今日の言の葉 

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 7/31  笑う

       山道を下っていて、膝が笑って困ったことがある。それも何度も。そ
      の度に「膝が笑うって、どういうことだろう」と考えるのだが、麓に着
      くころには忘れてしまう。「大辞林」によれば、「笑う」とは、次のよ
      うな意味である。

      (1) おかしさ・うれしさ・きまり悪さなどから、やさしい目付きになっ
        たり、口元をゆるめたりする。また、そうした気持ちで声を立てる。
      (2) (「嗤う」とも書く)ばかにした気持ちを顔に表す。あざける。嘲
        笑する。
      (3) つぼみが開く、花が咲く。
      (4) 果実が熟して割れ目ができる。
      (5) 縫い目がほころびる。
      (6) しまりがなくなり、十分に働かなくなる。しっかりとしなくなる。
       
       つまり大まかに言えば、なんとなくだらしなく口が開いている様子を
      表す言葉だと言えなくもない。「膝が笑う」もだらしないではないか。
      踏み出した一歩が覚束ない。大地を踏みしめる実感もないまま次の一歩
      に移ってしまうのだ。
       興味深いことに、「笑う」の見出し語に「咲(わら)う」が併記されて
      いる。花が咲くことを「笑う」と書くのは洒落た表現だと思っていたが、
      そもそも花が咲くことを「わらう」と表現していたのではないか。それ
      を人に当てはめていったのかも知れない。一つの可能性ととらえたい。
      まだこれから調べたいと思うところだ。
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 7/30  先頃、大手化粧品メーカーの大規模な不正が明らかにされた。決算書
      にごまかしがあったということで、そういう決算を「ふん飾決算」とい
      う。額にして、2000億円。この会社の会計士は何をしていたのか。
       ところで、この「ふん飾」を漢字で書けとなると、「粉飾」だったか
      「紛飾」だったか、分からなくなる。決算を誤魔化すのだから、やはり
      「紛らす」だろうとか、いやいや、粉をかけてデコレーションするイメ
      ージで「粉」がふさわしいとか、ほんの一秒の間に様々に思考が展開す
      る。そんなことを毎度繰り返すのはボクだけだろうか。

       正解は「粉飾」だが、なぜ「粉」なのか。納得できない思いでじっく
      り辞書を調べると、「扮飾」という表記がある。ああ、なるほど、こち
      らが本家に違いない。仮装行列などで何かに「扮する」と使う文字だ。
      「扮装」という言葉もある。つまり、「粉飾」は「扮飾」の書きかえだ。
      本来使うべき「扮」の字が常用漢字表にないから、「粉」で代用してい
      るわけだ。
       思うことは二つある。一つは、こんな簡単な漢字一つをなぜ常用漢字
      に入れなかったのかということ。そのために「粉」か「紛」かで迷う男
      がここにいるのだ。全国には何人いるだろう。
       二つには、この字の書きかえを「粉」と定めるときには、担当の委員
      会はさぞやもめたことだろうということだ。多くの委員がどちらもいい
      なと迷っているときに、「粉で飾るんだよ!」と言い切った委員がいた
      のかも知れない。常用漢字の発表は1981年、四半世紀前のこと。真相は
      闇の中である。
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 7/29  「享」の字

       この字が名前に入った方を何人か知っている。享子、享一などのお名
      前だが、ご自身の名前を人に説明するとき、なんと表現されるのだろう。
      「享年」の「享」に……などと説明しておいでではないかと思うのだ。
      それ以外の説明の仕方では、分からない人が多かろう。
       この字に出会うのは、ほとんどが葬儀の場面である。故に、「享年」
      とは「亡くなった年」のことだと早とちりしてしまいそうだが、この字
      に「死」の意味はない。これは、「天から授かった」ことを表す文字な
      のだ。「享受」の語がまさにその意味である。
       だから、「享子」「享一」の名前は、その子が天からの授かりものだと
      いうことを表す。天に感謝する、素敵な名前ではないか。
       
      きょうねん きやう―【享年】〔天から享(う)けた年の意〕
       人の生きていた年数。死んだときの年齢。行年(ぎようねん)。
       「― 六五」                (「大辞林」から)
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 7/28  さす

