今日の言の葉 

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12/31  日本漢字検定協会が13日に発表した「今年の漢字」は、「災」だっ
      た。振り返れば、台風、地震など天災・人災の重なった一年であったか
      ら、当然の結果と思う。応募総数91630人のうち、20936人も
      の人がこの字を選んでいるのだ。これは実に、応募者の22.84パー
      セントを数え、2位以下を大きく引き離している。この発表から半月後
      にソロモン沖地震の津波で万単位の人が亡くなったことも、「災」の現
      実性を高めている。
       しかし、続く2位は「韓」である。韓国俳優の人気がこれほど高まっ
      たこともかつてないことだが、1位の「災」、3位の「震」という社会
      派の文字に挟まれて、芸能系の「韓」は据わりが良くない。度重なる災
      害にもめげず、日本人が一年間いかに脳天気に過ごしてきたかが象徴さ
      れているではないか。
       はてさて、来年はどんな一年になることやら。
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12/30  相撲でも芝居でも、興業の最終日を「千秋楽」という。略して言うこ
      ともあり、「今日は楽日だ」などと使えば通人のようだ。
       これほど一般に親しまれた言葉であるにもかかわらず、「最終日のこ
      とをなぜ千秋楽というのか」と聞かれても答えられない人が身の回りに
      多い。これは気のせいだろうか。

      せんしゅう-らく【千秋楽】
      〔(3) が法会(ほうえ)などの最後に奏されたところからという〕
       (1)相撲・芝居などの興行の最後の日。千歳楽。らく。
       (2)謡曲「高砂」の終わりの部分。婚礼のときなどの祝言として謡われ
        る。
       (3)雅楽の曲の名の一。盤渉(ばんしき)調の曲で舞がない。千歳楽。

       明日は一年の千秋楽とも言うべき一日である。万感の思いを胸に、去
      りゆく今年を送りたい。
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12/29  米を研ぐ

       無洗米の登場以来、力を入れて米を研がないことが増えたのか、「米
      を洗う」という表現が目につくようになった。「無洗米」という命名も、
      そもそも米は洗うものだというメッセージになっているではないか。幼
      いころから米は「研ぐ」または「かす(岐阜ではこう言う)」と使ってき
      たので、この事態には大いに不満である。同様の不満を持たれる方も多
      いことかと思う。
       しかるに、次の俳句はどうであろうか。

       米洗う前に蛍の二つ三つ

       作者未詳にしてあまりにも有名なこの句には、米を洗うと書かれてい
      る。まさかビタミンB1が落ちないようにと配慮してのものではなかろ
      う。「米を洗うように言われた若者が米を洗剤で洗ったのを見て仰天し
      た」という話は現代の神話のように伝えられているが、それ以前にも、
      ちゃんと米は洗われていたことを示すものである。
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12/28  年末のことを「年の瀬」というが、なぜ「瀬」なのか。

       せ【瀬】
        (1)川の水が浅く人が歩いて渡れる所。あさせ。⇔淵(ふち)
         「―を渡る」
        (2)川の流れの速い所。はやせ。
         「―にのまれる」
        (3)海流の流れ。潮流。
         「潮―」
        (4)置かれている立場。
         「立つ―がない」
        (5)機会。機縁。場合。
         「逢う―を楽しむ」「浮かぶ―がない」
        (6)そのところ。その点。
         「憂きにも嬉しき―はまじり侍りけり/源氏(柏木)」
                             (「大辞林」より)

       ここにはまず、「瀬」は「淵」の対義語であると書かれている。思う
      に、ゆったりと過ぎていくのであれば、「瀬」とは言うまい。慌ただし
      く、ばたばたしてこそ、年越しである。
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12/27  薨去

       今さらだが、高松宮妃喜久子さまがお亡くなりになった折りのテレビ
      の報じ方に「ご逝去されました」という言い方があったのが気になって
      いる。一般人の場合と同じ言葉遣いなのだ。

