今日の言の葉 

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 9/30   大阪の人は話している相手のことを「自分」と呼ぶ。大阪ばかりで
       なく、関西では広く使われる表現だそうだ。かく言うボクも、学生時
       代、食堂で定食を食べていたその背中に、「おい、自分」と見知らぬ
       関西人に声をかけられて反応のしようがなかったことがある。背中か
       らだったわ、知らない人だったわ、知らない語法だったわで、無視し
       たくなくても無視する形になった。その男は何度も「おい、自分」を
       繰り返すと、ボクが持っていた少年マンガ雑誌を貸してくれと言うの
       だった。これがボクの初「自分」体験である。
        相手のことを「自分」と呼ぶのはおかしいともっぱら評判が良くな
       いが、日本語では、おかしな例はいくつもある。例えば、小さな子ど
       もに「ぼく、何歳?」と声をかけるのをどうお思いか。これを英語に
       訳すと、"How old am I ?"となってしまう。聞いた外国人は、日本人
       はバカかと思うかもしれない。
        また、「てめえ、ふざけんな」の「てめえ」は「手前」が変化した
       ものだ。時代劇でも呉服屋の番頭さんが「手前どもは」と言っている
       のを見たことがあるのではないだろうか。「手前」とは、自分のこと
       を指す言葉だ。だから、「てめえ、ふざけんな」とは、「ぼくはふざ
       けていてはいけない」という自戒の言葉ととらえられる。
        こうしたおかしな現象は、日本人が「相手の立場に立ってものを言
       う」という美徳を持っているからである。「あなたにとってご自身は
       これこれの立場ですね」ということを言葉にして言うのだ。だから、
       家庭内で妻と夫が互いに「お父さん」「お母さん」と呼び合うことに
       疑問はない。二人には子どもがいて、その子から見た立場を表現して
       いるのだ。
        店番をする女性に「おねえさん」とか「おかあちゃん」とか声をか
       けるのも、自然なことだ。バスの中で「おばあちゃん、この席にどう
       ぞ」と勇気をふるって言えるのも、日本語にこうした親密な使い方が
       あるからなのだ。「おばあちゃん」と言えないとしたら、なんと呼べ
       ばいいのだろう。
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 9/29   ふと気づいた「わたくしは」

        大人が嫌がる表現に、「ボク的には」「わたし的には」があるが、
       こういう表現は、ボクたちが思っているよりもずっと古典的な言い方
       なのではないだろうか。
        「わたくし」とは「その人個人の内容」を指す言葉である。だから、
       「わたくし」と切り出すのは、「(公ではなく)個人的なことを申し
       上げるのは憚られますが、あえて言わせていただくなら、個人的には
       これこれと思います」と言うのと同義ではないかと思うのだ。
        いや、ここに書いたのは、確かなことではない。思いつきである。
       しかし、気になる。時間がかかるだろうが、よく調べてみたい。

        もし、これが正しいとなれば、「個人的には」という今の言い方も、
       「わたくしは」と同義になり、「わたし的には」「ボク的には」とも距
       離がなくなる。
        しかし、自分の名をいれて、「ミカ的には」などと言っていること
       までカバーしようと思っていないので、あしからず。
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 9/28   映画『男はつらいよ』の寅さんの口上は、「わたくし、生まれも育
       ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人
       呼んでフーテンの寅と発します。」と、まあきれいな言葉遣いであっ
       た。
        ボクが気に入っているのは、「わたくし」というところだ。ボクが
       中学の時分には、「私」を「わたし」と読んだりすると、注意を受け
       たものだ。「わたくし」が正しいのだと。だから今でも、何かものを
       書いていて、特に「わたし」と読んでほしい場合は、平仮名で書くこ
       とにしている。「わたし」と「わたくし」とでは、少し意味が違うと
       思っていることもあって、ボクはそうすることにしている。
        まず「わたくし」には意味が二つある。一つは名詞としての「私」。
       これは「その人自身の個人的なこと」という意味を持つ。「私立」と
       いうのは、「個人が設立した」という意味だ。また、「あの人は私が
       ない」と言えば、賞め言葉である。私利私欲のないさまを言うのだ。
       さらに派生語として「私する」という動詞まであって、これは「着服
       する」という恥ずべき意味を表す。これらの「わたくし」が代名詞と
       して用いられたのが、二つ目の意味だ。
        だから、「私」を代名詞として用いる場合は、「尊敬するあなた方
       を前に、個人的なことを申し上げるのは恐縮ですが、そんな『わたく
       し』のことを言わせていただけるのなら」という気持ちで使うべきだ
       ろう。そもそも相手に遠慮する気持ちが、この言葉の背後にはある。
        しかし、「わたくし」は「わたし」に変化し、「
わたい」「あたい」
       「わい」「わし」「わっち」「わて」「あて」などの形を生み出して、どんど
       ん庶民的な色合いを強めていったのだ。そこには「個人的なこと」と
       いう意味はなくなり、単に自分のことを指す、便利な言葉になってし
       まった。ただ「わたくし」だけが、化石のように意味を守っている。
        ボクは寅さん映画は好きではないが、言葉遣いだけは真似てみたい
       と思うのだ。
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 9/27   日本語には代名詞が多い。特に一人称と二人称の表現は多様で、相
       手との関わり方に神経を使っていたことがうかがえて面白い。
        一人称は、「おれ」「わたくし」「わたし」「ぼく」「あたし」「あたい」「わ
       し」「わて」「吾輩」「うち」「拙者」「てまえ」「それがし」など数多あるが、
       最も一人称らしい言葉となれば、それは「おれ」ではないかと思う。
       相手との距離を詰めて、遠慮なく自分のことを主張する言葉だからだ。
        なぜそう思うかを説明しよう。数ある一人称の中から、今日は「ぼ
       く」について話したい。「大辞林」では、「僕」は次のように説明さ
       れる。

       しもべ 【▽僕/下▽部】
       (1) 下男。召し使い。
       (2) 身分の低い者。
        「―に酒飲まする事は心すべきことなり/徒然 87」
       (3) 検非違使庁などの下級役人。
        「庁の―の中に金武といふ大力(だいちから)の剛の者/平家 4」

