今日の言の葉 

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11/30  桜は花に顕れる(あらわれる)

       みやま木のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり
                         (『詞花集』巻一:平安時代)

       桜の木は地味だ。山に生えていても、遠くから見て他の木と区別がつ
      くものではない(中にはそういう特技のある人もいようが)。そんな桜も、
      一旦花が咲けば一目でわかる。そこから、普段は目立たなくとも、いざ
      というときに才能を発揮する人のことをいう諺となっている。
       自分のことを振り返るに、普段から地味だし、いざというときに目立
      てる自信がない。ここぞという時にも花が無事に咲いてくれるかどうか、
      はなはだ心許ない次第である。
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11/29  生酔い本性(ほんしよう)違(たが)わず

       酒に酔っても、その人の本性は変わらないことを言う。酒の勢いで何
      かをしでかしたという話の裏を行く諺である。この諺にある「生酔い」
      をじっくり考えると、これは、ぐでんぐでんに酔っぱらった様子である。
      そうでなければ諺にならない。すっかり酔っぱらって、人が変わったよ
      うになったと見るや、いやいやそうではないのだ、という意外性が諺を
      生むのだ。
       しかるに、「生酔い」は、「生焼け」みたいに中途半端な印象を受け
      る。「なま」には、「生兵法」「生意気」「生返事」などの関連語句が
      あるが、どれも中途半端なイメージである。いったい、「生酔い」とは、
      酔っているのか、いないのか、どちらなのか。困ったら「大辞林」であ
      る。

      なまよい 【生酔い】
      (1) 少し酒に酔うこと。また、その人。なまえい。
      (2) ひどく酔っていること。また、その人。
       「芸者の房八を合手に大―で/安愚楽鍋(魯文)」

       言葉というのは裏腹なものだ。一つの言葉が逆の意味を同時に表すこ
      ともある。驚くほどのことではないが、時には不便でしようがないこと
      もある。
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11/28  童謡「アイアイ」は、明るく楽しい。

        アーイアイ アーイアイ おさーるさーんだよー
        アーイアイ アーイアイ みなーみのしまーのー

       辛いことがあった時にはこんな歌を歌ってみたいと思う。ところで、
      歌の主人公アイアイについて、ボクには長い間疑問があった。それは、
      その生態があまりに不気味で、「悪魔の使い」と呼ばれているところに
      ある。
       マダガスカル島に生きるアイアイは夜行性で、主に昆虫などを食べて
      いる。長く伸びた中指を器用に動かし、その爪が立てる音の反射から虫
      の居場所を特定するという。その大きな耳はレーダーのごとく働くので
      ある。あなたが当地を訪れ、暗闇にうごめくアイアイを発見した時には、
      爪の先に芋虫が捕らえられているかもしれない。
       こんな不気味な動物なのに、なぜこんなに明るい歌が準備されたのか。
      これがボクの疑問である。その疑問が、このほど氷解した。
       作詞家の相田裕美さんは、かわいい動物の歌の作詞を頼まれていたが、
      ある時、南の島マダガスカルに「アイアイ」という名前のサルがいる事
      を知ったのだという。図鑑で見ると目がまんまるで、シッポが長くて、
      木の上にすんでいる。アイアイという名前もかわいいし、童謡にぴった
      りだと思って作詞したそうだ。もちろん、アイアイが「悪魔の使い」で
      あると言われていることなど知らなかったそうだ。
       本物のアイアイを一度も見ないままに作詞をし、曲がつけられ、誰一
      人「おいおい、悪魔の使いの歌はよくないぞ」と批判することもなく、
      大人気の童謡になっていったのだ。昭和42年のことである。以来30
      年以上の長きにわたって、この歌は童謡の定番として親しまれている。
       「百聞は一見にしかず」という言葉が脳裏を去来する。図鑑を見るだ
      けでは何も分からない。さりとて、歌一つ作るためだけにマダガスカル
      のジャングルを探検するのは割に合わないことである。
       もう一つ、言葉というのは面白いと思うのは、「アイアイ」の名前が、
      そもそもは、珍しい動物を発見した案内人の驚きの声だったということ
      だ。それを、そういう名前のサルなのだと思いこんだところからつけら
      れたものらしい。そうだろう、そうでなければ、こんな可愛らしい名前
      が付くはずがない。
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11/27  兄が建前を行う。寺の長男に生まれて四十数年、傷んだ本堂を再建す
      るのだ。檀家信徒の協力抜きには行えない、一大事業である。
       建前は別名「上棟式」「棟上げ式」とも言う。大体の骨格を造り、梁
      (はり)になる一番の材木を据え付けるのだ。これが済むと、工事は一段
      落するというわけだ。これが終わらないと、安心できない。
       そんな建前も、言葉の世界では扱いがよくない。上っ面の体裁という
      意味で使われている。せっかくの行事が泣くではないか。
       これは、「旨(むね)を挙げ奉る」ということの洒落ではないかと思う
      のだが、どうだろうか。同じ挙げるなら、高く上がるのが立派だという
      発想がある気がする。
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11/26  「来年のことを言えば鬼が笑う」について、しばらく前に書いたが、
      「明日のことを言えば鬼が笑う」の形も見つけた。よく知られた「来年
      のことを言えば……」の形は、生活に余裕がなくて、来年のことまで考
      えられないという生活実態が背景にあるのだと見てきたが、今回のもの
      からは、明日のことすら考えられないその日暮らしぶりが伝わってくる。

