今日の言の葉 

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 5/31  魚介類

       子どものころ、この言葉を知って思ったのは、どうして「魚貝類」と
      書かないのかという事だった。「魚介類」の「介」とはなんだと思った
      が、宿題が忙しくて調べなかった。
       そもそも「介」の字は、人とその身体を守る鎧の形を表した文字であ
      る。だから、甲殻類や貝類といった、殻を持った生物を指すことができ
      るのだ。「介助」の語にも、守るという意味が入っているのが思い当た
      る。
       すると、殻を持った貝やエビカニはともかくとして、イカやタコの類
      はどうなのだろう。美味しいのは分かるが殻はない。いや、進化の過程
      で殻が消えたが本来は殻があったと説明はつく。では、ナマコはどうな
      のだと言いたい。思うに、あれは断じて魚介の仲間に入れるべきではな
      い。
       なお、最近は「魚貝類」と書くこともあるが、そんなのは認めたくな
      い。熟語の読みの原則から音訓を混ぜずすべて音で読めば、「ぎょばい
      るい」となってしまう。よく責任を持って使ってほしい。
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 5/30  始まりとはいつのことだか、分からない。「試合はもう始まっている」
      と使うが、始まるということが継続している表現で面白い。試合開始か
      らかなり時間が立っても、「もう始まっているよ」は使えそうだ。試合
      開始時刻のあの瞬間のことばかりを指す言葉ではないようだ。
       ここ二十年ほどは、「終わっている」もよく使われる。妙なものが継
      続して表現されるものだと思ったが、ここまで定着するとは予想してい
      なかった。
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 5/29  医療過誤の問題はいつも人の心を痛める。医師たるもの、人を助けた
      い一心であるはずなのだが、どこかに落とし穴があるのだ。
       その「過誤」とは、「あやまち。やり損じ」の意味であるが、「過」
      の字と「誤」の字のどちらに軸足を置いた言葉なのだろうか。「過」は、
      「過失」「罪過」「過料」などの言葉から、「罪になると分かっていて犯し
      た軽い罪」のイメージが強く、「誤」は、「誤解」「誤認」「誤植」などか
      らも、「それがよくない結果になるとは意識しないでうっかりしてしま
      う認識違い」の色合いが濃い。
       この二つが合わさって一つの言葉になっているところに、人間の悲し
      さを感じないでいられない。人は、「まあいいだろう」と判断を甘くす
      ることがあるものだが、それが「過」にも「誤」にもつながっているの
      だ。スピードを出してはいけないと分かっているのに飛ばして事故を起
      こせば「過失」であり、十分検討をせずいい加減な診察をすれば「誤診」
      である。

      「過」は「過ち」 五段動詞「過つ」から。
      「誤」は「誤り」 五段動詞「誤る」から。

       さて、あなたは、「あやまって」というとき、どちらの漢字を使うだ
      ろうか。
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 5/28  名物に旨いものなし