        これは「ぼく」ではなく「しもべ」だが、要するに「ぼく」と読む
       場合の意味合いは、「身分の低いこの自分」ということだ。この言葉
       が一人称として使われ始めた歴史について、「大辞林」は次のように
       説明を加えている。

        漢文の中では、古代から男子のへりくだった表現として用いられる
       が、「やつがれ」などと訓読されるのが一般である。明治以降、「ぼ
       く」の形で書生などが用いるようになり、現代では男子の自称として
       広く用いられるようになった。

        つまり、「僕」の字は、日本で「しもべ」として使われる以前に、
       中国でへりくだった表現として用いられていたのだ。日本で「ぼく」
       と言い始めたのは明治時代だが、意味も知らずに使い始めたわけでは
       あるまい。当然、「あなたにお仕えするこの自分」の意味であるはず
       だ。
        そういうわけで、「ぼく」とは、相手との上下関係から選択した、
       そもそもがへりくだった言葉だと考える次第だ。
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 9/26   彼岸花にまつわる俗信には、次のようなものがあった。

       ・触ると手がくさる。
       ・摘むと悪いことが起こる。
       ・手がしびれる。
       ・触ると気持ち悪くなる。
       ・触ると病気になる。
       ・人の魂を吸う。
       ・家の床下に置くと、ネズミがいなくなる。
       ・お墓に飾ると極楽にいける。
       ・仏様の花だから取ってはいけない。
       ・亡くなった人が家への道しるべにする。
       ・死んだ人の血を吸って赤い花になる。
       ・摘んで帰ると家が火事になる。

        彼岸花には、「リコリン」という毒がある。茎の汁に触れるだけで、
       皮膚炎を起こすことがあるらしい。また、球根の部分は毒性が強く、
       食べると吐き気や下痢、中枢神経の麻痺を起こし、死に至ることもあ
       るという。これらの俗信は正面から「毒だ」と扱っているものもあれ
       ばそうでないものもあるが、誤って子どもが触らないようにとの親心
       の表れだと思われる。
        なお、彼岸花は、そのまま食べると毒だが、リコリンは水によく溶
       けるので、球根をすりつぶし、よく水にさらして毒抜きすることで良
       質のデンプンを得ることができるらしい。昔の農民は、飢饉のときの
       非常食としてきたそうだ。なかなか良いところもあるじゃないか。

       (注意:十分な知識のない人は、決して食べないでください。)
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 9/25  彼岸花が咲いている。不思議な形だ。他のどんな植物にも似ていない。
      何科の仲間なのだろうか。調べてみると、アマリリス・スイセン・クン
      シランなどとともに「ヒガンバナ科」に属していた。そう言われればそ
      うかとも思えるが、彼岸花だけは花は家に入れたい気がしない。その姿
      は不吉なメッセージを含んでいるようだからだ。持ち帰ると家が火事に
      なると教えられた人も多いのではないだろうか。彼岸花に罪はないのに。
       この花を他に何と呼ぶか、調べてみた。
 
       曼珠沙華(まんじゆしやげ・まんじゆさげ)
       死人花(しびとばな)
       幽霊花
       火事花
       狐花
       あかばな
       かんざしばな
       しびれ花
       かみそり花
       捨て子花
       葉見ず花見ず

       なんとも不吉な呼び名が多い。最後の「葉見ず花見ず」は、花が咲い
      ているときには葉がなくて、葉が出ているときには花がないというこの
      花の特徴
から付いた名前らしい。

       葉見ず花見ず秋の野に
       ぽつんと咲いたまんじゅしゃげ
       から紅に燃えながら
       葉の見えぬこそさびしけれ       (中 勘助)
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 9/24  ボクが子どものころ、「美人」のことを「別嬪(べっぴん)」と言って
      いた。「別嬪」は美しさの程度が並じゃないということだから、知って
      おいた方がよい言葉だと思う。無理に使わなくてもいい。ただ知ってい
      るだけでもいいのだ。いつか使う日が来るかもしれないじゃないか。そ
      れにしても、今、「別嬪」に相当する言葉は何だろう。「超美人」「超
      きれい」では人間の奥行きが見透かされる。そういう意味の言葉を単語
      の形で持っていると良い。

       お金持ちのことを現代では「資産家」という。けれど、ボクたちの年
      代の者は「お大尽」と言っていた。お金ばかり持っている感じではない。
      「成金」でもない。何か威厳のある言葉だ。もっとも、小学生だったボ
      クには、「どうして大臣でもないのに『お大臣』というのかな」という
      疑問を持たせるばかりだったが。
       ともあれ、「お金持ち」<「資産家」<「お大尽」の順位があると思
      う。「お金持ち」は金を持っていることに注目した言葉だ。「資産家」
      には、上手にお金を儲けた結果という感じがつきまとう。ところが「お
      大尽」は文化的で、お金も持っているが、お金にとらわれないおおらか
      さがあるように思う。資産家の家にはドーベルマンがいそうだが、お大
      尽の家には文鳥がいる。人の好い庭師が住み込みで雇われている感じだ。
      自然、周辺の人々からは「○○様」と呼ばれる。(このごろは、「様」
      がつくのは「ベッカム様」と「ヨン様」ばかりだ。)

       税金の「申告漏れ」は、かつては、「脱税」と呼んだ。犯罪扱いであ
      る。今日の「申告漏れ」は、「うっかりしてました」という感じがする。
      その本質は「脱税」なのに、何か許されてしまうムードが漂うのはおか
      しいと思う。しっかりと追徴課税がされるのは、悪いことだということ
      なのに。

       言葉が変わるとイメージまで変わってしまう。イメージにくっついて、
      意味も変わってくる。
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 9/23  「立春」のことが気になった。「春が立つ」というこの日は「新春」
      を意味するもののはずだ。実際、旧暦の新年はこの日と大きくずれない
      ように設定してあるらしい。しかし、実際の一年は三百六十五日あるの
      に、旧暦では一か月が二十九日または三十日だったから、都合よく新年
      と立春が重なることは滅多になかったはずだ。
       そこで、ここ数年の「立春(太陽暦の二月四日)」が、旧暦では何月何
      日に相当するかを調べてみた。