       最近になって、「流れに棹さす」の意味が話題に上るようになった。
      時流に乗って勢いをつけるという意味だが、逆に捉える人が多いという。
      それをもって、言葉は乱れていると結論づけたがる向きもあるようだが、
      そういうことだろうか。使われなくなった言葉が意味を薄めてしまうの
      は当然のことだ。思い出したように蔵から出された言葉を知らないこと
      の何が悪い。
       この言葉が誤解され、「流れを押しとどめる」の意味に理解される理
      由を考えてみると、「さす」の語の使われ方に思い至る。

       差す 魔が差す 影が差す 嫌気が差す 差し支える
          差し障る 差し押さえる 

       刺す 蜂に刺される とどめを刺す 一塁ランナーを刺す
          鼻を刺す 寒気が肌を刺す

       どうも「さす」には、マイナスのイメージがつきまとう。聞いたこと
      もない「流れに棹さす」を誤解する人が多いのは当然至極ではないか。
      むしろ、この言葉を知りながら使わなくなっていった、「知ってる大人」
      こそが責任を問われるべきだ。安易に若い世代を責めないでほしい。
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 7/27  天に唾する

       逆らってはいけないものに逆らう意味だと思う人も多かろう。しかし、
      これは、天に向かって唾を吐けば自分の顔に落ちてくることから、悪事
      をはたらこうとして、かえって自分の身に悪事が降りかかることを言う
      言葉である。「天を仰いで唾(つばき)する」の形が正しい。
       この言葉を聞いて思い出すのは、「獅子身中の虫」だ。寄生虫が獅子
      を殺すとき、それは虫自身の破滅を意味するではないか。
しかしながら、
      「獅子身中の虫」にそのような深い意味はなく、内部の者でありながら
      その組織などに害を与える者のことを言うに留まる。組織に害が及んだ
      ら、自分も困るはずなのに。そういうことを書いている辞書はないだろ
      うか。

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 7/26  人間であれ動物であれ、幼いときは活発で、長ずるにつれて動きが少
      なくなる。老年となれば、犬も猫も走り回ったりしないものだ。年少の
      ものがやたらと動くのは、エネルギーが盛んに湧き出る証拠である。大
      人は自分がかつてそうだったことも忘れて、「おとなしくしろ」という。
      いや、それが良くないと言いたいのではない。むしろ、その逆だ。
       「おとなしい」を漢字で書くと、「大人しい」になる。これを「大人
      は動かないものだ」と捉えるのはつまらない。「おとなしい」は動きが
      少ないだけではなく、大人のような、十分な思慮のある落ち着きがある
      ようすであると捉えたい。「いつまでも少年の心を失いたくない」など
      と言う大人は、ほかの大切なものを失うことを忘れてはいけない。

      おとなし・い 【《大人》しい】
       (形)[文]シク おとな・し 〔「おとな(大人)」の形容詞化〕
      (1) 性格が穏やかで素直だ。落ち着いて静かだ。
      (2) 派手でなく落ち着いていて好ましい。
      (3) 大人である。年長である。
      (4) いかにも年長者らしい。
      (5) 大人っぽい。大人びている。(「大辞林」より。用例は省略。)
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 7/25  ぞっとしない

       こういう言い方をする人も少なくなった。意味が捉えづらい言葉は消
      えていくのが当然だ。これは「感心しない。うれしくない(大辞林)」と
      いう意味合いの言葉なのだ。ひねった表現だと思う。
       近年、「鳥肌が立つ」は、感動が大きいことを表す褒め言葉になりつ
      つあるが、ここで言う「ぞっとしない」は、いわば「鳥肌の立たない」
      ということではないかと思う。感動するときは、「ぞっとする」ときで
      はないだろうか。
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 7/24  「間違いだらけの日本語」(一校舎国語研究会 永岡書店)に、敬語の
      使い方についての問題が出ていた。次のうち、敬語の使い方から見て、
      一般的にあり得ないと考えられるのはどちらかという問題だ。