      ほうぎょ 【崩御】 (名)スル
       天皇・皇后・皇太后・太皇太后を敬ってその死をいう語。古くは、上
       皇・法皇にもいった。
      こうきょ 【▼薨去】(名)スル
       親王または三位以上の人が死ぬこと。薨逝(こうせい)。
      せいきょ 【逝去】 (名)スル
       人を敬ってその死をいう語。「御尊父様ご―された由」
                             (「大辞林」より)

       皇族の死には特別の言葉遣いがあることをマスコミが知らないはずが
      ない。知っていて使ったのか、知らないで使ったのかでは、伝えるメッ
      セージに大きな違いがある。知っていて使ったのなら、自由平等の主張
      となるが、知らないでいたとしたら、これはただの間抜けである。
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12/26  夏炉冬扇

       夏の火鉢と冬の扇のことで、季節外れで役に立たないもののたとえと
      して用いられる。冬扇夏炉とも。
       ところで、こういうことを言われると、「そうとは限らない」と言い
      出す人が必ずいるものだ。例えば、「正月用の餅をついたら、形が崩れ
      ないように急いで冷まさなければならないから、冬にも扇は必要だ」と
      
かいう類である。
       今年も餅をつく時期になった。年齢と共に腰痛が気になり始めている。
      ボクの代わりについてくれる人はいないだろうか。ボクは火鉢で応援で
      もしていたい。
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12/25  山高きが故に貴からず
       
       山は高ければ価値が高いというものではない。外観よりも中身が重要
      であるということだ。富士山は日本一の霊峰だと思うが、富士より低く
      ても霊験を認められた山はいくらでもある。山に限らず、どんなもので
      も、値段だとかブランドだとかに頼りたくない。
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12/24  詩が好きな人に、金子みすゞを知らない人はいない。素朴で純粋だと
      評価されているが、中でもボクは、「お魚」という詩が気に入っている。

        お魚

       海の魚はかはいそう

       お米は人に作られる、
       牛は牧場で飼はれてる、
       鯉もお池で麩を貰ふ。
      
       けれども海のお魚は
       なんにも世話にならないし
       いたづら一つしないのに
       かうして私に食べられる。

       ほんとに魚はかはいさう。

       何一つ悪いこともせず、人の世話にもなっていないのに、一方的にひ
      どい目に遭うことに同情しているのだ。だから、ただの「魚」ではなく、
      「海の魚」はかわいそうだと言うのだ。池にいる魚は餌をもらう分だけ
      いい目を見ているということか。
       物をもらっていれば、ひどい目にあっても仕方がないと言っているの
      ではない。引き替えになる物が何もないことの不条理を嘆いているのだ。
       ボクたちの生きるこの社会のことだと思えばよろしい。
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12/23  今日は天皇誕生日である。誰かの誕生日で日本中が休みになってしま
      うのは、一年中でこの日だけである。
       ちょっと前までは、祝日ともなれば、家々の玄関先に日の丸が掲げら
      れていたものだが、昨今はずいぶん減ったものだ。祝日気分はテレビの
      特集番組で味わうものとなった。かつては、ボクたちの生活で「旗」と
      言えば、日の丸のことだったものだが。
       玄関先から日の丸が消えて、同時に「旗」の字が書けない子が増えて
      きたように思う。気のせいだろうか。いや、ボクたちだってすぐに書け
      るようになったわけではない。何度も間違えながら覚えたものだ。覚え
      かけの時は、書いている途中で「旅」や「族」になってしまったりした
      ものだ。なかなか書けない。
       そういえば、「旗印」とするべきところを「族印」と書き間違えた友
      人がいた。真面目な人物だったが、以来、「ゾク」というあだ名が付い
      てしまった。彼の存在は、文字は大切にすべきだという教訓となってい
      る。
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12/22  エラ

       エラのことを「鰓」と書く。魚が何か思っていると読める。
       水中の魚がエラを動かしているのを見て、何か考えているように見た
      人がいたのだろうか。いや、漢字というのはそんな単純なものではない
      ことは十分に分かっている。それでも、なんだかそんな風に思えてくる。
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12/21  勇将の下に弱卒なし