         太陽暦の日付 旧暦の日付
         1997年 2/4  12/27
         1998年 2/4   1/8
         1999年 2/4  12/18
         2000年 2/4  12/29
         2001年 2/4   1/12
         2002年 2/4  12/23
         2003年 2/4   1/4
         2004年 2/4   1/14
         2005年 2/4  12/26
         2006年 2/4   1/7
         2007年 2/4  12/17

       なんと立春は、旧暦では十二月と一月とにまたがって、大きな偏りも
      なく分散している。つまり、年内に立春を迎え、次の新月の日に年を改
      めて新年を迎えることは、昔はさほど珍しいことではなかったのだ。
       しかし、古今和歌集には、次のような歌がある。

      ■ふるとしに春たちける日よめる            在原元方
       年の内に春はきにけり ひととせをこぞとやいはん ことしとやいはん
       (年の内に春は来にけり 一年を去年とや言はん 今年とや言はん)

       年も明けないうちに立春になったが、この一年を去年と言うべきか今
      年と言うべきか、ちょっと困るという内容だ。この歌は古今和歌集巻第
      一の冒頭に収録されているが、有名な仮名序を読み、背筋を伸ばして初
      の勅撰集に挑もうと身構えた人は、きっと拍子抜けがしたはずだ。
       あとに続く歌を見ると、どうやら日付の順を意識して編集したと思わ
      れるから、年の明けぬうちに来た春を詠んだ歌はこういう位置に来るの
      だろう。正岡子規は酷評するが、気どらない、なんとも微笑ましい内容
      で、心のゆとりさえ感じさせる歌である。
       
      りっしゅん【立春】
        二十四節気の一。太陽の黄経が三一五度に達する時をいい、太陽暦
       で二月四日ごろ。その前日が節分で、八十八夜・二百十日などはこの
       日を起点に数える。一月節気。「春立つ」ともいう。[季]春。
       《さざ波は―の譜をひろげたり/渡辺水巴》  (「大辞林」から)
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 9/22  明日は秋分の日。昨日書いたように、この日は「太陽の黄経が一八〇
      度に達した」日である。
       しかし、「太陽の黄経」というのが難しい。簡単に言えば、これは、
      地球を中心に見た太陽の動きということなのだ。実は公転しているのは
      地球の方なのだが、これを逆に考える(こちら)。地球は天球の中心に
      あって、そこで自転している。地球がそこで365回自転する間に、太
      陽は地球の周りをゆっくりと一回り進むのだ。
       天球の中を太陽が移動していくさまがお分かりいただけようか。「黄
      経」とは、太陽が「春分点」(春分の日には太陽はここにある)からど
      れだけの角度にあるかを示したものだ。秋分の日の太陽は、春分点に対
      して180度の位置(=秋分点)にあるわけだ。そしてこの位置にあると、
      地球では昼の時間と夜の時間の長さが同じになる。「暑さ寒さも彼岸ま
      で」とよく言うが、こういう仕組みがあったのだ。
       しかし、よく考えると、多くの日本人にとっては、どうして休みにな
      るのか分からない。とりあえず太陽に感謝である。
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 9/21  彼岸花が一斉に花を開いた。毎年のことながら、彼岸に一週間とずれ
      ない開花に驚きを隠せない。「彼岸花」の名に嘘はない。
       その「彼岸」は、年間二度、春と秋にある。「春分の日」「秋分の日」
      それぞれを中日とする七日間がそれだ。

      しゅうぶん 【秋分】
        二十四節気の一。八月中気。太陽の黄経が一八〇度に達した時をい
       い、毎年9月23日頃。すなわち秋の彼岸の中日。太陽は天の赤道上
       にあり、ほぼ真東から昇ってほぼ真西に沈む。昼夜はほぼ同時間。
                             (「大辞林」より)

       ボクたちのカレンダーは天体の動きを元に正確に作られているが、彼
      岸花にはそれを観測する技術も感覚もないはずだ。「あ、太陽の黄経が
      いよいよ一八〇度になりそうだぞ。花をつけよう」と見ているわけでは
      あるまい。だいたい「黄経」なんてものは、地図にも載っていないから、
      花はもちろん、ボクたちにもとらえづらいものだ。しかし、彼岸花は間
      違いなくこの時期に咲く。
       そんな自然の不思議にも心引かれるが、ボクが興味を持つのは、律令
      時代に生まれた「陰陽寮」の人々だ。彼らは中務省配下の小寮で、風雲
      ・天文・暦数・時刻の観察判断や管理及び学生の教育を担当していた。
      そんな彼らが一年の暦を作り、「あと三日で予定通り秋分だ」と喜んだ
      り「今年は暦と実際の季節感が一致しないが、何か間違えたかなあ」と
      不安になったりしていなかったと、誰が言えようか。
       話は少しずれるが、その陰陽寮には、時刻に関わる職として、「漏刻
      博士(ろうこくはかせ)」や「守辰丁(しゅしんちょう)」という役があっ
      た。「漏刻博士」は時刻管理を担当する技術職であった。「漏刻」は水
      時計である。「守辰丁」は「ときもり」とも言って、その漏刻を見て鐘
      や太鼓を叩き毎時を知らせる職であった。居眠りをして鐘を叩き忘れた
      人もいただろうし、水があふれたとかカビが生えたとか、大事な漏刻に
      各種の異変が起こらなかったとは言えまい。そういう難儀を乗り越えて
      時を守り続けた人がいたであろうと、ボクは勝手に感動している。
       まあ、一人の漏刻博士に対して、守辰丁は二十名いたそうだから、互
      いに助け合っていたこととは思うが。そうでなく、一人で水時計を見つ
      めて一人で鐘を叩いていたのなら、その重圧と緊張から、きっと精神に
      異常を来したことだろうと思う。
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 9/20  迷惑