       ボクは仕事で行き詰まると、明日のことが見えなくなる。こんな自分
      にも、そろそろ来年のことを考えねばならない時が来ている。年賀状ど
      うしようとか……。あ、これは今年の問題だった。
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11/25  後天的

       初めてこの言葉を知った時の違和感をまだ覚えている。小学校のころ
      のことだ。「先天的」という言葉は知っていたから、それをもとに作ら
      れた造語だと思ったのだ。だから、「先天的」は認めても、「後天的」
      の方は認めていなかったし、使わなかった。「生まれつきじゃない」と
      言っていた。
       やがて長ずるにつけ、「天性」「天賦の才能」などの言葉に触れるよ
      うになると、「天」の字が「天に授かる」の意味を持つことに気がつい
      た。こうして「後天的」は、ボクの中に取り込まれていった。
       同様に、「形而上」の対局に「形而下」があると知った時も、体に満
      ちる不思議な感覚にさいなまれた。ただしこれは、「形而上」でさえ手
      に負えないのに「形而下」だなんて、もってのほかだという諦め感の強
      いものであったが。
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11/24  ハリウッド映画が、封切りと同時にDVDとして販売されるというの
      で驚いた。そんなことをしたら、誰も映画を見に行かなくなるではない
      か。聞けば、これは中国の一部地域でのことらしく、映画の上映中にビ
      デオカメラを据え付けて、銀幕ごとコピーを取ってしまうらしい。その
      手口は、ボクたちが中学の頃、テレビの主題歌をラジカセに録音するの
      にそっくりだが、これを売りに出しているところが大いに違う。その辺
      の露天商で封切りほやほやの映画が売られているのだ。
       こうしたやり口を「海賊行為」と呼ぶ。知的所有権がどうのと難しい
      話をしなくても、いくら何でもこれはひどいと思う。人の作ったもので
      不当に利益を上げることは、すなわち悪なのだ。
       ところで、これをなぜ「海賊行為」と呼び、作られたものを「海賊版」
      と呼ぶのか。「山賊版」ではいけないのだろうか。
       どうやら英語を和訳したものであるようだ。なぜ海賊か、と言われて
      も、もともとそうだったのだから仕方があるまい。思うに、「根こそぎ
      持って行ってしまう」イメージは、山賊よりも海賊の方が強烈だったに
      違いない。

      かいぞく-ばん 【海賊版】
      〔pirated edition〕著作権者の許可を受けないで複製・販売される書籍
      ・テープ・ソフトウエアなど            (「大辞林」)
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11/23  無悪善