       名物の特徴を大まかに言えば、「その地方でしか手に入らない」とい
      うことになろうか。どこででも食べられる物なら、名物にはならない。
      つまり、どこかの名物にしておくには勿体ないほどおいしいものだった
      ら、たちまち全国に広がるであろうし、味はそこそこだが、苦労してま
      でよその真似をすることもないというものは、どこかの名物に留まると
      いう仕掛けがあるということなのだ。だから、名物を食べるより、どこ
      にでもあるものを食べた方が旨かったりするのだ。
       全国どこでも売っている菓子が、旅行先で地方限定として売られてい
      ることがある。先頃仙台を訪れたときには、見慣れた菓子が「仙台名物
      牛タン風味」だったし、富山では「北陸名産カニ風味」になって並べら
      れていた。買い求めて味を確かめるべきだっただろうが、日頃馴染んだ
      全国版の方がおいしいという予感がするし、地方限定版のパッケージの
      恥ずかしいほどの大仰さに、ついに入手を断念した。
       しかし、そういう特殊な菓子を除けば、名物は旨いものだと実感する。
      最近は新鮮な魚介類に興味が尽きないが、ウニでもカニでも、名産と言
      われる土地に出向いて食べるほど、その味に感動する。そういうものを
      別の土地で食べようとすると、搬送中に食材が傷んで本来のうまさが出
      ないのだ。ボクは、名物にも旨いものがあると思っている。
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 5/27  ラーメンは漢字で「拉麺」と書き、うどんは「饂飩」と書く。どちら
      もボクの好物だ。二つは、似ているようで似ていない。
       最近、
看板に「ラーメン/うどん」とある店を見つけた。「讃岐うど
      ん」の看板まで出ている。腹は減っていたが、入る気はしなかった。と
      んこつ風味のうどんが出されたらどうしよう、コーン入りのうどんも嫌
      だと思ったからだ。(カツオだしのラーメンはこの地方ではよく見かけ
      るから構わない。)
       先日入ったうどん屋は、メニューに各種のうどんばかりが並び、そば
      が一つも載っていなかった。そば屋とうどん屋を兼ねる店が増える中、
      専門性を誇りとしている。これがまたものすごくおいしかった。
       多角的展開ばかりが功を奏するととは限らない。細い道を行くことも
      大切なのだと知らされた次第だ。
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 5/26  断定の助動詞「だ」には、丁寧な「です」の形がある。「これは○○
      だ」と言うときには、「○○です」とも言えるということだ。逆を言え
      ば、「です」で表せるものは「だ」でも言えるということ。形容動詞も
      同様で、「静かだ」「静かです」と二つの形が存在する。
       しからば、「すみませんでした」はどうだろう。これは、「すみませ
      んだった」の丁寧な形ということになる。「申し訳ありませんでした」
      にしても、「申し訳ありませんだった」が元の形として浮上してくるか
      ら、当然おかしな言い方ということになろう。
       文法的な面はさておき、せっかくの「すみません」をさっさと過去の
      ものにしてしまう「でした」は使うべきではあるまい。反省していない
      のかと思われる。謝るときは、現在形で。
      「すみません」
      「申し訳ありません」
       潔い言い方というものがあると思うのだ。
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 5/25  こんな歳になっても、ついうっかり言ってしまうのは、「個人的には」
      である。元々個人の意見なのだから、そんなことを言わなくても個人的
      な見解であることなど分かり切ったことだ。個人と公人とを区別せねば
      ならない場面が我々にどのくらいあると言うのか。不要な言葉である。
       似たものに、「基本的には」がある。わざわざそんな漢語を使わなく
      ても、「もともと」と言えば十分だ。たぶん「発展的には」と言いたい
      自分がいるのだ。小さいところにまとまっていない、別な自分をアピー
      ルしたいのだろうか。
       意見を言うことに縮こまったような表現が溢れている。ダイナミック
      な表現に出会うとうれしくなる昨今である。        
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 5/24  かみ

       神(カミ)は、上(カミ)の方にいる。髪(カミ)もしかり。「陸奥の守」
      などの「守(カミ)」は最上位であることを表す。ボクの故郷では、食べ
      た物をもどすことを「カミ使う」と言った。「シモ」に対する言葉だと
      思う。
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 5/23  にべもない

       何事かを素っ気なく断られたりしたときに登場する言葉だが、断られ
      た場合以外に使い道を知らない。
       さて、「にべ」とは何かというと、これがどうも接着剤のことであっ
      た。ボクは昔の接着剤では「膠(にかわ)」しか知らないから、「にべ」
      の正体を知って、少し世界が広がったような思いになった。

      にべ 【〈膠〉/〈鰾膠〉】
      (1) ニベ科の魚の鰾(うきぶくろ)を原料とする膠(にかわ)。粘着力が強
        い。にべにかわ。
      (2) 〔「ねばりけ」の意から転じて〕困難。面倒。
      (3) 愛想。世辞。                 (「大辞林」)