       公共の場所にいて近くでタバコを吸われるのは、ボクの最も苦手とす
      るところだ。ボクが交差点でタバコの臭いに気づいてあちこち見回すの
      は、どちらから臭いがやってくるかを確認して、できるだけ風上に行こ
      うと思うからだ。ボクの風上に立ってタバコを吸うなと言いたい。早く
      法律でしっかりと規制してほしい。吸ってる人は好きで吸っているし、
      迷惑といっても何がそんなに迷惑なのか分からないから吸うのだ。少し
      ぐらいなら煙を楽しませてよ、いつも我慢しているんだから、とばかり
      に人前で吸う。近くに食事をしている人がいても平気だ。もはや法律で
      何とかするほかはない。売っている方も、「あなたが変われば マナー
      は変わる」とか言って、吸う人の責任にするのはやめてほしい。「売っ
      ている以上は国が認めた物だということだろう。JTや国が悪い。自分
      は吸わされていただけだ」という言い訳が聞こえるようだ。みんな、そ
      んな顔をして吸っているじゃないか。
       ボクは食事中に近くでタバコを吸われて、「タバコは遠慮してくださ
      い」と何度も言ってきた。言おうと決断するまでに、はらわたが煮える
      ような思いをして、しかし、相手も大人だし、互いに傷つかない方法で
      いこうと考え、自分に言い聞かせて、できるだけ穏やかな口調で言うこ
      とにしている。煙を感じて、瞬間的に「こら、だめだろう」と言ってい
      るわけがない。ボクはまだ言える方だが、言えないで我慢する人、タバ
      コの暴力に泣き寝入りしている人がどれだけいるか、考えてほしい。ア
      スベストも問題だろうが、こちらは明らかな人為。それを止めようとし
      ないのは、ボクは憲法違反であるとまで思っている。
       「迷惑」の意味をしっかり伝えていこうと思う。「大辞林」には、次
      のように載せられている。

      めいわく 【迷惑】(名・形動)スル [文]ナリ
      (1) 人のしたことで不快になったり困ったりする・こと(さま)。
      (2) どうしてよいか迷うこと。
      (3) 困ること。
       〔(2)が原義〕                (用例は省略した)

       タバコが迷惑であることは、ここでも明らかだ。(2)が原義とあるが、
      タバコを近くで吸われ、イヤだと思っても言えなくて、「言おうかな。
      やめておこうかな。どうしよう」と思い悩むこと、それが「迷惑」の意
      味そのものなのだ。
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 9/19  〜のせい

       「所」について調べていて、「所為」が「しわざ・せい」と読むこと
      を確認したところだが、どうも「せい」が「所為」の音読みではないか
      という気がしてならない。「しょい」が変化して「せい」になる道もあ
      るかもしれない。
       岩波国語辞典(第五版)を見ると、「『所為』の音読『そゐ』の転」と
      あるではないか。面白い。歴史のどかで、かつては「そゐ」と言ってい
      たのだ。つまり、「お前のそゐでこんなことになった」という使い方か。
       では、「そゐ」は「しょゐ」の転かということになろうが、ボクはこ
      こで「竹取物語」を思い出した。くらもちの皇子がいんちきをする段に
      「領(し)らせ給ひたるかぎり十六所を」とあるが、この「所」は「そ」
      と読む。平安時代初期にはすでに「そ」であったのだ。それ以前のこと
      は調べていない。「そ」の方が「しょ」よりも古いということも考えら
      れる。

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 9/18  所

       これは「ところ」だが、最近になって、「場所・地点」という意味ば
      かりを表すわけではないと気づいた。次のような言葉について考えたの
      がきっかけである。

       語句 訓読み     ボクが考えた意味
       所有 あらゆる   「有る」といえるすべてのもの
       所以 ゆえん    「これを以て〜である」と言える、その理由
       所謂 いわゆる   「謂(い)う」ところの
       所為 しわざ・せい 「為(な)した」こと、その内容
       所縁 ゆかり    「縁」のあること

       このように、「所」は、「〜に当てはまるもの・こと」という意味を
      持っている。英語の関係代名詞"what"のようなはたらきをしているのだ。
      大変漢語的な作りの言葉だ。訓読みの言葉でこうなら、音読みの言葉は
      もっとあるはずだと思って調べてみると、思った通り、あるわあるわ。
      ボクたちにも意味が捉えやすいと思った言葉に限定して書き出してみよ
      う。

       所懐(しょかい 考えたこと) 所感(しょかん 思っていること) 
       所期(しょき 予期したこと) 所作(しょさ 体の動き)
       所思(しょし 心に思うこと) 所持(しょじ 持っていること)
       所詮(しょせん つまるところ)所存(しょぞん 考えたこと)
       所望(しょもう 望むこと)  所用(しょよう 用件)

       このように見ると、「所」の字は後の漢字と結びついて名詞を作るは
      たらきを持っていることが分かる。これはボクの所見である。
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 9/17  後で後悔する

       誰かと話していて、「後で後悔する」と言うと、鬼の首を取ったよう
      に「『後で後悔』だって」とか、「先に後悔できるんか」とか言われる。
      使っている方も、言ってしまった瞬間には「ああ、まずい言い方だった
      なあ」と思っているのだから、勘弁してほしい。
       こういう言い方は、「馬から落馬する」「被害を被る」などと同じく、
      内容が重複しているので、良くないとされている。確かにおかしいし、
      洗練されていないとも思う。しかし、「馬から落馬」と言った人を見た
      ことはないし、「被害を被る」と言った人に、それはおかしいと指摘し
      ても、「それがどうかしたか」というような反応しか返ってこない。彼
      らは「後で後悔する」にしかアンテナが反応しないのだ。
       ボクは思うのだが、「後で反省する」や「先に予想していた」という
      言い方にも反応してほしい。同じ漢字が使われていなくても、少し考え
      ればおかしいことが分かるではないか。そういうことに反応しないでお
      いて「後で後悔する」にばかり集中砲火を浴びせるのは不公平だと思う。
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 9/16  ぼろい