       嵯峨天皇(786〜842)の時のこと、「無悪善」と書かれた札が、何者か
      により内裏に立てられた。意味が気になる嵯峨天皇は、漢文学に優れる
      小野篁(おののたかむら)を呼び出し、「これを読め」と命じたが、篁
      は、「確かに読めますが、畏れ多いことですので、口に出すことはでき
      ません」と言う。天皇は「かまわず申せ」と言うので、篁はしかたなく、
      「さがなくてよからん」と読んだ。「すなわち、御君を呪い申している
      のです」と。
       「悪」という文字は「さが」という読みがあるので、篁は、「悪」は
      「嵯峨」を表すと考えたのだ。「無悪善」とは、すなわち、悪(嵯峨)
      無(なくて)善(よからん)。
       篁の答えを聞いた嵯峨天皇は、「このようなことは、お前以外に誰が
      書こうか」と疑った。「そう思われると分かっていたので、申し上げま
      すまいと申したのです」と篁が答えると、天皇は言った。「それでは、
      書いたものなら何でも読めるというのだな」「何でも読みましょう」と
      篁が答える。天皇は、「子」という文字を十二書いて、「これを読め」
      と言うではないか。

       子子子子子子子子子子子子

       篁は、「猫の子の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読んだ。「子」の
      字の読みは、音が「シ」、訓が「コ」と「ネ」である。確かにそう読め
      る。

       子子ノ子ノ子子子 子子ノ子ノ子子子
       ねこ こ こねこ しし こ こじし

       これを聞いて嵯峨天皇は微笑み、篁は何のおとがめもなくすんだので
      ある。            (「宇治拾遺物語」 小野篁広才の事)

       これを生徒に話すと、「の」はどこから来たのかと聞かれた。言葉を
      つなぐ「の」が文字にない例は、「平清盛」「源義経」などにも見られ
      る。この方式で行くと、ボクは「きしのひろみち」である。       
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11/22  最期のお別れ

       小学生女児が連れ去られ殺害されるという痛ましいニュースが流れた。
      その葬儀が行われたと伝えるテレビ画面のテロップが「最期のお別れ」
      だったのだ。
       こういう使い方をしてしまうのは、人が死ぬ時の「さいご」は「最期」
      と書くと学校で習うからである。しかし、このような場合、お別れの場
      面でその人が亡くなるわけではないのだから、「最後」が正しい。
       テレビ局は毎日膨大な量の情報を流すから、こんな間違いはいちいち
      人の記憶にも残されない。しかし、そこに甘えてはいけないと思う。当
      然、校閲の立場の人はそう考えているに違いないが。
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11/21  安達ケ原殿

       安達ヶ原といえば、奥州の地名で、ここには鬼婆が住んでいたという
      ことで有名である。その地名に「殿」をつけて、これが姑(しゅうとめ)
      のこと。嫁の立場からは鬼婆と言うことであろうが、それにしてもひど
      い言い方である。

       仏にもまさる心と知らずして鬼婆なりと人のいふらむ

       明治の歌人・税所敦子(さいしょあつこ)は、嫁ぎ先でひどい仕打ち
      を受けていたが、それはすべて、至らない自分に原因があると考え、慈
      悲を垂れて指導してくれる姑に感謝すべきだと、何事にも不平を言わな
      かった。近所から「鬼婆」と呼ばれていた姑も、この敦子との生活で次
      第に仏心を表すようになったという。この歌は敦子が姑のことを思って
      作った歌である。
       しかし現代、相手への慈悲の心から厳しい指導をしたとしても、この
      敦子のように受け止めてくれる人ばかりではない。相手を見て行動する
      ことだ。
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11/20  来年のことを言えば鬼が笑う

       一年が経つのは早いものだ。大手スーパーにはサンタが踊っている。
      そろそろ気になる来年のことであるが、来年のことを話題にすると、決
      まって「鬼が笑う」とか言われる。
       明日のことも分からないのに、遠い先のことなど、分かるわけがない
      という思いが、この言葉の背後にあるようだ。誰も知らないことを知っ
      ている「鬼」でさえ分からないことだと言うのだろう。
       こうなると、「鬼」そのものの正体が知りたくなる。人知を越えた存
      在としての鬼とは何なのか。「大辞林」を引いてみよう。