       言葉って面白いと思う。(2)と(3)の意味の懸隔を見ていただきたい。
      粘り気があるのは、良いことにも悪いことにも使われる。つまり、にべ
      があるのはうれしくないことかも知れないのだ。
       ところで、「にべもしゃしゃりもない」という言い方があるのをご存
      じか。これは「にべもない」を強調した言い方であるが、「しゃしゃり」
      とは何事か。京都では「味もしゃしゃりもない」と味がないことを強調
      して使うようだし、一般に「しゃしゃり出る」は強調された「出る」で
      ある。まったく交渉の見込みのない断られ方をしたときには、「にべも
      しゃしゃりもない」を使ってみようと思う。
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 5/22  一軒家

       この言葉のイメージは、田んぼか畑に囲まれて、隣の家まで距離のあ
      る、ぽつんと寂しいたたずまいの家といったところか。だから、「一軒
      家を改造したレストラン」などと使われると気持ちが悪いことこの上な
      い。「一戸建て」という言葉がある以上は、そちらを使ってほしいのだ。
       しかし、辞書を引けば、「長屋でなく一戸建ての家。独立家屋(「大辞
      林」)とはっきり書かれている。だから、「一軒家を改造したレストラン」
      は言葉として無理がないということになる。
       辞書による強引な解決。しかし、ボクの頭の中には「野中の一軒家」
      のイメージがあって、「それでも一軒家は隣がない」とガリレオみたい
      な心境になっている。きっと「一軒家を改造したレストラン」のような
      使い方は一生しないと思う。
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 5/21  勿体ない

       食べ残したり使い捨てたりの世の中に「勿体ない」の心は薄い。かつ
      ての流行語に「消費は美徳」(昭和30年代)というものがあったが、決し
      て遠い過去のものではないはずだ。
       しかし、「勿体ない」とは、いったい何がないことを言うのか、気に
      なる。調べてみよう。

      もったい 【▼勿体】 〔本来は「物体」で、物の形の意〕
      (1) 態度などが重々しいこと。威厳があること。
        「―がある」
      (2) 態度や品格。風采。
        「遣手にしては―がよし/歌舞伎・助六廓夜桜」(「大辞林」から)

       要するに「勿体」とは、重々しさのことだ。だから、「勿体をつける」
      「勿体ぶる」というのは、相手に求められた物や情報を軽々しく持ち出
      さず、その価値を相手に認めさせようとすることを言うのだろう。そう
      して値打ちを説くのが当然なのに、そういうこともせず気前よく物を下
      さる主人には、「これは勿体ない……」と平伏したくなるというものだ。
       ところで、(1)に「勿体がある」という言い方が載っていたが、これは
      初めてだ。人前で使ってみたくなった。言葉遣いの間違いを指摘する人
      がいたら、「何を言うか。これは辞書にある言葉だ」と逆襲してみるの
      も面白い。そこで「勿体ない」の意味を勿体ぶって話すというわけだ。

      聞いてる方はたまらないだろうな。
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 5/20  小面憎い

       ねんねこさっしゃりませ
       ねたこの かわいさ
       起きて泣く子の ねんころろ
       つらにくさ ねんころろん ねんころろん

       中国地方の子守り歌である。「つらにくさ」とは、「面憎さ」である。
      「面憎い」の意味は、「顔を見るのも憎らしい」であるから、この歌は、
      起きて泣く子は顔も見たくないと言っているようで、これは寝るしかな
      い。
       「小面憎い」は、その縮小版といったところか。憎々しい思いが少し
      軽いから、親しい仲にも使えそうだ。「小」がつく言葉はほかにもたく
      さんある。

      「こざかしい」…………「小賢しい」
      「こじゃれた」…………「小戯れた」
      「こいじのわるい」……「小意地の悪い」
      「こなまいき」…………「小生意気」
      「こいきな」……………「小粋な」
      「こさびしい」…………「小寂しい」
      「こじれったい」………「小焦れったい」
      「こぜりあい」…………「小競り合い」
      「こぜわしい」…………「小忙しい」

       どうも「小」には「ちょっと」以外の、かみ合わせの悪い思いが混入
      しているように思う。「小料理屋」も、小さいという以外に、「しかし
      なかなか質のよい」という思いがあるようだ。そうでないものは「食堂」
      と言えばよい。
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 5/19  差し金