       この言葉の意味をご存じか。あちこちに傷みのある古い車を見たりす
      ると「ぼろい自動車」などと使うが、そういう使い方ばかりでないこと
      はお分かりいただけると思う。「ぼろい商売」というのがそれだ。ボク
      はずいぶん長い間、この言い方は特定の地方での洒落た言い回しだとば
      かり思ってきたが、どうもそうではないらしい。辞書を見てみよう。

      ぼろ・い (形)
      (1) 元手や労力をあまり使わずに大きな利益があがる。非常に割がよい。
        「―・い儲(もう)け」
      (2) 俗に、古くて壊れかけているさまをいう語。
        「―・いビル」        (「大辞林」より)

      ぼろ・い (形)
       〔俗〕元手や労力の割に利益が非常に多い。割がよい。「―商売」
                       (「岩波国語辞典」第五版より)

       このように、「ぼろもうけ」のような意味合いの「ぼろい」が第一義
      であり、「壊れかけ」のイメージの「ぼろい」は後回しの状態だ。大辞
      林に比べて辞書が小さいせいもあろうが、岩波国語辞典では、それさえ
      載っていない。なお、この言葉の元になったのは、「ぼろくず」の「ぼ
      ろ」だ。漢字で書けば「襤褸」である。「ぼろい」は、元手に金をかけ
      ず、まるで「ぼろ」を元手に大もうけをしたようだということで生まれ
      た言葉のようだ。そういうわけで、「ぼろい」は意外なほどにプラスの
      イメージのある言葉なのだ。ぼろいこと、大歓迎である。
       気になることがある。「ぼろい」を使わずに「壊れかけ」のイメージ
      を表す形容詞はあるのかということだ。すぐには思いつかないのではな
      いだろうか。「古い」も「汚い」も違う。そういう言葉をボクは持ち合
      わせていない。
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 9/15  迷惑(人のしたことで不快になったり困ったりすること「大辞林」)

       
カー用品の折り込み広告を見ていたら、様々な商品に混じって、車内
      に取り付ける灰皿を見つけた。たいていの車には初めから灰皿が装備さ
      れていたと思うが、たぶんそれだけでは足りないのだろう。
       さて、その売り文句はこうだ。

       煙が車外に逃げやすい。ドア上部設置の新スタイル。

       要するに、自分が吸いたくない煙を車外にまき散らしてくれる便利な
      灰皿というわけだ。ふざけるなと思う。歩行者は信号待ちでその車が横
      に止まったら最後、嗅ぎたくもない煙を嗅がされるというわけだ。その
      行為に文句を言おうとするころには信号も変わり、車は煙を残して去っ
      ていくという寸法だ。世の中、歩行禁煙の時代だが、車に乗っていたら
      許されるのか。
       タバコを吸う人の無神経はこういう商品に助長されもすると思うがい
      かがか。この灰皿があるために、「あれ、窓から煙を流すのはいけない
      ことだっけ」とか「そのためにこういう灰皿がある」と勘違いする人が
      出るだろう。
       このような商品は、タバコが消えつつある社会にあって、時代に逆行
      するものだ。いや、どうしても吸いたいという思いも理解できる。タバ
      コとは、多少周りが迷惑しても、その人たちには我慢してもらって、自
      分の一時の快楽を求めさせる、つまり「判断力を鈍らせる」ものなのだ。
       駅のホームに「喫煙所」があるのもどうかしている。風に乗って煙が
      こちらに来るのをボクたちはじっと耐えているのだ。吸いたい人は吸っ
      て良かろう。ただし、全部残さず吸ってほしい。
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 9/14  「風」という字をじっと眺めていて気づいたのだが、この字の「虫」
      の上にある「ノ」は、もともとは「一」のような横画だったのではない
      だろうか。
       これはたまたま「鳳(おおとり)」の字を眺めていて気づいたことだ。
      「鳳」の中の「鳥」を「虫」に換えると「風」になるではないか。しか
      し、「鳳」では「一」だった部分が「ノ」になって完全ではない。その
      ずれを埋めるのが、ボクが考えた「もともとは『一』だった」という考
      えだ。
       そう思って名筆の「風」を見ると、問題の部分が「一」の形になった
      ものがたくさんある。筆の運び方は必ずしも一定ではなく、時代によっ
      て変化するものらしい。さらによく見ると、「香」「係」「系」といっ
      た字も、「ノ」ではなく、「一」と書かれた形跡がある。
       現代では、いずれの字も「ノ」と書くのが当たり前だが、ボクはどう
      も書きづらいと思っていた。「系」なんて、「ノ」を書いた後にすぐま
      た「ノ」だから、同じところに重ねて「ノ」を書いてしまったりと、そ
      の手のミスは尽きなかった。そんな経験、ボクだけではないはずだ。こ
      れを「不自然だ」と思ったところにボクは立ち戻っている。
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 9/13  「閏(うるう)」という言葉について考えていて気づいたのだが、
「閏
      年」と「閏秒」と「閏月」の三つは、すべてが同質ではない。「閏年」
      が違うのだ。

      1.「閏秒」は、計算と測定のずれを埋める、ずれた分の「秒」である。
      2.「閏月」は、暦と季節のずれを埋める、ずれた分の「月」である。
      3.「閏年」は、太陽暦でもずれた日数を埋める「日」のある年である。

       ずれそのものに名を付けて、「閏月」「閏秒」と呼んでいるのに、ど
      ういうわけか「閏年」は、それそのものがずれではない。つまり、「閏
      日(うるうび)」という言い方をすれば良いのだ。二月二十九日、「あ、
      今日は閏日だ」と言うようになっていたら、大きくなってから「閏月」
      「閏秒」の語に出くわしても自然に受け容れられるのではないだろうか。
       言葉には出会う順序というものがある。今の子どもたちは、まず「閏
      年」を知り、次に「閏秒」、そして最後に「閏月」に出会うのだ。最初
      だけが質が違うのだ。後のが入りにくいわけだ。
       そういうわけで、ボクは「閏日」という呼び方を広めたいと思う。い
      や、「閏日」という呼び方は以前からあって、これはボクが発明したも
      のなどではない。ただ、あまり知られていないものと思うのだ。
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 9/12  かしら