      おに【鬼】(名)〔姿が見えない意の「隠」の字音「おん」の転という〕
      (1) (天つ神に対して)地上の国つ神。荒ぶる神。
      (2) 人にたたりをする怪物。もののけ。幽鬼。
      (3) 醜悪な形相と恐るべき怪力をもち、人畜に害をもたらす、想像上の
        妖怪。仏教の影響で、夜叉(やしや)・羅刹(らせつ)・餓鬼や、地獄
        の獄卒牛頭(ごず)・馬頭(めず)などをさす。牛の角を生やし、虎の
        皮のふんどしをつけた姿で表されるのは、陰陽道(おんようどう)で
        丑寅(うしとら)(北東)の隅を鬼門といい、万鬼の集まる所と考え
        られたためという。
      (4) 放逐された者や盗賊など、社会からの逸脱者、また先住民・異民族
        ・大人(おおひと)・山男などの見なれない異人をいう。山伏や山間
        部に住む山窩(さんか)などをいうこともある。
      (5) 子孫の祝福に来る祖霊や地霊。
      (6) 死者の霊魂。亡霊。「護国の―となる」
      (7) (ア)人情のない人。冷酷な人。
        (イ)(「心を鬼にする」の形で)気の毒に思いながらも冷酷に振る
          舞うこと。
      (8) 非情と思われるほど物事に精魂を傾ける人。「文学の―」「仕事の―」
      (9) 鬼ごっこや隠れんぼなどの遊びで、人を探しつかまえる役。
      (10)貴人の飲食物の毒味をする役。おになめ。おにくい。鬼役。

       ボクたちにお馴染みなのは、(3)の鬼だ。どうして虎のパンツを履い
      ているかも分かったが、この意味以外の「鬼」が面白い。「神」「もの
      のけ」「異人」「亡霊」などの超自然の存在がすべて「鬼」でくくられ
      ているのだ。人に悪さをするとか、桃太郎に退治されるとか、人間社会
      に敵対する位置づけを与えられているが、もともと彼らは畏敬の対象で
      あったはずだ。畏敬が敬遠になり、敬遠が高じて敵対になり侮蔑になっ
      た流れを感じる。
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11/19  頭の黒い鼠(あたまのくろいねずみ)

       これは、家の中のものがなくなった時などに、犯人をほのめかして言
      う言葉だ。ネズミは頭がネズミ色だが、盗んだのはネズミではなく、頭
      の色が黒い人間であるという言い方だ。

      「あ、わたしのクッキーがなくなっている」
      「ぼくのチョコも……」
      「どうしたのかしら」
      「ネズミかなあ」
      「いや、これは頭の黒いネズミのしわざね」

       こういう使い方が正しい。しかし、犯人が白髪の老人であった場合に
      は何と言うのか、そこまでは関知しない。       
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11/18  九分九厘

       基本情報が信頼できるもので、事実の確度が高く、ほぼ間違いないと
      自信がある場合などに持ち出す言葉だが、なぜ「九分九厘」なのだろう。
      言いたいのは「99パーセント間違いない」なのに、これでは「9.9
      パーセント」になってしまう。しかし、「九割方」という言い方もあっ
      て、こちらは感覚と表現が一致している。
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11/17  人一倍

       現代人には不可解な表現。一倍なら人と同じはずである。しかし、こ
      れは「二倍」という意味で用いられる。「大辞林」にも次のように説明
      されている。

      
いちばい【一倍】(名)スル
      (1) ある数量に一をかけること。また、一をかけた数量。もとの数量に
        等しい量。
      (2) ある数量を二つ合わせた数量。二倍。倍。
      (3) (副詞的に用いて)一層。ひとしお。

       (1)と(2)とでは大違いだ。どうしてこんなことになってしまったのか。
       井原西鶴の『本朝二十不孝』には、「死に一倍」の言葉が登場する。
      親が死んで遺産が入ったとき倍にして返すことを約束して金を借りるこ
      とだ。ひどいものだと思うが、当時、そういう使い方で「一倍」が用い
      られていたことがよく分かる。増加分が示されるわけだ。
       一方で、「〜層倍」の言い方もあって、こちらは現代の「倍」と同じ
      意味で使われた。「薬九層倍」という言葉は今でも使う。これは、薬の
      定価が原価よりはるかに高く、もうけが大きいことを表すものだ。「坊
      主丸儲け」ほどメジャーではないが、そういうことを世間で言われては、
      薬屋の子どもはさぞ肩身が狭いことだったろうと推察する。