       「勇将」とは、力のある武将のこと。そして、「弱卒」とは、弱い兵
      士のことだ。「卒」には次のように様々な意味がある。

      そつ【卒】
       (1)下級の兵。武家では、御目見得以下の軽輩。雑兵。
        「上は将から下は―に至るまで」
       (2)「卒族」に同じ。
       (3)「卒業」の略。
        「高校―」「昭和四九年―」
       (4)身分の高い人が死ぬこと。律令制では、四位・五位および王・女王
        の死去をいう。              (「大辞林」より)

       上に立つものが強ければ部下も自然と強いものだ。指導者の力量によ
      り部下の能力は大きく左右されるというたとえである。どのスポーツに
      も名物監督のような人がいるが、チームの力は監督の力に負うところが
      大きいのだ。        
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12/20  理屈と膏薬はどこへでもつく

       膏薬が体のどこにでもつけられるように、理屈はどんな風にも、もっ
      ともらしくつけられるものだということわざだ。それはよく分かるのだ
      が、ボクが気になるのは、このような、何事かぺたぺたと不快にくっつ
      く物事のたとえに「膏薬」がなぜ用いられるかということだ。「内股膏
      薬」というのも、すごく気持ちが悪いと思うのだ。
       表記のことわざは、たとえも面白いが、理屈ばかりこねられる迷惑な
      気分をも表すものだと思う。
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12/19 「上り」と「下り」

       地方から中央に向けて走る電車は上り線だ。これは、子どもの頃から
      納得のできない表現だった。
       ボクは岐阜の生まれだが、名古屋に向けて走る電車が「上り」線で、
      帰ってくる電車は「下り」だと聞いて、なぜそう言うのだろうと思った。
      要するに「田舎は下である」という思考がここにある。そんな考え方に
      従うこの国の習いに納得できないままに成長して、やがて、名古屋から
      東京に向かう電車は「上り」であることに気がついた。上には上がある
      のだ。東京から見たら、岐阜などは「下の下」であるということだ。
       このような表現は、国民生活に染みついたことであるから、なんとも
      しようのないものなのだろうが、住んでいる土地そのものに上下がある
      かのようなものの言い方には、疑問を持って臨みたい。現代に生きるも
      のの知恵として、ということであるが。

      「日本一高い駅はどこか」というなぞなぞがある。答えは「東京駅」だ。
      東京からよそに行くのはすべて下り線だからである。
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12/18  ふと思い出したことである。ボクの父は田を耕すことを、「田返しす
      る」と言っていた。田の土を掘ってはすくい、掘ってはすくいする行為
      は、まさに「田返し」である。
       この言葉は、「耕す」の語源をイメージさせる。「たがえし」と「た
      がやし」は、あまりにも近い。そう、漢字があって読みがあるのではな
      いのだ。その言葉のイメージに最も近い漢字が読みをあてがわれたのだ。
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12/17  思し召しより米の飯

       口先だけの褒め言葉や好意よりも、実のあるもの(=飯)が欲しいと
      いうことである。
       苦労を重ね、汗水垂らして働いた上は、感謝状をもらい、勲章をいた
      だくよりも、生きる糧が欲しいもの。これは人の世の常。衣食足りてこ
      そ礼節を知る。「食」は万事に優先するのだ。
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12/16  一の裏は六

       サイコロの目の「一」の裏は「六」だ。悪いことがあっても、その後
      には良いことがあるはずだということを言う。サイコロを使った博打で、
      「一」は都合の悪い、弱い数字なのだろうか。双六で「一」が出て残念
      がられるのは誰にでもよく分かることだと思う。
       こういう諺に接すると、自分の人生を振り返らざるを得ない。思うに、
      「一」ばかりの人生だった。振っても振っても「一」ばかり。手間ばか
      りかかって、上がりの来ない毎日である。今日はもう寝よう。
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12/15  犬は三日の恩を三年忘れず

       犬は三日飼っただけでも、三年その恩を忘れないということだ。ここ
      まで聞くと、「そうそう、ネコは三年の恩を三日で忘れる薄情者よね」
      と反応が返ってきて、猫と犬とどちらが好きかという話に発展してしま
      う。
       しかし、そもそも、この言葉は、犬でも小さな恩を忘れないのだから、
      人間ならなおのこと恩を忘れてはならないという事を言っているのだ。
       薄情な自分のことを思うに、そろそろ年賀状ぐらい書かねばと思うが、
      忙しくてそれどころではない。
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12/14  岡目八目(おかめはちもく)