       お嬢様言葉を楽しく学ぶ本を読んだことがあるが、人にものを頼むと
      きでも品位を落とさぬためには、文末に「かしら」をつけると良いと書
      かれていた。「〜して下さる(の)かしら」の形である。確かに、これを
      付けると上品な感じが出る。「このサンマ、もう少し安くして下さるか
      しら」「玄関の電球、交換して下さるかしら」「宿題、教えて下さるか
      しら」と使えばよいのだ。
       その文末の「かしら」が山本有三の「路傍の石」では「かしらん」と
      書かれていたので、小学生だったボクは気持ち悪いと感じた。どうして
      きちんと「かしら」と言わないのかということが一つ、また吾一は男な
      のに、そういう女言葉を使うのはおかしいということが一つ、胸の中で
      ごろごろしていた。
       『路傍の石』が書かれた昭和十二年には「かしらん」は当たり前の言
      葉だったということか。ともあれボクはそこで、「昔は『かしらん』と
      言っていたのかなあ」となんとなく感じていた。
       今、岩波国語辞典(第五版)を引いてみると、「かしらん」は「→かし
      ら」と書かれている。古い言葉ということだ。で、「かしら」を見ると、
      解説の中に語源として「『か知らぬ』の転」であると示されている。つま
      り、

      「〜か知らぬ」→「〜か知らん」→「〜かしらん」→「〜かしら」

      ということだ。
       ううむ、これが上品な言葉遣いだとは、ボクには思えない。
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 9/11  2006年は閏秒で明けると新聞に書かれていた。簡単に言えば、この年
      は一年が一秒長いのだ。これを「うるう秒」という。漢字で書けば「閏
      秒」である。得なのか損なのかよく考えてみたい。時間ばかり余分にも
      らえてもうれしくない。
       なんでも地球の自転速度は一定ではなく、速くなったり遅くなったり
      するものらしい。遅くなるのは回したコマがだんだん勢いを失うのと同
      じだと思えば分かりやすいが、途中からスピードアップするコマを見た
      ことがないので、速くなるというのは分かりづらいことだ。フィギュア
      スケートの選手は器用に体の形を変えて回転速度を上げたり下げたりし
      ているから、地球も同じようなことをしているのと思えばよいのかと思
      う。閏秒は、地球がのんびり回った結果、元の位置に戻るのに余分に時
      間がかかったことを表すものらしい。
       その地球の回転の速さの変化をどのように見つけたかというと、これ
      は「原子時計」という正確無比なものが登場して、ようやく分かったこ
      とらしい。どの程度正確かというと、十万年かけて一秒ずれるというこ
      とで、そんな未来のことをボクが心配するのもおかしい。
       ところで、十万年に一秒のずれということは、原子時計よりも正確な
      時計があるということだろうか。その時計とのずれが十万年に一秒ある
      というのなら、そっちの時計を使ったらいいのに。どんな基準に対して
      「一秒ずれる」というのか、きちんと教えてほしい。
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 9/10  新聞に公報がはさまっていた。最高裁判所裁判官国民審査について選
      挙管理委員会が作製したものだ。いよいよ衆議院の選挙があるが、こう
      いう時には同時にこの国民審査が行われるのだ。
       以前は最高裁の裁判官なんて意識したこともなかった。投票所で「や
      めさせた方がよいと思う裁判官には×をつけてください」の文字を見て
      も、日頃から知識も興味もないので、「あの裁判官はけしからん」と思
      うこともなかった。重要な判決があっても、どの裁判官がどんな意見を
      述べたかなど、知らされたこともない。国民の投票で選んだ裁判官でも
      ないのだ。これでは審査などできるはずもないと思っていたから、この
      ように各家庭に公報の形で情報が届くのはよいことだと感心した。
       公報には、最高裁判事六名のプロフィールが厳めしく載せられている。
      内容は「略歴」「関与した主要な裁判」「信条」などである。まさに日
      本の法曹の頂点にふさわしい内容で、漢語が多用され、読んでいて肩が
      こった。
       そんな中、才口千晴という判事の略歴は「善光寺のお膝元である長野
      市に(中略)長男として生まれ」と始まっていた。「長野市に生まれ」で
      も十分なのに、彼は「善光寺のお膝元である」ことを省略の対象としな
      かった。なかなかの人情派であると見た。また、他の裁判官のプロフィ
      ールにはない「趣味など」の欄が設けられていた。そこにはこう書かれ
      ていた。

       たしなみとしての書、カメラいじり、家庭菜園

       裁判官の趣味を載せる必要があるのかどうか知らないが、しかつめら
      しい写真からは想像できない穏やかさが顔をのぞかせている。近所のお
      じさんと同じだ。悩んだ日や行き詰まった日には、すずりに向かったり
      野菜に心をほぐしてもらったりするのだろうか。
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 9/9   衛生関連のCMのなんとも微妙な間合いが気になる。除菌効果のある
      台所用洗剤や汚れ落ちの良い洗濯石けん、黄ばみを取る歯磨きなど、そ
      れがいかに優れているかを映像で表現しているが、どの製品も慎重に誇
      張を避けているのだ。
       例えば、洗濯石けんの場合、洗剤成分にアタックされた汚れが次々に
      消えていくが、最後のひとかけらが消えるかと思うときにCMが終了す
      る。完全に消えて視聴者を安心させてくれても良いのに、そこまではし
      てくれない。「ものすごく効果はありますよ。でも、完全に消えるとは
      言ってません」というメーカー側の陰の声が聞こえるようだ。
       除菌の効果も汚れ落ちも、百パーセントの効果を謳ったら、「過大広
      告」と言われるのだろう。一方、
「汚れすっきり」「驚きの白さ」と言
      うのは「過大」の範囲ではないということか。日本広告機構=JARO
      の名前を思い出した。広告の見張り番、「JAROってなんじゃろ」の
      JAROである。
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 9/8   〜みたいな