       1.部長、社長がお呼びです。
       2.社長、部長がお呼びです。

       答えは「2」だと書かれていた。当然だろう。しかし、ボクは「敬語
      の使い方から見て」などと言っていてはいけないと思う。例文2では、
      部長が社長を呼び出しているようだが、敬語がどうのということではあ
      るまい。そんな会社はおかしいと思う。
       ボクが高校生の時、同級生のYが先生と距離を隔てて口論になるとい
      うことがあったが、収拾がつかず、Yは十数メートル離れた先生に対し
      て、「ちょっとこっちへ来てください」と大きな声で言うのだった。聞
      いた先生はますます腹を立て、「お前、先生に対して、こっちに来いと
      言うのか」と牙をむいた。「来てください、と言ってるんです」とYは
      焦って丁寧さを強調したが、言葉が丁寧でも、「来い」と言っているこ
      とに変わりはない。
       ボクは二人のやりとりがあんまり大声なので聞くともなしに聞いてし
      まったが、ああいう言い方をするYは間違っていると感じていた。彼は
      ボクと同年なので、現在四十四歳。そういう感覚に変化はあるのだろう
      か。ふと心配になった。
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 7/23  うでる

       ボクの祖父はうどんが好きだった。よく「うどんをうでてくれ」とか
      言っていた。「ゆでてくれ」の間違いだと思っていたボクは、祖父がそ
      ういうことを言うのが気になってならなかった。恥ずかしい方言だと感
      じていたのだ。
       しかるに、「うだるような暑さ」を漢字を使って書けば、「茹だる」
      になることに先頃気づいた。どきどきしながら辞書を見れば、「うでる」
      も出ていた。漢字を使って、「茹でる」と書かれているではないか。
       祖父に謝りたいが、二十五年も前に他界している。
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 7/22  おビール

       外来語には「お」はつけない決まりだから、「おビール」は正しくな
      い。そう習ったので、身の回りの大人たちに「間違ってるよ」と伝えた
      ものの、「おビール」はいっこうに止むことがなかった。小学生のボク
      が努力の限界を感じたのはこの時が初めてである。
       さて、「御」の字を「お」と読むか「ご」と読むかは、どうやら後に
      来る言葉が「音読み」か「訓読み」かによるようだ。「お魚」「おはし」
      「お知らせ」のように、後に訓読みの言葉が来るときは「お」であり、
      「ご来光」「ご実家」「ご説明」のように、後の言葉が音読みの場合は
      「ご」が頭に付くようだ。
       こういうルールに気がつくと、いろいろと考えたくなってしまうでは
      ないか。「お茶」というが、あれは訓読みなのだろうか。「お世話」の
      場合は、「世話」が音読みと意識されていなかったからであろうか。ま
      た、「おビール」と言っても「ごビール」と言わないのは、「ビール」
      は知らぬ間に訓読みとして意識されているからかも知れない。
       このように考えると、後に来る言葉が音か訓かというよりは、その言
      葉が自分たちの生活に密着したものであるかどうかが「お」と「ご」を
      分ける気がしてくる。なじみの深い言葉は、生活に溶け込んでいるから、
      堅苦しい「ご」なんて付けないのだ。「お菓子」も「お煎餅」も、音読み
      の言葉なのに「お」を付けるのは、そういうものが特別の存在でないこ
      とを表すと思う。
       どちらも使えるなあと思うのは、「御餞別」である。なじみのあるよ
      うな、ないような言葉であるし、なじむのもどうかなあと思うのだ。
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 7/21  すもうは、「相撲」と書くかと思えば「角力」とも書く。書き方が二
      つあるのは、何かうらやましいことに思える。「関取」と言ったり「力
      士」と言ったりするのも、面白い。しかし、すもうのインタビューでは、
      「関取、いかがでしたか」と呼びかけることはあっても、「力士」と呼
      ぶことはない。「ねえ、先生」とは言っても、「ねえ、教師」と言わな
      いのと似ている。「関取」には、尊敬の意味合いが込められていると思
      うのだ。厳しい角界を、よくぞそこまで出世なさったとの思いである。
      「関取」は、十両以上の呼び方である。
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 7/20  お持たせ

       ボクの両親は昭和ひと桁生まれ。ともに健在である。先日、久しぶり
      に顔を見に行ったが、手ぶらで行くのもどうかと思い、焼き菓子を買っ
      ていった。受け取った母は、コーヒーがいいか茶がいいかと聞いて、茶
      請けの菓子にボクの土産を選んだ。「お持たせで良ければ」と言いなが
      ら。
       「お持たせ」とは、客をもてなすのに客が持参した食べ物を使うこと
      を言う。こちらで準備せず、相手に持ち込ませた、運ばせた、と言明す
      ることで、詫びる思いを表すのだ。
       そんな言葉を母が使うのは初めて見た。そして、それを意外に思う自
      分がいた。母には使えない、似合わないと思っていた自分を恥ずかしく
      思った。
       ボクも成長する。その間に母も成長するのだ。母は今年で七十三歳に
      なる。老後とは、ただ衰えるものではないと改めて実感した。
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 7/19  飴ちゃん