       この言葉は「傍目八目」とも書く。将棋などの勝負では、打っている
      当事者よりもかたわらで見ている者の方が冷静に考えることができるの
      で、八目も先まで読むことができるということだ。
       ボクはこの言葉を子どものころ、「おかめとひょっとこ」の「おかめ」
      のことだと思っていた。そして「八目」はタレ目のことだと思っていた。
      つまり、「おかめの目は垂れている」という諺である。なんのことやら。
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12/13  渡る世間に鬼はなし

       世の中には無情な人ばかりではなく、慈悲深い人もいるものだという
      たとえである。しかし、そうであるならば、この言葉は「渡る世間に鬼
      もいるが、そうでない人もいる」とすべきではないかと思う。「鬼はな
      し」は言い過ぎだ。
       ボクは以前、夜分に大学の構内で友達の車を運転中、坂と間違えて階
      段を降りるという失敗をしでかしたことがあるが、その時は、車体が立
      てた大音響に化学研究室の窓がばっと開いて「やったあ」と声が上がっ
      た。いまいましい野次馬だと思ったが、ボクの話を聞いて、結局はその
      人たちががやがやと集まってきて、車を階段の上まで引き上げてくれた
      のだった。
       ボクの生活実感からすると、鬼のような人より、仏のような人の方が
      はるかに多い。逆に自分を振り返って、何か良いことをしてきたかと思
      うと気分が暗くなるほどだ。世の中に生かされている自分である。
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12/12  悪い親も良い子を望む

       どんな悪人でも、我が子が悪人になるのを望む者はいないという。こ
      れは、泥棒が息子に「ゆくゆくは、世のため人のために生きる立派な大
      人になるんだぞ」と期待をかけたり、スリが子どもに「人様の物をとる
      ような恥ずかしい大人になっちゃいけない」と諭したりしているようで、
      面白い。
       その「悪い親」だって、本当はそんな生き方がしたいわけではないの
      だろう。生活のため、生きていくために、致し方なくしていることが、
      他の人の財産を奪う行為だったり、嘘をつく行為だったりしているわけ
      で、元に戻ることができることなら、きっと迷わず清らかな生き方を選
      ぶものと思う。
       そうすることができないところが、悪い人の悪い人たるゆえんであろ
      うか。毎日の生活に追われ、自らの罪に埋もれて、自らは変わることが
      できないのだ。そうなれば、自分の子に期待するほかないではないか。
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12/11  〜を隔てる

       間に何かを挟んで距離を置くことである。中学の国語教科書には松尾
      芭蕉の「奥の細道」が取り上げられているが、その中に「衣が関を隔て
      て」という部分がある。「衣が関を間に置いて」の意味になる。
       「隔靴掻痒(かっかそうよう)」という言葉も、この伝で、間に置くの
      は靴である。靴の上から痒(かゆ)いところを掻(か)くというのだから、
      掻いても掻いても痒みは止まらない。これは、もどかしいことのたとえ
      になっている。
       「御簾(みす)を隔てて高座を覗く」という言葉もある。顔がはっきり
      見えず、何を話しても、さぞもどかしいことであろう。
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12/10  「意味深」は「意味深長」の略語であろう。全部言わないで途中でや
      めるのは、事情通らしい言葉遣いだ。洒落ている。
       ところで、こういう文字面を見ていると、「興味しんしん」をどう書
      くのかに自信がなくなってくる。「興味深々」だった気がしてくる。そ
      んな人はいないだろうか。
       正解は「興味津々」である。大辞林を見てみよう。

      きょうみ-しんしん 【興味津津】 (ト/タル)[文]形動タリ
       興味が尽きないさま。あとからあとから興味がわくさま。

       では、「津々」とは何か。

      しんしん 【津津】 (ト/タル)[文]形動タリ
       あふれ出て尽きないさま。
       「興味―たるものがある」「―として興味の尽きぬものである/肖像
       画(四迷)」