       ボクは高校のころは演劇部に所属していた。舞台装置を作るのはお手
      の物だったが、中学のころから大工道具に親しんでいたからだ。当然、
      差し金の使い方も慣れたものだったのだが、テレビの時代劇でこの言葉
      が出てくるたびに首をひねっていた。
      「そいつぁ、どいつの差し金でえ」       
       話の流れからして、それが「指図」を意味する言葉だとは分かっても、
      あのL字形の道具が頭をよぎって仕方がない。どんな関係があるという
      のか。

      さしがね 【差(し)金】
      (1) (「指矩」とも書く)大工の使う鋼または黄銅製のL字形の物差し。
       まがりがね。かねざし。 →曲尺(かねじやく)
      (2) ((4)より転じて)陰にいて人をそそのかし操ること。
       「こんなことをしたのは誰の―か」「いらざる―」
      (3) 操り人形で、人形の手首や指を操作する棒。
      (4) 黒塗りの竿(さお)の先に針金をつけた芝居の小道具。陰火やチョウ
        を飛ばしたり、ネズミなど小動物を動かしたりするのに用いる。

       差し金は、芝居の小道具だった。ボクが思っていた大工道具とは形も
      使い方も違うのだ。つながりのない別物を同じ言葉で表すのは、もうい
      い加減にしてほしい。
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 5/18  吝かでない(やぶさかでない)

       なんだかもったいぶった言い方である。「何々するのに吝かでない」
      と使うのだが、成人してしばらくしても、この言い方が何が表すのか、
      微塵も分からなかった。「吝」の字は「しわい(吝い)」とも読み、つま
      りは「けち」の意味だ。「やぶさかでない」とは「何々するのに努力を
      惜しむようなことはない」の意味で、要するに「喜んで協力しよう」と
      いう、前向きな意志を示すものだ。
       それならもっと意欲を表せばよいものを、この言葉は、「やってあげ
      てもいいけどね」と言っているようだ。これを現代流に言えば、「やっ
      てあげなくもないかも……」である。これは聞いていていらいらする。
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 5/17  生しい

       「なましい」と読む。先日、イカの姿焼きの実演販売の折に「生しく
      仕上げてあります」と表示されていたのが印象に残っている。辞書を引
      いても載っていない言葉だ。
       しかし、ボク自身は子どものころから知っていた。揚げ物や焼き物を
      作った母が、ちょいと味見をした折などに「ちょっと生しい」などと言
      うのを覚えていたのだ。この言葉は、「よく焼けていない、中まで十分
      に火が通っていない」ことを表すものだ。つまり、料理では「失敗」を
      意味する言葉だ。印象は良くない。
       それがここでは、単に焼きイカのやわらか品質を表すだけ。それが特
      長であるような書き方であった。
       方言の中にも方言があると感じた次第である。
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 5/16  時代劇などを見ていると、ときどき「ごくつぶし」の語に出くわす。
      人を罵って、「このごくつぶしめが」などと使うのだ。どんな字で書く
      のか、気になっていた。
       調べてみると、これが「穀潰し」である。「穀物」を食い尽くすイメ
      ージだ。発音上、「ごく」の部分は「極道」と同じで迫力があるが、漢
      字で書くとそうでもない。「穀象虫(コクゾウムシ)」のような文字面に
      がっかりである。
       しかし、まあ、穀潰しとは、穀象虫みたいなものなのだ。米びつに巣
      くう道楽者、そう覚えれば、こんな言葉も漢字で書けるであろう。
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 5/15  昨日、琴線について書く中で、大辞林に「きんのこと」と補足がある
      のが気になっていた。「琴」は「きん」と発音するからそう呼ぶのだろ
      うが、こういう区別したような呼び名は、さらに別の「○○のこと」が
      あることを示唆するものだ。当然「箏」が浮かび上がってくる。
       この音読みが「そう」だと分かっているので、「そうのこと」かなと
      予想を立てて調べてみると、ちゃんと辞書にも載っていた。