       おいしい物はほかにもあるのに、なぜか飴には「ちゃん」がつく。優
      しい言い方だと思う。しかし、成人した男はあまり言わない。「男たる
      もの」の発想だろうか、飴もあまりほしがらないし、食べ物に「ちゃん」
      はつけないものだ。
       いろいろな物に「ちゃん」をつけてみたいが、似合う物がない。「鉛
      筆ちゃん」「リモコンちゃん」「スプーンちゃん」……どれもおかしい。
       ふと、「とんちゃん」が思いつく。豚のホルモン焼きのことを名古屋
      近辺ではこう呼ぶのだ。そういえば、「けいちゃん」というのもある。
      こちらは鶏料理だが、あまり有名でない。どちらも酒に合うようだ。
       この二つを漢字で書けば、「豚ちゃん」「鶏ちゃん」だ。「ぶたちゃん」
      「にわとりちゃん」と訓読みしないところに、「かわいく聞かれたくな
      い」意識を感じる。わずかに男の領域であるということか。(今日の話
      は、関東の人には分かるまい。)
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 7/18  熱くなっております。お気をつけ下さい。

       どんな機会だったか、よそでお茶をいただくことがあったが、出され
      るときに「少々熱いですよ」と一言添えられたのが、大変印象に残った。
      こちらへの心配りがうれしかったのだ。白磁の涼しげな茶碗に、汗も引
      くような、意外なほど熱いお茶が入っていた。
       気がつけば、いつしか、こういうことを言うのがマナーのようになっ
      ている。外食に出ると、「熱くなっております」を聞かないことは少な
      くなった。マニュアルになっているのだろうか。
       焼き肉屋で石焼きビビンバを注文すると、ジュウジュウと音を立てて
      分厚い石鍋がやってくる。ゴトリと机に置くその時、「お鍋の方、熱く
      なっております。お気をつけ下さい」と一言。ファミリーレストランで
      ハンバーグセットを頼んでも、油を弾いて登場した鉄板は、「熱くなっ
      ております。お気をつけ下さい」と言われて置かれる。
       この言葉に以前のような心遣いを感じないのは、「熱いのは見れば分
      かる」と思うからだ。ジュウジュウいうのも聞こえるではないか。だい
      たい、ボクは熱いのを注文したのだ。当たり前のことを言わないでほし
      い。機械的に言ってるのだろう。その口調から分かる。
       熱くないように見えて実は熱いというときに聞いたら、もっと素直に
      感動できるのだろうか。そんな気もするし、そうでない気もする。
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 7/17  金と銀

       発音上、金と銀ではどちらが澄んでいるか。それは、金である。「ギ
      ン」は濁音を含むのだ。しかし、金のスプーンと銀のスプーンで、どち
      らが澄んでいるかと問われれば、きっと多くの人が「銀」と答えるだろ
      う。金は黄色味が強い分、透明感が薄いのだ。鏡だって、銀色だ。金色
      だったら、どんな顔色に映ることか。
       そういうわけで、ボクは子どものころ、金より銀の方が価値があると
      思っていた。大人の金歯もなにか汚く見えるだけだった。銀歯の方が自
      然だし高貴だと思っていた。だから、どうして金メダルが銀メダルより
      上なのか、理解できなかった。
       この価値観が逆転するのは中学に入ってからだった。科学に詳しい仲
      間がいて、「銀は様々に化学反応を起こすが、金はどんな物質とも結び
      つかず、安定している。硫酸にも溶けない」などと言うのだ。そういう
      物知りに対して、「しかし王水には溶ける」と反論する強者もいたが、
      金の優位は揺るがなかった。
       いつだったか、硫黄成分の強い温泉に銀の指輪をつけて入って大騒ぎ
      した人を見たことがある。銀が硫黄に反応して変色してしまったのだ。
      銀は永遠の象徴たり得ないということを、ボクはこの時知った。温泉な
      んて、体にいいのに……。銀は思ったよりだらしないのだ。
       そういうことだから、発音上、多少濁っているのも仕方ないと思う。
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 7/16  難しくて漢字で書けないという言葉は、世間でも「漢字で書かない」
      が常識だ。「憂うつ」や「ばら」など、よく使う言葉にも当てはまる事
      実である。

