などあるわけがない、と。
       受験を経験しない中学生よ、君たちの冬は実はすぐそこにあるのだ。
      見たことはなくとも、冬の氷は現実だ。夏休みは、勉強すべし。
       昔はこんな説教めいたことは考えもしなかったが、子どもが昆虫採集
      や川遊びをしなくなり、エアコンの効いた部屋でゲームやインターネッ
      トに夢中になるに至っては、本でも読んでいなさいと言いたくなる。
       中学生よ、勉強しなさい。バカな遊びをするよりはその方がいい。
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 7/24  長い物には巻かれよ

       初めてこの言葉を聞いたとき、ボクは敷き布団を体に巻き付けて遊ぶ
      少年だった。誰かにぐるぐる巻きにされるのは、適度な包まれ感があっ
      て心地よいものだった。だから、初めてこの言葉を聞いたときも、何だ
      かふとんにくるまれたような幸福感ばかりが伝わってきて、処世術など
      というずるい考えに結ぶことはなかった。むしろ、「そうそう、巻き付
      けてほしい」と思うほどだった。
       こういう素直な自分はどこに行ってしまったものか、ときどき寂しい
      と思う。
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 7/23  剃(そ)りたきは 心の中の乱れ髪 つむりの髪はとにもかくにも

       これは鴨長明の作だという。「つむり」は「頭」のことだから、「頭
      に生えている髪はともかくとして、心の乱れ髪を剃りたいものだ」とい
      う意味になろうか。修行をしても年齢を重ねても悟りにいたらぬという
      言葉は大いに謙遜を含んでいるだろうが、言葉通りに受けとめれば、不
      惑(四十歳)を迎えてなお惑うばかりの自分にはうなずけることだ。
       
       染めばやな 心のうちを墨染めに 衣の色はとにもかくにも
                            幸若舞「小袖曾我」

       出家は形ばかりではいけないようだ。心の中のその色まで出家らしく
      せねばならない。ボクには遠い道のりを感じる。
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 7/22  すべての道はローマに通ず

       古代ローマ帝国の最盛期には、世界各地からローマに道路が通じてい
      たことによることわざだ。手段や方法が違っても、同じ目的とするとこ
      ろに至ることや、真理は一つだということのたとえとして用いられる。
       ボクはこんな時代になってもカーナビを敬遠して使わないが、そのた
      め、しばしば道に迷う。その度に「どうせ道はつながっているんだから」
      と思うことにしている。多少の負け惜しみもあるが、こちらも真実だ。
       前任校の通勤初日、思いがけず車で畑の中に迷い込み、Uターンしよ
      うとして車輪が窪地に落ちて抜け出せなくなったことを思い出す。あの
      時は一時間も早く学校に着いてしまったので、余裕の時間を利用して近
      道を探していてこんな目に遭ったのだが、結局遅刻寸前、学校まで汗を
      かいて走っていったっけ。職員室に入るや、嗄れた声で「今年からお世
      話になる岸です。ただ今、車が畑から出られなくなりました。助けてく
      ださいませんか」と情けないお願いをしたことが忘れられない。あの時
      はまだ着任の挨拶も済んでいなかった。
       遠回りしても、結局道は通じていると確信する。ただ、道があっても
      通れるかどうかは別問題である。

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 7/21  なぶれば兎も食いつく

       おとなしいものの代表がウサギだと知れることわざだ。たぶん、誰か
      がやってみたのだろう。かわいいかわいいと、だっこしたり、耳を引っ
      張ったり、逆さ吊りにしたりの末、ウサギの不快感は絶頂に達したのだ。
       ウサギの歯は細く尖っているから、きっと痛かったはずだ。か弱いも
      のをバカにしてはいけない。
      「窮鼠猫を噛む」という言葉もあるが、ネコに追いつれらめたネズミの
      ことだ。こちらは攻める側も本気だという感じがする。使うときには区
      別したい。
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 7/20  七度探して人を疑え