      そうのこと さう― 【▼箏の琴】
       「箏(そう)」に同じ。
       「四の親王―調べて一の宮に奉り給へば/宇津保(沖つ白波)」

       予想が当たってうれしいが、引用された「宇津保物語」は平安中期の
      ものだ。やはり昨日調べたとおり、琴の伝来は相当に古いものらしい。
      そして、そのころ既に「きんのこと」と「そうのこと」と呼び分けられ
      ていたということが分かる。
       身分の高い人にしか扱えない楽器なのだろうが、こういう呼び分けに
      は、音楽が生活化された印象がある。
      「ごめん、こと持ってきて」
      「『こと』じゃわからないでしょ」
      「きんのことよ」
      「初めからそう言ってくれると分かるわ」
       そういうことだろう。ボクたちの生活にも、そういうものがほしい。
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 5/14  琴線(きんせん)

       使われなくなった言葉である。先日、某雑誌に「人の心の琴線に触れ
      るすばらしい映画」という記事を見たが、もはや目にするとしても、そ
      のような誤用しかなくなったのであろうか。「心の琴線」とまで言わな
      くてよいのだ。「琴線」は人の心の真情のことなのだから。
       そもそも琴線とは、琴の弦のことだ。触れれば良い音色がする。人の
      心が楽器ならば、一本の弦を弾いただけでも静かな共鳴がその空間を支
      配するだろう。
       さて、その「琴」だが、あのおなじみの和楽器とは別物である。同じ
      「こと」でも、あれは「箏」と書く。問題の「琴」は、次のようなもの
      である。

      きん 【琴】
        中国の弦楽器。琴柱(ことじ)をたてず、七本の弦を張り、一三個の
       徽(き)(勘所(かんどころ))を目印とし左手で弦を押さえ、右手で弾
       く。日本には奈良時代に伝来したといわれるが、平安末期には絶え、
       江戸時代、明の帰化僧心越により再興されたが、現在は衰微。きんの
       こと。七弦琴。

       今は誰も顧みない幻の楽器である。琴の字をその名に留める楽器は、
      「風琴=オルガン」「手風琴=アコーディオン」「管風琴=パイプオルガン」
      「自鳴琴=オルゴール」「竪琴=ハープ」「鉄琴」「木琴」など洋風のものばか
      り。極めつけに、ピアノは「洋琴」と言う。弦の張られた楽器すなわち
      「琴線」の存在するものは、ハープかピアノということか。そこに和風
      のイメージはない。
       余談になるが、この記事を書くことで、子どものころ、ピアノの弦を
      直接手で弾いて叱られた記憶が甦った。どうもやたらと琴線に触れるも
      のではないらしい。「錆びるじゃないの!」の言葉は、子ども心に響い
      たものだ。
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 5/13  長い物には巻かれよ

       処世に長けた人生の先輩はこんなことを言うのだ。強いものに抵抗し
      ても仕方がない。抵抗したって負けるのは分かっているのだから、それ
      よりは、相手に言われるままにして、大人しくしていることだと。
       そう思わせる事実の積み上げ、それが人生であり世の中というもので
      あろう。このことわざは、悲しい真実を種に生まれたものだ。
       しかし、なんとも悲しい言い方ではないか。力関係をはっきり認めた
      敗北宣言のことわざである。あまり前向きであるとは言えない。しかし、
      正面から闘ってすっかりやられてしまうより、ここは言うにまかせてお
      いて、後のことはじっくり策を練ろうという、強かな心意気が伝わって
      くる。
       はずむ前には縮まねばならない。人生、最後に笑えばよいのだ。
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 5/12  細くても針は呑めぬ