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11/16  鉄は熱いうちに打て

       英語に訳すと、「Strike while the iron is hot.」となる。いや、そ
      ういう説明はおかしい。そもそも、これは英語を訳したものだった。
       そのもともとの意味は、「物事は気持ちや情熱があるうちに、着手し
      たり手を打ったりするべきだ」ということであった。熱い鉄なら加工も
      できるが、冷めてしまえば無理である。チャンスを逸することなく、今、
      取り組もうという前向きな気持ちが感じられる。そこに「鍛錬やしつけ
      は純真な精神を持っているうちにすべきだ」という意味はなかった。こ
      れは昭和三十年代に新たに加わったものらしい。すると、次のような使
      い方が正しかったことになる。

      「みなさん、昨日はお祭りの準備、ご苦労様でした。本番まで一週間と
      なりましたが、『鉄は熱いうちに打て』と言います。本日の作業で、す
      べて仕上げてしまいましょう。」

       自分たちの気持ちをかき立てる、こんな使い方が本来である。若年層
      を鍛える発想は捨て、自分のことから考えたい。隗より始めよ。
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11/15  敵もさる者 引っかくもの

       「さる者」は「然る者」と書く。「敵も然る者」とは、なかなかやる
      じゃないかという思いのこもった言葉だ。将棋でも打ちながら言ってみ
      たい。
       「引っかくもの」とは、「サル」という音から連想したものだろう。
      洒落た言い方だ。この部分がなかったなら、言葉として生き残れなかっ
      たかもしれない。
       ボクはこの言葉から、「サルは引っ掻くものだ」ということも学んだ
      のだが、最近になって、サルの爪が引っ掻くにはあまりに短過ぎること
      を知った。サルは引っ掻くよりは噛みつくもののようだ。サルに寄せら
      れる世間の誤解を解いてあげたい。

       敵も然る者 噛みつくもの (岸作)
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11/14  雪隠で饅頭(まんじゅう)

       人に分からないように自分だけがうまい思いをするたとえだと思って
      きたが、「岩波ことわざ辞典」によれば、「物が食べられるなら、場所
      はどこでもよいというたとえ」という説明も加えられていて驚いた。全
      く別の意味である。
       おかしな話になるが、ボクの故郷では、家を新築すると人を招き、便
      所でうどんを食べさせる風習があった。健康になるとか通じがよくなる
      とか聞いたような気がするが、どういうことだったのだろう。
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11/13  心頭を滅却すれば火もまた涼し

       この言葉は、信長が甲州の恵林寺を焼き討ちした時に快川和尚が唱え
      たものとして有名だが、燃えさかる火の中、彼がその場で作ったもので
      はなかった。これは唐代の詩人杜荀鶴(とじゅんかく)の詩にある言葉で
      あった。

       夏日題悟空上人院  夏日 悟空上人の院に題す  杜荀鶴

       三伏閉門披一衲   三伏 門を閉ざして一衲を披(き)る
       兼無松竹蔭房廊   兼ねて松竹の房廊を蔭(おお)う無し
       安禅不必須山水   安禅は必ずしも山水を須(もち)いず
       滅却心頭火亦涼   心頭を滅却すれば火も亦(ま)た涼し

        暑い三伏の時でも、戸を閉め切って僧衣を着ている
        その上に松や竹が部屋や廊下に影を落とすことも無い
        禅の境地は、必ずしも静かな山や川を必要とはしない
        雑念を消し去れば、火さえも涼しく感じるものだ

       静かに禅にひたる気分が伝わる。これまでこの句に抱いていたイメー
      ジが変わってきた。そこには焼き討ちも暴力もない。感じるのは心地よ
      い緊張と安らぎだ。
      ……………………………………………………………………………………
      さんぷく 【三伏】
       初伏(夏至後の三度目の庚(かのえ)の日)・中伏(四度目の庚の日)
       ・末伏(立秋後初めての庚の日)の総称。最も暑い時期。[季]夏。
                             (「大辞林」より)

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11/12  譬(たと)えに嘘なし 坊主に毛なし

       ことわざが言うことには間違いがないということだ。しかし、後半の
      「坊主に毛なし」は不要である。言葉に面白みとスピード感をつけ、そ
      の間違いのなさを表現するには手頃なものであったと思うが。
       「譬え」とは、「たとえ話」というときにも使うが、「ことわざ」の
      意味で使われた言葉だ。「寄らば大樹の譬え」「長い物には巻かれろの
      譬え」のように使った。「諺」の字で表すことわざは、中国から来た固
      い表現などの場合に使う傾向があったようだ。「門前雀羅を張る」「人
      事を尽くして天命を待つ」などの表現が当てはまるものと思われる。
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11/11  伊達の薄着