       テレビでこの言葉を使い始めたのは、とんねるずの石橋貴明だと記憶
      している。あれから何年たったのかはっきり分からないが、当初感じた
      奇異な感覚がいまだに後を引いている。
       そもそも「みたいな」は、「犬みたいな動物」のように名詞の直後に
      用いるか、「走っているみたいな感覚」「優勝したみたいな騒ぎ」のよ
      うに、活用する語の連体形に続けて使うのが正しい。
       しかし、最近では、「『自分の方が立派だ』みたいな言い方」「『な
      んとかしてくれ』みたいな感じで走ってきた」のように、「〜というよ
      うな」と言い換えられる用法が目立つ。これがとんねるずの語法である。
       各番組の趣旨にもよるだろうが、さすがにベテランアナウンサーは使
      わないようだ。ゲストや解説者の面々が使っている。それも中高年の、
      いかにも知識人という人が。若者の真似をしていてこうなってしまった
      のだろうか。
       こうまで書いてしまってから、「『みたい』って、助動詞だったかな」
      と不安になった。「名詞または連体形に付く」などともっともらしく書
      いたのは、助動詞だという意識があったからだが、そういえば習った覚
      えがない。
       調べてみると、案の定、この言葉ははっきりと助動詞の仲間入りを果
      たしていなかった。辞書によっては助動詞扱いである。岩波国語辞典で
      は「俗語」の扱いであった。「みた様な」が変化したものだとの説明が
      あった。大辞林では助動詞である。
       なるほど、テレビ局のアナウンス部で長年鍛えられた人ほど使わない
      のには、こうした学習の成果なのだと思う。
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 9/7   お葬式

       誰それの葬式があるというので式場に行くと、「葬式」の文字はない。
      使われるのは、「告別式」だの「葬儀」だのという言葉ばかりだ。看板
      ばかりでなく、沈痛な声色のアナウンスにも「葬式」は使われない。喪
      主のお礼の言葉も同様である。しかし、参列者は翌日人に会うと、「昨
      日、お葬式があってねえ」と気軽に話している。
       思うに、「葬式」はフォーマルな言葉として意識されていないのだ。
      より格式張った「葬儀」「告別式」の方が場にふさわしいと思われてい
      るに違いない。だいたい、「葬式」には「お」が冠せられるではないか。
      「お葬式」である。これが「身近な言葉」の証であるとボクは思う。
       丁寧さを表す「お」と「ご」には使い分けがある。「お」は和語に、
      「ご」は漢語に付けると習うだろうが、厳密にはそうではないはずだ。
      人の意識がそれを変えているのだ。「より高級だと思う言葉に『ご』を
      付ける」というのが実態にあった理解だとボクは思う。反論したい人は、
      「お葬式」と「ご葬儀」の使い分けをあなたはどう見るか。どちらも漢
      語であり、当然どちらも音読みなのだ。なのに「葬式」に「お」が付く
      のだ。「ご葬式」とか言うのを聞いたことがない。
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 9/6   救急車

       子どもは働く車が大好きだ。乗用車などという特徴のない車には興味
      もない。火事が起きたら火を消して人を助ける消防車、事故があったら
      急いで人を救いに駆け付ける救急車など、はっきりした役割がある車に
      は、分かりやすいドラマがある。
       その「救急車」だが、漢字で書かねばならなくなって悩んだことはな
      いだろうか。「急いで人を救う車」だから「急救車」だろうとか、いや、
      この前そう思って書いたら違っていたから「救急車」に違いないとか、
      そういう悩みがいつもついて回る。少なくともボクはそういう試行錯誤
      の末にこの言葉を正しくマスターした口だ。
       文字を「書く」という作業がいつしか「手」から「キーボード」に重
      心を移して以来、これを間違えることはなくなった。手書きの必要のあ
      る記帳所でも書くことのない言葉だ。だいたい、結婚式でも葬式でも、
      書くのは自分の名前や自宅住所であって、「救急車」の文字に登場の機
      会があるはずがない。
       ボクは思う。今や日本中に、「救急車」と書けない人や、「急救車」
      と書いてから「なんか変だ」と気づいて書き直す人があふれているはず
      だと。しかし、何の不便もない世の中になってしまった。
       さらにボクは、「親孝行」も「親行孝」と書いてしまう。
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 9/5   大統領

       人の言動をはやし立て、拍手とともに「よっ、大統領」。最近は流行
      らないようだが、息長く庶民に使われた印象がある。大統領そのものは
      共和国の元首だから、そういう国家が生まれるまではなかった言葉では
      ある。はやり初めはいつなのだろうか。いつか調べてみたい。
       ボクがこの言葉を聞いたのは、小学校六年生の時分だった。クラスの
      誰かが誰かをはやして大きな声を上げていた。どんな状況だったか、誰
      の声だったかも覚えていないが、声そのものはいまだに耳について離れ
      ない。その時感じた違和感がぬぐえないからだ。
       日本の国に大統領はいないから、言うのなら「よっ、総理大臣」だろ
      う。よその国の政治家のことを持ち出すのはどうかと思うよ、とこれが
      その時感じたことだ。今でもおかしいと感じている。
       しかし、言ったその子にそれほどの意図があったわけもなく、きっと、
      大人の真似をしてみたに過ぎないのだ。そういうことを盛んに言う大人
      が彼の周りにいたのだろう。いや、日本中にいたはずだ。ただボクは、
      そんな世間を知らなかったに過ぎないのだ。
       ここに、岩波国語辞典を引けば、「(俗)親しみをこめて呼びかける掛
      け声」と説明がされている。辞書に載るほど一般化された用法だったの
      だ。しかし、国中のあちこちでこういうことを無批判に言っていたのか
      と思うとぞっとする。本当はしっかりした由来のあることかも知れない
      が、知って使ったとも思えない。ただ流行だからと追随する人の多さが
      そこにあるのだ。こういうところは、今も昔も変わらない。
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 9/4   判官贔屓