       雨だけど、こうもり傘をさして行こう。みんなでキャンプ。飯ごう
      さんをするんだ。魔法のじゅうたんで飛んでいきたいね。

       漢字で書けば、「蝙蝠傘」「飯盒炊爨」「絨毯(絨緞)」となる。こうなる
      と、楽しい気分はどこへやら、たちまち黒雲わき起こり、コウモリの大
      群とともに魔神がやってくるようだ。
       漢字を使うかどうかの判断には、その漢字が書けるかどうかばかりで
      なく、それ以外の要素が関わっているような気がする。
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 7/15  なのだ

       文末に「なのだ」をつけると、感じが変わる。

        a.今日はボクの二十五歳の誕生日だ。
        b.今日はボクの二十五歳の誕生日なのだ。

       aとbとでは、緊張感が違う。いつものように眠い目をこすり、いつ
      ものように出かけていくaに対し、bは、二十五にもなって今日もコー
      ヒーをこぼし、またネクタイがうまく締められない自分をかこつ感じが
      するし、二十五だから何とかしなくちゃという焦りもあるようだ。

        c.現代人に必要なのは、ゆとりだ。
        d.現代人に必要なのは、ゆとりなのだ。

       こちらは「ゆとり以上に大切なものがあるのか」という気合いの入れ
      方が違う。さらりと言いのけるcに対して、dは、「わからんのか」と
      机を叩いている。お金も名誉もいらない、時間や心のゆとりがほしいの
      だよ、とcは言うのである。
       文末あなどるべからず、である。「なのだ」をつけるとそこに注目し
      たくなる。つまり、使いすぎると目が回るということでもある。
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 7/14  うどん屋の看板に「麺」の字が入っているのは珍しいことではないが、
      昨日見たのは、「面」の部分を平仮名で「めん」と書いた文字だった。
      「麦」+「めん」である。夜間は内部に明かりがともる、うどん屋によく
      ある箱形の看板。なかなかの達筆だった。
       漢字の一部を平仮名で書くのは、間違っているが、商売には面白い。
      文化の破壊だとも思うが、「で愛・ふれ愛」など、平仮名で書くべきを
      漢字で、それも全く意味の違う漢字で表記して知らぬ顔の行政のことを
      思えば、うどん屋一つで腹を立てることもあるまい。まさかそのうどん
      屋が原因で「麺」の字が駆逐されるということもないからだ。
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 7/13  ウスバカゲロウ

       昆虫図鑑はワンダーランドである。誰がこんなものを考えたのか、と
      驚くような、不思議なデザインにあふれている。子どもたちが夢中にな
      るのももっともだ。
       数ある昆虫の中で、幼いボクが最も興味を引かれたのは、アリジゴク
      である。すり鉢状の巣を作り、そこにうっかり足を踏み入れた不運なア
      リは、這い出ることもかなわずその牙にかかるという。しかもアリジゴ
      クは、逃げようとするアリに、砂をパッパとかけて逃がさない。まさに
      そ
の名にふさわしい悪行ぶりである。顔つきも憎らしい。ボクは寺や神
      社の裏に回っては、アリジゴクの巣を見つけ、アリを巣に落とし、アリ
      ジゴクが喜んで盛んに砂を浴びせるのを飽きずに見ていたものだ。
       その成虫ウスバカゲロウは「薄羽蜻蛉(蜉蝣)」と書くのだが、昆虫図
      鑑では、漢字ではなくカタカナで表すので、ボクは読み違えて「薄馬鹿
      下郎」だと思っていた時期がある。幼虫のころは怖かったが、大きくな
      れば怖くない。ふわふわするだけのお前には、薄馬鹿下郎の名前がぴっ
      たりだ。
       そういう悪意ある命名だとばかり思っていた。
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 7/12  「スパゲッティ」と呼ばれていた物が、いつの間にか「パスタ」と名
      を変えた。世の中の流れは速い。そういえば、かつて「ホック」だった
      物は「スナップ」になり、「チャック」は「ファスナー」「ジッパー」に
      なり、「BG(ビジネスガール)」は「OL(オフィスレディ)」と名を変
      えた。そして「チョッキ」は、今や「ベスト」としか呼ばれなくなった。
      実体は変わらないのに名前だけ変えるのは、芸能界ばかりの話ではない。
      新しい「パスタ」に慣れねば。パスタ、パスタ。
       やがて、無理なく「パスタ食べたいな」と言えるようになったころ、
      ふと辞書を見てがっかりした。