       指切りをすると最後に「針千本飲ます」と言うが、千本どころか一本
      でも飲むことはできない。針に限らず、小さく見えても馬鹿にできない
      ものがあるのだ。針を飲んだ方がましだと思える無理な約束だってある。
       話が具体的でなくて申し訳ない。
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 5/11  時間貸し駐車場の電光表示は、「満」か「空」のどちらかである。ボ
      クは能天気なせいか、「空」の字が「そら」と読めて仕方がない。「あ
      き」と読むべきところなのに。都市部の駐車場に「空」の字が並んでい
      るとうれしい気分になる。それは、空の字にお天気気分が隠されている
      からだと思う。空はみんなのあこがれなのだから。
       中味がないことを示す「空」の字の使い方は、みなあっけらかんとし
      ている。

       
空席 空間 空車 空白 空き缶 空き地 がら空き 空き巣

       ボクにはどれも明るい響きだ。言葉の持つ意味合い以前に、空の字が
      空々しく明るい。
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 5/10  体調が優れない。熱は下がったが、突発的に咳が出る症状が治まらな
      いのだ。医者にもかかったが、その晩に38度の熱が出たこともあって、
      申し訳ないが、今ひとつ信用できないでいる。
       そういうわけで、道すがらの薬局に「免疫力を高めたいあなたに」の
      コーナーを見つけ、気がついたらプロポリスなるものを購入していた。
      ミツバチが吐き出したものと思えば大きく違うまい。人間にも効果があ
      るようだ。パッケージには、「厳選したブラジル産プロポリスを使用し、
      不純物を除去し……」との説明がある。しかし、これを読みながら、ふ
      と何かが引っかかった。「不純物」という言葉が気になったのだ。
       思うに不純物そのものは、決して不純ではない。不純物が混じった状
      態こそが不純だと言えないだろうか。そして、ひょっとすると、除去さ
      れた不純物は純粋なものかも知れない。例えば、ガラス玉ばかり十万個
      ある中にダイヤモンドを一つ混ぜたら、不純物はダイヤモンドの方だ。
       そのダイヤモンドが周りのガラスの真似をしようとしたならば、これ
      は不純中の不純。他者と違うからと言って自らを偽るのは輝きを失う行
      為である。
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 5/9   たらこと明太子の区別が付かない。形も大きさも変わらないから、店
      先に表示もなく置いてあるだけなら、どちらと言われても分からないだ
      ろう。仕方ない、辞書(「大辞林」)を引いてみよう。
       
      メンタイ-こ 【明太子】
       スケトウダラの卵巣。一般に、塩蔵して唐辛子を加えて熟成したもの
       をいう。
      たらこ 【▼鱈子】
       タラの腹子。主にスケトウダラの卵を塩漬けにしたもの。たらのこ。