       お洒落のためにやせ我慢をして薄着をすることである。なるほど、着
      ぶくれした人は格好が良くないと誰しも思うものであろう。
       最近は、ダウンベストやダウンジャケットといった、もこもこした物
      を着る人も少なくなった気がする。格好が良くないのだろうか。ボク自
      身は過去43年間、そういうものを着たことがなかったが、それはボクが
      お洒落だからではなく、正直をいうと、買うためのお金がなかったから
      である。
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11/10  日本記念日協会によれば、今日は「ハンドクリームの日」だという。
      「11月10日」を「いい手(ン)」と読む語呂合わせからの決定だそうだが、
      この日は、平均最低気温が10度を割る境い目の日で、ハンドクリームの
      需要が高くなる日でもあるという。それにしても、「いい手(ン)」と鼻
      にかかった、品を作るような読み方をするのはいかがなものか。
       今日はこのほかに、「いいトイレ」と読んで、「トイレの日」でもあ
      るらしい。心して使用したいと思う。
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11/9   おめでとうございました

       結婚式その他、お祝い事のスピーチでこの言葉が出ると、残念な気分
      になる。「〜でした」は過去のことを表す形なので、めでたい気分が過
      去のものになる。「
お祝いはここまで」と言っているようなものだ。
       祝い事に参列した場合には、たとえそれが少しでも過去のことに思え
      た場合も、「おめでとうございます」と表現することだ。
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11/8   「国字」というのは我が国独自の漢字のことだが、味わいのあるもの
      が多く、覚える快感がある。

       梺   ふもと     
       閊える つか(える)   
       錻   ブリキ     
       嬶   かかあ
       匂い  にお(い)
       膵(臓) すいぞう

       「林を下りたらそこは梺」「門に頭が閊えた」などと覚えられそうで
      楽しい。意外なのは、「匂」や「膵」といった重要な文字が日本オリジ
      ナル漢字であるということだ。「匂」は「臭」という同訓の文字もある
      ことから、あるに越したことはないと思う程度だが、「膵」の字は国字
      なんてことで良いのだろうか。漢字の生まれた中国ではあまり重要視さ
      れてこなかったのだろうか。
       日本には「五臓六腑」と言い習わされている臓器がある。東洋医学で
      膵臓が大切な臓器だと受け止められていたならば、ここに名前があるは
      ずだと思い、調べてみると、次の結果である。

       五臓 心臓・肺臓・脾臓・肝臓・腎臓
       六腑 小腸・大腸・胃・胆・膀胱・三焦


       ご覧の通りだ。「六腑」には「五臓」より重要度の低いものが並んで
      いるようだが、ここにも膵臓は入っていない。当時の医学で、膵臓をあ
      まり大切な臓器だと意識していなかったことを窺わせる。そんな、いわ
      ば末席の臓器に相応な呼び名をつけた先人に敬意を表したい。
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11/7   寒くなった。勤務校まで車で1時間程度と以前書いたが、先日は早朝
      に到着する必要から、6時前に家を出た。途中、昇り来る朝日に感動も
      したが、これからは日の出が遅くなるから、真冬には暁闇をヘッドライ
      トを頼りに走るのかと思うと泣けてきた。車は凍り付いているだろうか
      ら、暖機運転のための早起きも必要だ。
       今年の三月、前任校での職員会を思い出す。転勤者を告知する会だっ
      た。そこでボクは、当時の校長先生にこんな紹介をされていた。

      「岸先生は、美濃加茂市の東中学校に、こわれて行かれます。」

       誰の耳にも「壊れて行かれます」と聞こえたことだろう。今まで7年
      間もこの学校でさんざん働いて、身も心も粉々なのに、さらに遠い所ま
      で行くなんて、大変なことだと思った同僚は多かったことと想像する。
       しかし、これは「請われて」である。「来てほしい」との要請に応じ
      ての異動であると校長先生は表現したかったのだ。辛さがつきものの異
      動発表に相応しい表現ではないか。