      パスタ [(イタリア) pasta]
       小麦粉をこねて作る、イタリアの麺類の総称。スパゲッティ・マカロ
       ニ・ラビオリ・カネロニなど。        (「大辞林」より)

       「パスタ食べたい」は具体的ではない。パスタにもいろいろあるのだ。
      「パスタ食べたいな」では、「で、何にするの」となってしまう。
       結局何を食べたいかというと、やはりスパゲッティである。マカロニ
      でお腹いっぱいになりたくない。あれは、サラダに入っていればよいの
      だ。それから、ラビオリだのカネロニだの、知らない物は怖くて頼めな
      い。
       胸を張って「スパゲッティ」と呼んでいたあのころが懐かしい。
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 7/11  ウツボ

       小学生のころ、魚類図鑑を見て「ウツボ」なる魚を見つけた。どう猛
      な魚であるらしく、海に入るときは気をつけようと思った。やがて、植
      物図鑑に「ウツボカズラ」を発見した折には、それが食虫植物というこ
      ともあり、ウツボと名の付く物は皆恐ろしいと思いこんだ。矢を入れる
      器も「靫(うつぼ)」と呼ぶではないか。
       しかし、「うつぼ」の語の意味は、どうやら「中が空っぽ」というほ
      どのものらしい。先の三者に共通するのは、口から覗くと中が空っぽと
      いうことではないだろうか。ネギのことを女房言葉で「うつぼ」という
      らしいが、なるほどネギは中が空洞である。
       よく調べると、「空」と書いて「うつぼ」または「うつお」と読むこ
      とも分かった。意味はもちろん、中ががらんとしていることである。こ
      の辺りが「うつぼ」の意味の始まりなのであろう。
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 7/10  諦める

       もうだめだ、と諦めるには、大切な条件が一つある。それは、願いの
      実現のために努力することだ。努力もなしに「だめだ」と思ったとして
      も、それは、何一つ「あきらめた」ことにはならない。
       「諦」の字が含まれる言葉を探してみると、次のような結果である。

      ていねん 【▼諦念】
       道理を悟って迷わない心。また、あきらめの気持ち。

      ていちょう ―ちやう 【▼諦聴】 (名)スル
       注意してよく聞くこと。

      ていし 【▼諦視】 (名)スル
       じっと見ること。見きわめること。諦観。

      ていかん ―くわん 【▼諦観】(名)スル
       (1) 全体を見通して、事の本質を見きわめること。
       (2) 悟りあきらめること。超然とした態度をとること。

       これらに共通するのは、「事実を見極める」ことではないだろうか。
      つまり、もともと「諦」の字には、「これはあかん」の意味はないのだ。
      事実関係をはっきり理解することこそが本義なのだ。それが、今後の努
      力が実を結ばないという残念な未来を「明らかに認める」ことに使われ
      るようになり、現在の意味になったのだろう。さて、そう意識して、も
      う一度辞書を見てみたい。

      あきら・める 【▼諦める】(動マ下一)[文]マ下二 あきら・む
       望んでいたことの実現が不可能であることを認めて、望みを捨てる。
       断念する。思い切る。「登頂を―・める」     (「大辞林」)

       ボクには、「明らめる」の語が見える。
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 7/9    葦の髄から天井を覗く(よしのずいからてんじょうをのぞく)

       これを「あしのずいから……」と読む人は若い。「あし」という読み
      は「悪し」につながるので、これを嫌って、その逆の「よし(良し)」が
      しばしば用いられる。
       さて、この言葉だが、葦の茎から天井を覗いても天井の一部しか見え
      ないのに天井を全て見たと思うように、狭い知識や見識で大きい問題を
      判断することの愚かさをたとえたものだ。
       「井の中の蛙大海を知らず」の語とよく似ているが、ボクは違うと思
      う。「井の中の蛙」は、そもそも見識の狭い人を笑う言葉である。その
      点、「葦の髄から」は、自分の問題になっている。物事の一部しか分か
      らないことの不安や不便を嘆く際にも使うではないか。
       いや、どちらも使い方次第で、自分の問題になったりならなかったり
      するものだ。どんな警句も、それを自分に引き寄せる人にはプラスには
      たらき、
そうでない人には意味をなさないものである。
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 7/8   迷宮入り