       どちらもスケトウダラの卵である。加工の方法に多少の違いがあるら
      しい。塩味がしたら「たらこ」であり、唐辛子の辛みを感じたら「明太
      子」だと思えばよいのだろうか。
       気になるのは、「辛子明太子」という商品があることだ。明太子にも
      辛子の入った物とそうでないものがあることを示唆する表現だ。調べて
      みると確かに、関西地方から西の地域では、塩味のものは単に「明太子」
      と呼び、唐辛子の入ったものは「辛子明太子」と呼んで区別している。
      つまり、関西には「たらこ」と呼ばれる物はないということだ。そして、
      関東で「たらこ」と呼ぶ物を、関西では「明太子」と呼んでいる。
       どうして関東と関西とで、こんな違いがあるのだろうか。電気製品も、
      関東は50ヘルツ、関西は60ヘルツと対応周波数が違うし、エスカレ
      ーターも、関西では右、関東では左に立たないと、後ろから来た人に嫌
      な顔をされる。
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 5/8   風邪を引いてしまった。この時期に38度の熱はつらい。うなされな
      がら、「かぜ」を「風邪」と書くのはなぜかが気になる。調べてみると、
      これは東洋医学の考え方によるものであった。
       そもそも風邪は、「ふうじゃ」と読む。風邪以外に、「寒邪・暑邪・
      湿邪・渇邪・火邪」の病邪が存在する。これらは自然界の「六淫(りく
      いん)」と呼ばれる要素(=風・寒・暑・湿・渇・火)が、身体に侵入
      することによって引き起こされるものだと考えられている。
       なぜ風邪を引くかというと、「風邪(ふうじゃ)」という邪気が背中の
      上部にある「風門」というツボから侵入することによるものらしい。
       そんな門があったとは知らなかった。けれど、その辺りがぞくぞくし
      ていたことは事実である。あ、また熱が上がりそうな気配がしてきた。
      ひどくなる前に、もう寝るとしよう。
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 5/7   先日の東北行には、新幹線を利用した。そのとき、通路を挟んで反対
      側に座った二十歳前後の男性が後ろの乗客に、小声で「席を倒しても良
      いでしょうか」と尋ねていたのがうれしかった。そういうことが言えな
      い人が増えているからだ。声をかけられた白髪の男性も、驚きながら快
      く、「どうぞ」と返していた。若者が首からヘッドフォンステレオを下
      げた、いかにも現代風の出で立ちだったので、そんな言葉が突然降りか
      かってきたのが、意外だったのかも知れない。
       現代の若者がダメだとか、年寄りがなっていないとか、身勝手にそん
      なことを嘆いていてはいけないと思う。若者も年寄りも、年の違いは百
      年もないのだ。
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 5/6   親しい友人を待たせた女性が「お待たせしました」のつもりで「おま
      た」と言うのを聞いたことがあるが、いくら親しくても「おまた」はな
      いだろうと思った。これでは「お股」である。略しても「おまたせ」ま
      でに留めておくべきだ。
       しかし、同様の省略を日本人は定着させている。「ゆかた」がその良
      い例で、これは「ゆかたびら=湯帷子」の略である。今でこそ略語の印
      象はないが、初めに誰かがしゃれて省略したのだ。断定はできないが、
      こういうことを始めるのはおそらく若い世代だろう。古い世代が「ゆか
      たびら」と略さずに言っているのを、若い者たちは語らったように「ゆ
      かた」と呼んだと想像する。そうするのが楽しいからだ。
       言い古された言葉を「いじる」のは楽しいことだ。流行語はそういう
      中で命を得て、しばらく世の中にはびこる。そういう中に「ゆかた」の
      ような命の長いものが時々登場するのだと思う。

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 5/5   連休を利用して東北地方に行ってきた。念願の旅である。芭蕉が奥の
      細道の旅で訪れた名所のいくつかを回ることができた。山形の立石寺、
      宮城の松島、岩手の平泉である。
       立石寺は「岩に巌を重(ね)て山とし」の言葉通り、岩場に張り付くよ
      うな位置にある名刹で、仁王門を過ぎ、やがて奥の院にいたるころには
      佳景寂寞として、芭蕉と同じく心が澄みゆくのであった。蝉が鳴いてい
      ないのが惜しかったが、汗ばんだ背中に十分夏を感じていた。
       平泉では、まず高館に登った。眼前に北上川が迫る。衣川が合流する
      地点は、地図の上では近いのに、水量が少ないせいか、はっきり見るこ
      とができなかったので、あの辺りだな、とイメージしてみた。その後、
      中尊寺に参詣したが、金色堂まで歩くのに疲れてしまった。この寺の広
      さはなまなかではないのだ。
       しかし、覆堂内部の金色堂を見たとき、芭蕉は本当に惜しいことをし
      たと思った。門人の河合曽良は当日の日記に、「別当ハ留守ニテ開帳セ
      ズ」と記録を残しているから、芭蕉は金色堂を見ようにも見られなかっ
      たものと思われるが、目映いばかりのその姿は、別当が戻り堂が開くま
      で、何日でも逗留すべきだったのだ。何か先を急ぐ必要があっただろう
      か。
       金色堂は昭和の修理により、かつての煌びやかな姿を保っている。芭
      蕉が訪れたころは、今ほどの輝きはなかったろうが、それでも、仮に見
      ていたとしたら、その感動は紙面からさらに溢れ出るものになっていた
      はずだ。
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 5/4   人間至る所青山あり(じんかんいたるところせいざんあり)