       あれから半年が過ぎた。早朝の出勤にもめげないつもりできたが、そ
      ろそろボクはコワレテきそうだ。
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11/6   来年のカレンダーを買った。ただし、陰暦のカレンダーだ。陰暦は月
      の満ち欠けを元に月日を考えるものなので、現在用いられている太陽暦
      とは根本的に違う。「2月9日よりお使い下さい」という断り書きが記
      されており、つまり、来年の旧正月から使うものだ。
       これには丁寧に毎日の月の形まで描かれている。毎月一日は、新月の
      日だ。そういう知識は持っていたが、本当に毎月が新月で始まるのを目
      で確かめると、感動を覚える。実に見事。
       しかし、月の満ち欠けの周期を調べると、「およそ29.5日」とある。
      このため、「小の月=29日」と「大の月=30日」が交互に設定されてい
      たということだが、これでは一年は365日にならない。29.5×12=354日
      である。太陽暦とは毎年12日ほどずれてくる。3年もすれば、一か月も
      ずれる計算になる。たちまち実際の季節と無関係になり、八月にも雪が
      降るであろう。
       このずれを修正するために「閏月」がある。およそ3年に一度、どこ
      かの月が繰り返されて、一年は13ヶ月になるのだ。この年の一年は、
      384日程度となる。
       その昔、閏年になると、子どもたちは「もういくつ寝るとお正月」と
      歌いながら、「今年は長くて損だなあ」と思ったことだろう。
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11/5   「体」という字は「休」に似ているので、うっかりすると書き間違え
      る。小さい頃から何度も間違えてきたが、大人になっても間違える。先
      日も、生徒の生活記録帳を見ていて、その返事を書こうとして間違えた。
      「ゆっくりと休みたいこともあるよね」と書きたかったのに、「ゆっく
      りと体」と書いてしまった。頭では「休」と書いたつもりでも、せっか
      ちな指が一本余分な線を書く。
       その横棒を書いてしまった時点ではっとして、「ゆっくりと体を休ま
      せたいこともあるよね」と修正に回ろうとしたのだが、生徒は「テスト
      期間でなかなか気が休まらなくて」ということを書いていたので、体を
      休ませるとか書くような担任は、生徒のことをしっかり考えていないと
      思われる危険があると思って、その案は没にした。
       しかし、書いてしまった「体」をどうすれば良いのか。余分な横棒を
      消すことだと思いつき、横線二本で消してみたが、見たこともない文字
      になっただけだった。小技ではダメだ。こういう時には、「その部分で
      インクが漏れしたことにしようか」とか、子どもみたいなことを考える
      ものである。
       結局、文字全体を横線二本で消し、新たに「休」の字を書くことにな
      る。気をつけたいのは、この時に再び「体」と書く可能性があるという
      ことだ。そういう過ちを経験した人には共感して頂けるものと確信する。
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11/4   たまもの

       漢字で書くと「賜」である。「賜物」とも書くが、そう書く立場から
      は、「賜」と書いただけでは「たま」だということか。
       さて、この言葉の語源は、「たまわったもの」であるらしい。つまり、
      「頂いたもの」ということである。「努力の賜」という言い方があるが、
      「努力の結果、頂いたもの」という控え目な思いが感じられて好ましい。
      「実力でもぎ取ったのさ」という不遜さはそこにない。いつも誰かに支
      えられているという事実を忘れたくはない。
       なお、この言葉の元となる肝心の「賜る」だが、これには意味が二つ
      あって困る。「大辞林」によれば、次の通りの結果である。

      たまわ・る たまはる 【賜る(賜わる)/▽給わる】 (動ラ五[四])
       (1)「もらう」の謙譲語。現代語では特にあらたまった時に用いる。い
        ただく。頂戴する。
       (2)「下賜する」の尊敬語。くださる。たまう。  (用例は省略した)