       何事か事件が発生し、捜査はしたものの、結局真相が分からなくなり、
      なぞのまま闇に消えていくことをこのように言う。
       格好の良い表現だと思うが、そもそも「迷宮」とは何のことだろう。
      辞書を見てみよう。

      めいきゅう【迷宮】
      (1) 中に入ると出口がわからなくなるように造った建物。
      (2) 事件の捜査が困難になり、解決がつかなくなること。(「大辞林」)

       いかん。「出口がわからなくなるように造った建物」というものが理
      解を越えている。大きなショッピングセンターで迷子になることはある
      だろうし、出口がたくさんあってどこから出てよいのか分からなくなる
      ことだって、誰にも覚えがあることだろう。しかし、わざわざ「出口が
      わからなくなるように」造るなんて、考えられない。
       ギリシャ神話には、牛頭人身のミノタウロスという怪物が出てくる。
      その住み家が「迷宮」であったという。ここに迷い込んだものは二度と
      出ることができず、ミノタウロスの餌食となったらしい。これが迷宮の
      始まりだそうだ。ピラミッドも、盗掘に入ると出られなくなるようにで
      きているものがある。
       そして、ボクたち人間の一生も、出口の見えない迷宮のようなものだ。
      ……いや、だからこそ楽しまなくては。
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 7/7   一番風呂は馬鹿が入る

       これは冬のことわざかと思う。まだ浴室も冷え冷えとして、風呂に入
      ればぎょっとするほど熱かったり、下の方は水だったりと、一番風呂に
      は試練が多い。だから、「あんたら、風呂入らないかんよ」と言われて
      も、家内総出で牽制のしあいである。「あ、おれ、あとでいいわ」「あ
      たしも宿題すんでから」「今、テレビがいいところなんで」と理由をつ
      け、一番風呂を避けるのである。
       しかし、夏は違う。汗まみれ、垢まみれの時期には、一番風呂が一番。
      なんだか背中もかゆい。そんなときは、遅くに入って臭い湯を嘆くより、
      さっさとお湯をいただくのが得策というものだ。湯の量も多い。
       それはそうと、「一番風呂」という言葉には、後に続く人の多さが隠
      されていることを思いやってみたい。大家族の時代。一つの風呂に続々
      何人の人が入ったであろうか。ボクの母は十一人兄弟であった。家族一
      同の風呂が終わるころ、湯船はほとんど空であったと聞いた。
       そういう時代の、人々の息づかいを聞いていたい。
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 7/6   与党と野党

       政権を握るのが与党で、そうでないのが野党である。「野に下る」と
      いう言葉もあるし、「野」とは中心からはずれた、いわば脇役を表す言
      葉だ。ボクは小学校のころからそう理解して大きくなったが、大きく間
      違っていないと思う。しかし、「与党」が分からない。何かを与える党
      なのだろうか。
       
      よとう ―たう【与党】
      (1) 政党政治で、政権を担当している政党または政権を支持している政
        党。                   (「大辞林」より)

       実は「与」の字は、「与(くみ)する」と読む。手を組む、仲間になる、
      味方するという意味だ。つまり「与党」とは、内にも外にも手を取り合
      い、仲間を作って何事かを成し遂げようとする、そういう立場の政権政
      党を言うのだ。
       「大辞林」はその点慎重である。ちゃんと「政権を支持している政党」
      の言葉を付け加えている。「政権政党に与する」のが与党である。
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 7/5   やつ

       便利な言葉である。話したい物の名前が出てこない場合などに、その
      用途や特徴から説明し、話を進めることができる。例えば、「レンゲ」
      は「すくうやつ」、「おひつ」は「ごはん入れとくやつ」といった具合
      に使う。名前を思い出しているより、そういう簡便な言葉遣いでとっと
      と話した方が効率がよいのは明らかである。
       ところが、何にでも使えて便利なこの言葉は、同時にやや品がないの
      が難点だ。表現があからさまなので、気遣いに欠ける傾向がある。「も
      う少しお値打ちなのはないかしら」という問いに対して、「安いやつで
      すか。こっちのやつ
が値段も手頃です」と答えれば、なんだこの店員は、
      と思うはずだ。「いいやつ」「高級なやつ」「ブランドのやつ」のどれもが
      品がない。
       便利な言葉であるだけに、気をつけて使いたい。
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 7/4   夕立は馬の背を分ける