       湧き上がる様子を「津々」で表しているのだ。「津液(しんえき)」と
      いえば、唾液や血液、涙など、体内を流れる液体の総称だが、次々と湧
      き上がるものという意味があるのだろう。
       ここまで考えれば、「意味深」と「興味津々」を書き間違えることは
      ないはずだ。ここまで思い出せればの話であるが。
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12/9   「三国志」と呼ばれるものには、「正史 三国志」と「三国志演義」
      がある。「正史 三国志」は、晋の時代の陳寿という人物によって書か
      れたが、書き方があっさりしていて、「何年に誰々がこうした」という
      感じであった。この漏れを補って、宋の時代に裴松之(はいしょうし)
      という人物が注をつけた(429年完成)ものが「正史 三国志」である。
       「三国志演義」は、「正史 三国志」よりも1100年後の明の時代
      に羅貫中(らかんちゅう)によって書かれたもので、正史を小説化した
      ものである。正式には「三国志通俗演義」という。
       日本では「三国志」というと、横山光輝のマンガ「三国志」のことで
      はないだろうか。吉川英治の「三国志」も有名だが、中学生はマンガか
      ら入る。全30巻。これを読み切って、小説に挑戦するパターンがある
      ようだ。マンガの力を侮ってはいけない。
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12/8   成道会(じょうどうえ)

       今日は、釈迦が悟りを開いた日と伝えられている。
       二五〇〇年前、インドのカピラ城の王子として生まれた釈迦は、生・
      老・病・死など、人間の逃れられない苦しみを解決しようと、29才で
      出家した。6年間の修行を経て12月8日、菩提樹の下で、明けの明星
      の輝きとともに、悟りを開いたと伝えられている。成道とは、悟りを開
      くという意味なのだ。
       花祭り(釈迦誕生日=四月八日)、涅槃会(釈迦入滅の日=二月十五日)
      とともに、釈迦にまつわる記念日は昔から人々に親しまれ大切にされて
      きた。現代の子どもたちは、せいぜいキリストの誕生日しか知らない。
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12/7   鳴かず飛ばず

       税金を軽くするとか、社会福祉を強化するとか、立派なことを公約に
      掲げて立候補したのに、当選すると何も活動をしない議員がいると腹が
      立つ。タレントなど有名人が議員になると、政治家としての基盤が薄く
      て、そんな結果になることもあるが、有名人だけに、批判は大きくなる
      ようだ。世の中を変えるきっかけは選挙だろうが、選挙後の活動に注目
      する人はどのくらいいるだろうか。
       「鳴かず飛ばず」の言葉は、長い間何もしないでじっとしていること
      を批判し、軽蔑して使う言葉だが、その原典は「史記」にあった。そこ
      には「三年不蜚不鳴(史記楚世家)」とあって、将来の活躍にそなえて何
      もしないでじっと機会を待っていることを表している。鳴かないのも飛
      ばないのも、将来のためだというのが、もとの意味のようだ。意外な発
      見である。
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12/6   泣いて馬謖を斬る

       惜しい人物でも、違反があった時には、全体の統制を保つために処分
      するという意味である。
       馬謖を調べてみると、こんな説明がなされていた。

      馬謖
        (190-228)中国、三国時代の蜀の武将。字(あざな)は幼常。雲南討伐
       に活躍、諸葛亮(しよかつりよう)の信任をうけ参軍となる。街亭の戦
       いで命令に背いて戦略を誤り魏軍に大敗したため、軍律により亮は泣
       いて馬謖を斬ったという。            (「大辞林」)

       彼は諸葛亮孔明の部下だったのだ。命令に背いて大敗した部下を、惜
      しみつつ斬ったというのである。馬謖もきっと自分の戦いがしたかった
      のだろう。言いつけ通りにしなかった彼は、バントのサインを無視して
      大振りするバッターのようだ。ある程度の自信がなければ、そんな挑戦
      もできまい。成長著しいところでの失敗だったのだ。「泣いて」とある
      のは、将来性を認めていたからであろう。
       なお、馬謖の失敗は自らの責任でもあるとして、孔明が自らを三階級
      降格させて、丞相から右将軍になったことを付け加えておきたい。現代
      の政治家にも、何か不都合な事件が起きると「泣いて馬謖を斬る」と言
      いつつ、秘書や部下をトカゲの尻尾のように切りすててしまう人物がい
      るようだが、孔明がそういうことはしなかった分だけ立派だと思う。
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12/5   牡丹餅