       いや、ボクは人を疑うことはありません。ただ、何度も探して自己嫌
      悪に陥っているのです。大切な物だと思うと、捨てないようにとしまい
      込むのです。それを覚えていられない自分が嫌なのです。
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 7/19  夏座敷と鰈(かれい)は縁側がよい

       だれが言い出したものなのだろう。いい言葉だ。
       エアコン以前に電灯さえない時代。縁側は特等席だった。団扇を片手
      に夕涼み。冷蔵庫はないから、スイカや茄子を冷やすのも井戸や小川の
      水だったことだろう。
       そこに引き合いに出されたのは「鰈」である。縁側といえばヒラメが
      思いつくが、そんな贅沢を言わないところが庶民的だ。鰈だって、縁側
      は美味しいのだ。ことわざに残すのに安い方を選んだのは正解だ。
       最近の子がメロンは嫌いだとか言うのが信じられない。罰が当たる。
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 7/18  流れる水は腐らず (流水腐らず)

       間もなく夏休み。学校が休みだとなると、部活動のためだけに通勤す
      るのが億劫だ。何せ、片道一時間の距離なのだ。自分を流水にたとえ、
      動いているからこそ腐らないのだと思ってみるが、こういう考え方をし
      たくなるのはすでに腐っている証拠なのだろうか。
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 7/17  泣く子も目を見る

       大人は子どもをよく見ているものだと思う。そう、子どものころ、大
      泣きしながら大人の顔色をうかがっていた自分がこの言葉に重なる。大
      人が「泣く子も目を見る」と思って見ている間に、子どもだって「泣く
      ときは見られているのだ」と感じるものだと思う。
       子どもは純粋だとかいうけれど、大人への長い階段は、子どものころ
      から真っ直ぐに続いているのだ。
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 7/16
  泥縄

      「泥棒を見て縄をなう」を約めて「泥縄」という。もうすぐ終業式だが、
      ボクが初任のころ、明日が終業式という夜に「あれ、通知表、どこいっ
      ちまったあ」と通知表を探す先生がいた。翌朝、無事に見つけて書き上
      げていたのには驚いたが、さらに、終業式後の学活にも間に合わず、そ
      の場で書いて渡す先生がいたという伝説も聞いたことがある。
       こういうのも泥縄というのだろうか。縄をなっている側が追われてい
      る図である。
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 7/15  鳶に油揚げさらわれる

       果たして鳶は油揚げを食べるのか。鳶は猛禽類に属するが、豆腐から
      作られる油揚げを好むとしたら、かなりヘルシー志向である。ボクは揚
      げてない豆腐の方が好きだ。「せっかく豆腐なのに揚げちゃって……」
      と思うのだ。
       思えば、カレーうどんは、せっかくカレーなのにうどんだし、せっか
      くうどんなのにカレーがかかっている。イワナの骨酒も、せっかくのイ
      ワナが台無しだし、酒だってそのまま呑む方がおいしいはずだ。カプチ
      ーノコーヒーもおかしい。コーヒーそのままが一番なのに、どうして混
      ぜてしまうのだろう。ボクには理解できない。最悪なのは、「いか徳利」
      である。いか臭い酒なんて、飲みたいか?
       こう思うと、鳶だって、本当は揚げてない豆腐がいいのかも知れない
      と思えてくる。でも、あんな爪でつかんだら豆腐がグチャグチャになる
      から、油揚げで我慢しているのだ。
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 7/14  虎の威を借る狐

       学園もののドラマには、権力を笠に着たいやな教師が登場するが、た
      いていは教頭先生だったりする。しかし、現場で働く者には、あんな設
      定があり得ないことは丸わかりである。過去二十年、これまでにボクが
      職場を共にした教頭先生に、あんな腑抜けは一人としていなかった。当
      然だ。「教頭」なのだ。まさかと思いながら、ドラマを見る子どもたち
      があれを鵜呑みにしないか、少々心配だ。