       夕立はざっと降ってざっと止むものだが、局地的な雨が移動しつつ降
      るからこうなるのではないだろうか。その局地的なことは、馬の背の右
      側で降っても左側では晴れているくらいだというのがこの言葉の意味で
      ある。
       言い得て妙である。隣の町に来て、「あれっ、こっちは降ってなかっ
      たのか」ということはよくある。さすがに「馬の背を分ける」は言い過
      ぎだろうが、そんなたとえ方に生活感があふれていて好ましい。馬が珍
      しいものでなく、日常的に見たり触ったりするものだったからこそ、息
      長くことわざとして残ったのだと思う。
       馬の背が、ちょっと大きめのものだというところも、言い過ぎを控え
      た適度な誇張を感じさせて良い。「猫の背」では小さすぎてウソになる。
      馬の背でもウソだろうが、ひょっとするとそうかも知れないと思わせて
      くれる。
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 7/3   若い世代の表現の特徴に、「形容詞の語末の『い』を省く」というも
      のがある。「せまい」は「せまっ」、「早い」は「早っ」、「長い」は
      「長っ」と言うのだ。なんともせわしない表現である。ゆったりと暮ら
      す人には使えない。例えば、悠々と老後を過ごす夫婦の会話を考えてみ
      てほしい。

      「あなた、お食事できましたわよ」
      「早っ!」
      「ビールも召し上がれ」
      「冷たっ!」
      「枝豆の茹で具合、いかがかしら」
      「まずっ!」

       ボクはこういう老後は過ごしたくない。
       まあ、台所で熱いものを触ってしまった場合などに「あつっ」と言っ
      てしまうのは自然なことだから、全否定するのはやめておこう。
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 7/2   「夏炉冬扇」という言葉は、時節に合わない無駄なものという意味で
      用いられる。確かに夏に暖房はおかしいし、冬に扇など用はない。ボク
      はその意味合いのばかばかしさを差し引いて、ただ語調が気に入って、
      よく使っていた。周りにそんなことを言う仲間はいないから、当然その
      場からよく浮いていたが。
       さて、この「夏炉冬扇」をしのぐ馬鹿さ加減の言葉がある。それは、
      「昼行灯(ひるあんどん)」である。これは、昼間から無用に明かりを灯
      す無駄を言うのではなく、「昼の行灯はぼうっと明るい」ことから「ぼ
      うっとしている人」を言うのだ。「夏炉冬扇」にはない侮蔑の意味がこ
      こにはある。

       しかし、用もないときにまで明るい人は、それはそれで大切な働きを
      しているのだと思う。世の中、明快な切れ者ばかりだったら、息が詰ま
      るというものだ。
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 7/1   時代劇には「おっとり刀で駆け付ける」という表現がある。どう見て
      も緊迫した状況のはずなのに「おっとり」とはどういうことだろう。小
      学生のボクは、江戸時代の人は妙なことを言うものだと、ストーリーか
      ら離れたところに興味を持ったものだ。「急いで駆け付けるべきを遅れ
      て来たから、『おっとりしてました。ごめんなさい』と詫びて言うのか
      なあ」と強引な解釈をしたりしていた。それにしては駆け付けた本人は
      遅れたことを申し訳なく思っているようでもない。どういうことだろう
      か。
       実は、その「おっとり」は、漢字で書けば「押っ取り」であった。刀
      は腰に差すもので、手に持ち歩くものではない。しかし、緊急時とあれ
      ば、手にした刀を腰に差す暇もない。そこで、見た目も構わず刀を持っ
      たままに馳せ参じたという、これが「押っ取り刀」だ。
       いつでも刀を腰に差しておくような心構えがあれば、こんなことには
      ならずにすむのだろうが、人間の生活、年中緊張していたら、神経症に
      なってしまうだろう。腰の太刀をおろして、ゆっくりするのも大切なこ
      とではないか。そういうおっとりした生活が一番だと思う。
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