       爽やかな語調の格言。転勤で仲間にお別れをする際に自ら使ったこと
      もある。新しい任地でも、精一杯に頑張りますという気持ちをこめてだ。
       しかし、「青山」は、その爽やかな響きとは裏腹に、墓場という意味
      をもっている。つまり、「人間至る所青山あり」とは、「骨を埋める場
      所はどこにでもある、どこに行っても全力で当たる覚悟だ」という思い
      を表す言葉なのだ。言葉の響きと意味合いとが一致しない例はいくつも
      ある。「青春」も振り返ればものすごく苦いものだった。
       なお、この言葉の原典は、蘇軾(宋)の詩だった。

       授二獄卒梁成一以遺二子由一  蘇軾

       聖主如天万物春 聖主は天の如く 万物春なるに
       小臣愚暗自亡身 小臣は愚暗にして 自ら身を亡ぼす
       百年未満先償債 百年未だ満たず 先ず、債を償い
       十口無帰更累人 十口帰する無く 更に人を累せん
       是処青山可埋骨 是の処 青山骨を埋(うず)むべし
       他年夜雨独傷神 他年 夜雨 独り神(しん)を傷(いた)ましめん
       与君世世為兄弟 君と世世 兄弟となり
       又結来生未了因 また結ばん 来生未了(みりょう)の因を

       なんと言えばよいのだろう。意味より先に感動が来るような錯覚があ
      る。
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 5/3   十露盤

       こう書いて「そろばん」と読む。「算盤」と書くよりも、読みと意味
      とがつながるようだ。子どものころ、五つ玉の算盤はあこがれで、あん
      な難しいものをよく使うなと、よく話題にされたものだ。
       そんな算盤を、ボクたちは、親に内緒でローラースケートに改造する
      方法を考えていた。算盤を伏せて、足を固定するバンドをつければ完成
      のはずだ。それを実行に移さなかったのは、ちょっと乗ってみた感じが、
      「これは折れそうだ」=「これは叱られる」だったからだ。
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 5/2   昔の通貨単位はなかなか難しい。一両は四分で、一分は四朱である。
      そしてまた、一分は千文。すると一朱は二百五十文となる。分かりやす
      く表せば、次のようになる。
      
       1両=4分=16朱=4000文

       とりあえずは分かったが、いつまで覚えていられるだろうか。
       さて、現代の通貨は十進法だが、それがいかに便利なものかは、これ
      で買い物をしたと考えればよく分かる。一両持って買い物に行き、一朱
      足らずのものを買ったら、いくらの釣りが返ってくるか。銀行に二両と
      二朱を預けたら、一年たって利子はいくらつくのか。そしてまた、道で
      一両拾ったとして、これを警察に届けたら、もらえる一割の礼金とはい
      くらになるのか。
       子どもたちに読み書き算盤を仕込んだのは、ごく当然のことである。
      釣り銭を誤魔化されてはたまらないし、店頭では素早い対応も求められ
      たことだろう。
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 5/1   馬力

       これはもともと英語だったものだ。かの国では「horsepower」と言う
      のだ。直訳である。百馬力モーターは「a 100-horsepower motor」と表
      すようだ。自動車のエンジンが何馬力あるかは、特に男性の興味の中核
      をなすと言えようが、馬力という言葉そのものの意味を知る人は少なか
      ろう。

      ばりき【馬力】
      (1) 工業上用いられる仕事率の単位。国によって定義が異なり、日本で
        は、0.750キロワットを一馬力とした。また毎秒550フィートポンド
        (0.74キロワット)を一馬力とする英馬力、毎秒75キログラムメー
        トル(0.7355キロワット)の仏馬力などがある。現在は仏馬力のみ
        が計量法で認められている。          (「大辞林」)

       ボクの愛車は160馬力あるが、エンジンの中に馬が160頭いるのと同じ
      だという程度に考えていた。実際は、「馬力」の意味は上記の通り厳密
      に定められている。しかし、その厳密さが国ごとにばらばらだったのが
      面白い。どうも国際的にはフランスの意見のみが通されているようだが、
      どこの国の定義に落ち着くかで、いろいろと物議を醸したのではないか
      と推察する。
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     過去文 2003年   2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月