       牡丹餅は贅沢の象徴だ。餅というだけでも、十分に「非日常」を演出
      してくれるところに、表面にまぶした小豆餡だ。冷めても固くならない
      のは、いわゆる「はんごろし」の状態につぶしてあるからだろうか。ほ
      おばって、しばしの恍惚にひたる。甘い。
       努力もしないで幸福が向こうからやってくることを「棚から牡丹餅」
      と言うが、言い出したのはどんな人物だったかと思う。牡丹餅が庶民の
      贅沢だったことがほの見える。
       しかし、これを越える幸福を見つけた。「開いた口へ牡丹餅」という
      諺だ。「棚から牡丹餅」と言うと、何かこう、畳の上に牡丹餅がぼたっ
      と落ちてきたようで、汚い印象があるが、こちらはナイスキャッチ。自
      らの手も汚れまい。
       心配なのは、牡丹餅が丸ごと口に入ってくるという点だ。幼児や高齢
      者には、窒息の恐れもある。最大の幸福は最大の不幸につながる。幸運
      もほどほどを願うべきだと思わずにいられない。

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12/4   鳥なき里の蝙蝠(こうもり)

       優れた者のいないところではつまらない者が幅をきかせることのたと
      えである。似た言葉を列挙しよう。

       1.鼬のなき間の貂誇り(いたちのなきまのてんほこり)
       2.貂なき森の鼬(てんなきもりのいたち)
       3.貂なき山に兎誇る(てんなきやまにうさぎほこる)

       鼬と貂とは力が拮抗していることが「1」「2」を見ると分かる。し
      かし、そこに「兎」が出てくるとは思わなかった。兎は可愛らしいもの
      の代表格ではないのか。しかし、「ウサギとカメ」の話で憎たらしいこ
      とを言っていたのも、「因幡の白ウサギ」でサメに嘘をついたのも、善
      人顔したウサギだった。意外に憎らしい存在である。
       そこに、「3」のような諺を見つけて思うのは、ボクたちの先祖が兎
      を害獣と見ていた可能性があるということだ。
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12/3   受け身の形の使い方がよく分からない。

       A.ああいう使い方をされては困る。
       B.ああいう使われ方をしては困る。

       どちらをお使いか。そう、どちらが正しいかではなく、どちらを使っ
      ているかである。テレビなどでは「B」の形もよく聞くが、音声として
      消えていくからこそ、許されるものだと思う。そう、ボクはBの形は気
      持ち悪くて仕方がないのだ。
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12/2   鼠 壁を忘る、壁 鼠を忘れず

       危害を与えた側は忘れやすく、与えられた側の恨みは長く続くという
      ことのたとえである。鼠が壁に穴を開けるのは、自分が便利なためであ
      るが、穴を開けられる側の気持ちなど考えることもない。一方、穴を開
      けられた側は、一生消えない傷となるのだ。

       学校でも会社でも、何気なく言ったことが相手を深く傷つけてしまっ
      たという話はよく聞く。まして、「イジメ」は多かれ少なかれ、相手を
      傷つけようとしてやっているということを深く知るべきだ。
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12/1   六十の手習い

       これは六十歳になって字を習うことを照れくささとともに言う言葉だ。
      晩学の大切さをも伝えるものでもあろう。忙しい盛りは文字を習う暇も
      なかったが、ゆとりができていよいよ学ぶという心持ちには清新なもの
      がある。いまさら何を学ぼうという年齢の相場が六十歳であったことを
      示すものだと思う。
       ところがここに、「七十の手習い」「八十の手習い」の言葉があった
      ことに気づいた。ともに、江戸時代に用例がある。
       平成の世は、「生涯学習」が合い言葉のように使われるが、江戸時代
      の方が進んでいた気がしてならない。
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