       虎の威を借る狐の寓話は、「戦国策−楚策」に見える。虎に捕らえら
      れた狐が、「天帝が私を獣の長とされたのだから、私を食べると天帝の
      意に背く。嘘だと思うなら、どんな獣も私を見て逃げるのを、後につい
      て来て確かめよ」と言うので、虎はその後をついて歩く。確かに獣たち
      は皆逃げ出したが、虎は、獣たちが狐の後ろにいる自分を恐れて逃げた
      ことに気付かなかったというのだ。
       この虎の学習能力が気になって仕方がない。
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 7/13  虎を描いて猫に類す

       虎を描いてみたものの、仕上がりは猫になってしまったということだ
      が、動物園のなかった昔はこんなことも当然で、本物を知る人の方が少
      なかった。
       しかし、これはまだ「猫」に見えるだけ救われる。虎を描こうとした
      のだと想像もつこう。問題は、猫にも見えない結果を出してしまうこと
      だ。我が身を振り返ると、あてはまりそうな事実がいくつも思い浮かぶ。
      「猫に類す」の部分が、古くは「狗(いぬ)に類す」だったことを思わず
      にいられない。
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 7/12  虎は死して皮を留め、人は死して名を残す

       こういう言葉に接すると、自分の死を考えてしまう。何が残るであろ
      うか。借金とかそういうものではなく、名誉とか財産とか、何か格好の
      良いものを残せるだろうかと。
       こう考えてしまう自分に向き合うと、「死ぬ」ということが人にとっ
      ていかに決定的なものであるかがわかる。死んでからいろいろ後悔して
      も、手直しのしようがないのだ。死はその人の評価に決定的だ。ここに
      あるのは、「死に恥」の考え方だ。
       さて、死んでから周りの人があれこれ言ってくれるのは構わないが、
      どうせいつかは噂にも上らなくなるのだ。死後百年間も言われるのなら
      考えてもみようが、名が残ったとしても自らそれを知る術もない。
       今生きていることを大切にしようと思う。楽しければいいとか、そん
      な分別のないことは思わない。誰かに残したいような自分の証しを、そ
      のまま自分が味わいたいのだ。今日一日に感謝したいと思う。
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 7/11  さて、今日は、「春雨」と「ビーフン」についてである。しかし、ボ
      クにとって、実はどちらもあまりなじみの物ではない。初の出会いはど
      ちらも学校給食であった。うどんやそばに比べて、主食としての能力に
      欠けた食べ物だと感じていた。あれは腹一杯に食べる物ではない。しか
      してその正体やいかに。

      「春雨」…………緑豆、えんどう豆、甘藷、また馬鈴薯などのデンプン
              が主原料のもの
      「ビーフン」……米が原料

       違いはよく分かったが、あまり感動もなかった。そんなものなのだ。

       さて、ビーフンは「米粉」とも書く中国語である。しかし、これでは
      日本の「米の粉」の立場が危ういではないか。正月には餅をついて米の
      粉を振りかけて隣の餅とくっつくのを防ぐが、しっかり理解していない
      と、そのときビーフンを用意してしまいそうだ。
       いや、そんなバカなことは言葉の世界だけの話だ。
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 7/10  昨日に続いて、今日は「和牛」と「国産牛」である。

       「和牛」は日本の在来種をもとに、交配を繰り返して改良されたもの
      である。日本では現在、「黒毛和牛」「褐色和牛」「無角和牛」「日本
      短角和牛」の4種類しかない。ふむふむ、純血志向である。
       一方「国産牛」はそんな血統とは関係がない。一定期間(輸入されて
      から3か月間)以上日本国内で飼育されていれば「国産牛」と称される
      のだ。
つまり生きたまま輸入すればアメリカ産だろうがオーストラリア
      産だろうが、日本で3ヶ月以上飼育されていれば「国産牛」なのだ。
       これが人間だったら、こんな横着は許されない。海外から渡ってきた
      人物が、「私は日本に来て三月たったから、もう日本人ね」と言ったら、
      みな仰天だ。
       牛の世界は寛容である。
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 7/9   そう言えば、「似て非なるもの」に「しらたき」と「糸こんにゃく」
      があった。何がどう違うのか。調べてみた。