       「はんがんびいき」あるいは「ほうがんびいき」と読む。これは「第
      三者が不遇な者や弱者に同情すること(『岩波国語事典』第五版)」を意
      味するものだが、この国の歴史にかの源義経がいなければ生まれなかっ
      た言葉だ。
       ボクがこの言葉からまず連想するのは、舞の海関である。体が小さい
      彼は、新弟子検査に合格したい一心で、頭皮にシリコンを注入して強引
      に身長を高くしたのだった。その小さな体から繰り出される技の多さは
      「技のデパート」の異名にも表れている。しかし、軽量の彼はやはり不
      利であった。相撲は体重差を考慮しない競技なのだ。体重差に関係なく、
      優勝するのは、技にも体力にも勝る者ただ一人に決せられる。つまり、
      相手を圧倒する大きな体作りも、実力のうちなのだ。
       しかし、大きな体はただ努力によってのみ得られるものではない。そ
      の人の持って生まれた形質というものがあるのだ。ボクが舞の海をひい
      きしたくなるのは、彼が相撲取りとして優位な形質を持ち合わせていな
      いことによるものだ。しかし、相撲の世界は彼を特別扱いしない。あく
      まで公平に、厳しい目で見ていこうとする。それが相撲の良いところだ
      と思うし、そういう中で頑張る者を応援したくなるのは当然のことだと
      思う。
       相撲協会が舞の海を特別扱いしたりしたら、舞の海のファンは減った
      だろうし、歴史が義経にひいきして彼が栄華を極めたりしていたら、義
      経はこれほどのファンを持たなかったであろう。
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 9/3   −かす

       ボクの故郷では、物を落としてしまうと「あ、落とらかした」と言い、
      何かを割ると「割らかした」、人を笑わせると「笑わかした」と言った。
      「〜かす」は、相手に何かをさせるという意味を持ち、動詞の後につけ
      て使われる言葉だ。面白いのは、この言葉が単なる使役の意味でなく、
      「そうなるのを放置する」ことを表す点だ。
       例えば、「割らかす」とは、物が割れるのを止めなかったことを言い、
      台所でうっかり食器を割ってしまった場合などに用いる。割れたのは食
      器の意志であり、運命であるが、それをどうすることもできなかったと
      弁明する言葉なのだ。だから、意図して物を割った場合には使わない。
      それはあくまで「割る」である。机の端に置いてあった醤油差しに袖が
      引っかかって落ちてしまった場合も、別に落とそうとして落としたわけ
      ではないから、これは、「落とらかした」と言う。
       文法的に見れば多少おかしなこともあろうが、このように、もっぱら
      「自動詞+かす」の形で用いられるのが、岐阜の方言「かす」である。
      きっと古典の使役の助動詞「す」との関わりがあるはずだとにらんでい
      るところだ。「まやかし」は「まやかす」の連用形から生まれた言葉だ
      が、これにしても「迷わかす」と考えると元々の意味がはっきりしてく
      る。
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 9/2   けん責辞任

       テレビも最近は選挙関連の報道がずいぶん増えて、国民は政治に関心
      を高めているようだ。そんな中、「けん責辞任」という言葉を耳にする
      ようになった。話の流れから、政治家が責任を取ってその職を辞めるこ
      とを意味するのだとうっすらと分かるのだが、画面のテロップにも「け
      ん責」と出ていて、「けん」がどんな文字だかさっぱり分からない。な
      んだろう、責任を取るのなら、やはり「牽責」だろうか。「顕責」もい
      いぞ。責任の所在をはっきりさせるという意味だ。いや、「懸責」かも
      しれない。命懸けでという意味だ。このように勝手に考えるが、素人に
      思いつくのは常用漢字ばかり。テロップにひらがなで出るのは、その文
      字が常用漢字の範囲にないからなのに。
       いつまで考えても気持ちが悪いばかりなので辞書を引くと、「譴責」
      と出ていた。なんだ、これは。四十四年間生きてきて初めて見た。意味
      は、「@悪い行いや過失などをいましめて責めること。A官吏に対する
      一番軽い懲戒処分。▽国家公務員法の戒告に相当(岩波国語事典 第五
      版)」とある。
       へえ、こんな字を書くのかと思った自分は若いのだろうか。ボクより
      年配の人はすらすら分かるとか。そうそう、ボクたちは「拿捕(だほ)」
      という言葉を、見ても聞いてもすぐ分かる世代にあるが、若い人たちに
      はなかなか読めないし意味も解らない。あれと同じことではないだろう
      か。ボクが子どものころは、漁船が他国の領海を侵して捕らえられる事
      件が何度もあって、テレビも「だほ」「だほ」と深刻な報道を繰り返し
      ていたから、ほかに応用の利く言葉ではないが、なんだか自然に覚えた
      ものだ。
       文字の知識は、文字の難しさによるというよりは、社会で使われる頻
      度にこそ関わると思われる。ただ、「けん責辞任」などという言葉を毎
      年聞くような社会では困る。
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 9/1   軽んずる

       そもそもが、「軽くする、少なくする」という意味の言葉である。こ
      の言葉を見ていると、「撥音便(はつおんびん)」という文法用語が思い
      浮かぶ。音便とは、本来の発音ではないが、言いやすいから自然に使わ
      れる発音のことで、それが撥音=「ん音」で行われることをいう。ボク
      は「かろ
する」→「かろずる」の流れを感じたのだ。
       いや、もしそうだとしたら、「かるい」ではなく、「かろい」の形の
      言葉がもともと存在していなければならない。古語にそういうものがあ
      れば良いのだが。
       辞書をみると、「かろし」があった。漢字を使って
「軽し」と書かれ
      ている。「かろ」と読む語は他に、「軽びやか」「軽ぶ」「軽む」「軽
      らか」「軽ろか」などがあり、「軽んず」は「かろみす」の転であると
      説明されていた。
       「軽んずる」は、ボクが考えた「かろくする」とは別のところから生
      まれていた。予想が外れたのは残念だったが、「く→ん」という音便は、
      考えてみれば不自然だ。そういうことに気がつくことができたのがうれ
      しい。
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