      「しらたき」………………ごく細く作ったこんにゃく
      「糸こんにゃく」…………普通のこんにゃくを細切りにしたもの

       なるほど、確かにそれは違う。しかし、違うと分かったものの、どち
      らが「ごく細く作ったこんにゃく」なのか、覚えていられる自信はない。
       さて、二つは違うと書いたところだが、現在は両方とも「しらたき」
      の製法を取り入れており、明確な違いは無いそうだ。こんにゃくを細く
      切る製法がないということは、つまり、どちらも細いすき間から押し出
      す作り方ということなのだろう。これはもう同じものだ。
       すると気になるのは、作っている本人がどう思っているかだ。出荷前
      の糸こんにゃくの山を前にして、「ああ、これは本当は糸こんにゃくで
      はないんだ。しらたきなんだ。ボクは世間をだましているのだ」と罪悪
      感にさいなまれている様子が目に浮かぶ

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 7/8   似而非……「えせ」

       似て非なるものを「似而非」という。こう書いて「えせ」と読むあた
      りから、もうなんだかあやしくて仕方がない。
       身の回りにある「似て非なるもの」を探してみよう。

       ・かにカマボコ (そうと知らされなければ、一生かにカマボコを食
                べて過ごしていた可能性もある。好きだ。)
       ・マーガリン  (初めてバターに出会ったときに、「なんだか臭い」
                と思った自分がいる。)
       ・魚肉ソーセージ(畜肉で作られたソーセージが「ソーセージ」で、
                小さいころから親しんできたこちらは「魚肉ソー
                セージ」という亜流なのだと知った日の悲しさ。
       ・予備校    (大学とか短大とかの仲間だと思っていた。「将来
                は○○予備校に入りたい!」というあこがれさえ
                持っていた。)
       ・真鍮くぎ   (純金でできた釘だと信じていた。兄がそう言った
                からだが。ボクはこの釘を集めたら金持ちになれ
                ると思っていた。)

       「似而非」を集めたというより、ボクが勝手に間違えたものばかり。
      しかも、なんだか貧乏くさいものばかり並んでしまった。
       ボクのうす暗い過去がみえるようだ。
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 7/7   今日の日を「七夕」と書いてタナバタと読む。いや、こう書いてそう
      読むのを不思議に思ったあの頃に帰りたい。原点に戻って音読みすれば、
      これは「しちせき」としか読めない。何故「たなばた」ぞ。

      たなばた 【《七夕》/棚機】
       (1)五節句の一。七月七日に行う牽牛星と織女星を祭る行事。庭に竹を
        立て、五色の短冊に歌や字を書いて枝葉に飾り、裁縫や字の上達な
        どを祈る。奈良時代に中国から乞巧奠(きつこうでん)の習俗が伝来
        し、
古来の「たなばたつめ」の伝説と結びついて宮中で行われたの
        に始まる。近世には民間にも普及。また、盆の習俗との関連も深い。
        七夕祭り。星祭。しちせき。[季]秋。
       (2)機(はた)を織ること。また、その人。たなばたつめ。
       (3)織女(しよくじよ)星。たなばたつめ。
        「―の渡る橋にはあらで/枕草子 99」      
(「大辞林」)

       そこで「たなばたつめ」を引くと、「たなばたつめ【棚機つ女】」と
      いう書き方に出くわした。なるほど、これは機織りの女だ。
       いや待て、この日は、牽牛と織女の二人の記念日のはずだ。どうして
      「たなばた」などと女性の側ばかりの名前にしてしまったのか。これで
      は牽牛の立場がないではないか。
       かといって「七夕」と書いて、「うしかい」と読むとか言われたとし
      ても、ちっともロマンチックではないのだ。

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 7/6   皿なめた猫が科(とが)を負う

       この猫が皿をなめたのは、どうもおいしい匂いがついていたからで、
      その匂いのもとを食べた猫はとっくにどこかに消えてしまっている。お
      いしい思いをしたものが叱られず、あとからやってきた鈍くさいものが
      叱られるというのは、理不尽なものだ。
       子どものころ、仏様のお供えのお菓子をおやつ代わりに食べた兄の食
      べ残しを発見したボクは、残りを食べておいてこの事実を親に言いつけ
      ていた。
       皿をなめたからと言って科を負うとは限らないのだ。
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 7/5   三尺下がって師の影を踏まず

       「『三歩下がって』が正しい」と言われそうだと思ったが、所詮、師
      の影を踏まない心得などないのが現代だ、どちらでも良いのだと気づい
      た。ともあれ、見出しの形は、安土桃山時代のものだ。この時代には、
      「三尺」だったのだ。
       「三尺」と「三歩」とで、どちらが長いか問題にされそうだが、ボク
      の経験では、これは同じ長さ。畳の短い方の長さを三歩で歩くのが正し
      いと、小さいころに教えられたのだ。ボクの家は寺だったので、きっと
      修行僧がそう歩くのを子どもに教え込もうとしたのだと思う。
       もちろん、遊び盛りのボクがそんなことを守れたわけがない。覚えた
      のは、畳は短い方が三尺だというミニ知識ばかりだった。
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 7/4   二階から目薬

       いつだったか、朝のテレビ番組で二階から目薬を差す実験をしていた
      ことがある。なかなか入らない、これはもどかしいと騒いでいたが、よ
      くよく考えると、あんな水みたいな目薬は最近のもの。昔の目薬は軟膏
      だったので、ポトリとも落ちないものだったはず。
       長い棹を持ってきて、一階にいる人の目に目薬を塗り込む実験をする
      のが正しかろうが、誰が実験台になるものか。
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 7/3   鑿と言えば槌(「のみといえばつち」)

       鑿は木材に穴を開ける道具だが、カナヅチがないと用をなさない。だ
      から、「鑿を持ってこい」の声には槌も持ってくるのが賢い弟子の証拠
      だったのだ。さもないと、「鑿と言えば槌!」と叱られたりしたのかも。
       ボクは子どものころ、祖父がタバコを持ってこいと言うのでタバコを
      持って行き、「タバコといわれたら灰皿も持ってくるものじゃ」と言わ
      れたことがある。しぶしぶ灰皿を取ってくると、さらに、「灰皿と言わ
      れれば、マッチも持ってくるのじゃ」と言われた。
       この折に、あんな大人になるものかと心を決めたことを、このことわ
      ざは思い出させてくれた。
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 7/2   ミイラ取りがミイラになる

       だいたい、ミイラに何の用事があるというのか。静かに寝ているのに
      どういうことだと思ったら、なんと、ミイラは薬の原料にされていたの
      だ。ミイラを掘り出して、そこから抽出した油が薬になるのだという。
       しかし、実際にミイラから薬を作ったものかどうか、あやしいものだ。
      ことわざのもととなった油はどうやらミイラを作るときに使用されたも
      ので、ミイラから抽出しなくても手に入るものだ。これが西洋社会で珍
      重され、やがて江戸時代初期には日本にも渡って来たのだそうだ。きっ
      と、ミイラから取った油だとして売られたに違いない。
       さて、これは万能薬だというから、がまの油のようなものか。まさか
      露天商では扱わなかっただろうが、もし売られていたとしたら、どんな
      売り口上になったものか、気になるところだ。
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 7/1   ミイラは漢字で「木乃伊」と書く。どう見てもおかしい。こんなの、
      「キノイ」だ。意味もわからない。
       かような違和感を感じて何年になるだろう。ようやくこのほど、「木
      乃伊」がオランダ語「mummie」の「漢訳語」なのだと気がついた。そう、
      英語でいう「mummy」=マミーだ。これを漢字で「木乃伊」と書くのだ。
      そう思って「木乃伊」の三字を見ていると、なんとなく「モァミイ」と
      読めてくる。ちょっとうれしい。
       いや、すると「ミイラ」という読み方がどこから来たのか分からない
      じゃないか。責任者、出てこーい。
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