       これはつまり、この言葉が、何かを与える側にも、もらう側にも使え
      ることを示している。例えば、天皇が誰かに何かを下さる行為は「賜る」
      であり、誰かが天皇に何かをいただく行為も「賜る」なのだ。
       混乱は大きいだろうが、自分が誰かにものをあげたりする時などには
      使えない。自分のことを自分で尊敬することはできないからだ。
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11/3   子どもの名前についてだが、苦しい家計を反映した名前というのがあ
      る。「末(すえ)」とか「留(とめ)」とかいうのがそれだ。「子だくさん
      は金がかかる、貧乏の元だ」というわけで、もう子どもはいらないとい
      う家があちこちにあった。そこで、「この子が末っ子。もう生まない」
      という宣言をしたのが「末」であり、「留」であった。男子が産まれる
      と「留夫」「留吉」などと名付けられることも。
       しかし、ボクの知っている人に「捨三郎」というお爺さんがいる。ま
      た、「おすて」というお婆さんもいた。二人はともに、悲惨さの溢れた
      名前とは別に、大声で話す、幸福感溢れたしっかり者だった。
       調べてみると、「捨」の文字をつけることで、悪魔を欺くことがあっ
      たという。この子は親に捨てられた不幸な子だという名前に悪魔も同情
      し、それ以上の不幸を与えないという俗信がここにある。せっかく生ま
      れた子を悪魔に取られて死なせたくないのだ。今は医学の進歩もめざま
      しく、乳幼児の死亡が激減したのでこんな名前はつけなくなった。
       子どもの命名には大いに悩むが、良すぎた名前に追いつかない子ども
      というのも格好が付かないようで、「信長」「秀吉」といった歴史上の
      ヒーローや「天使」「傑作」「天才」といったいけ好かない言葉は名前
      に聞いたことがない。適度に分を心得て、名前は小さく背伸びしている。
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11/2   かつて自分の息子に「悪魔」と名を付けた男性がいて、日本中が騒い
      だことがある。「悪」も「魔」も、人名に使っていけないというルール
      はない。それを組み合わせただけのことであり、「大きなインパクト」
      を与えて人の記憶に残るものだと父親は主張していた。
       それはそうだろうけど、子どもは「悪魔」と名付けられ、悪魔と呼ば
      れ続けてどんな成長を遂げるものか、これほど心配なことはない。その
      名のとおり、悪魔のような人になったら、社会の責任ではないか。庶民
      がくだくだ考えている間に、「この名前は認めない」という決定がなさ
      れた。お上のすることに間違いはないのだ。おまけに父親はやがて麻薬
      に手を出して逮捕された。そんな父親の主張は聞かなくて良かった、と
      多くの国民が胸を撫で下ろしたはずである。
       ところで、「悪」の字が人名に認められている理由がよく分からない。
      「魔」の字もそうだ。これが常用漢字の範囲にあるというだけのことで
      はないか。どうもおかしい。
       人名漢字は常用漢字以外に設けられ、人名を表す場合のみに許されて
      いるが、逆のパターンがあってもいいと思う。すなわち、「常用漢字の
      範囲にあるが、人名に使ってはいけない文字」の規定である。
       「腐」「屍」「罰」のような文字を人名に用いるのは「悪魔」と名付
      けるのと大差ないことである。「不死男」のような例もあるので、縁起
      の悪い文字がそのまま良くない名前だと断定できないという背景もあろ
      うが、常識のない大人が社会に増える一方だということも心得ておきた
      い。
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11/1   携帯電話は非常に便利だが、しばしば社会の敵扱いである。出現の当
      初から、電車の車内での使用が問題視され、盗撮に使用されるという理
      由でシャッター音を解除できなくされ、新幹線の乗務員が操業中にメー
      ルを送っていたと判明し新聞沙汰になったりと、この新しいメディアの
      歴史はトラブルの歴史である。
       それが本日から、自動車運転中の使用について、法律上の扱いが変更
      となった。罰則規定が強化され、運転中は、かけてもダメ、出てもダメ
      で、「ボタンにさわること」「注視すること」のどちらも即反則金であ
      る。
       ボクは以前からハンズフリーの装置を愛用しているが、このケーブル
      が面倒でならなかった。イヤホン式で、耳元からだらりと伸びたコード
      が携帯電話につながっているのだ。車に乗ったり降りたりするたびに付
      けたりはずしたりと、不便な思いをしてきた。しかし、いつ何時、電話
      がかかって来るとも知れないではないか。我慢の毎日である。
       それがここへ来て、ワイヤレスのハンズフリー装置が登場したという。
      携帯電話に電波発信機を取り付け、耳に付けた装置で受信するそうだ。
      コードがないから苦にならないところが売りである。
       便利だろうなあと思う。電波の届く範囲だったら、携帯電話は車の中
      に置いて、自分はそこから多少離れていても話ができる。その範囲内な
      ら買い物だってできるかも知れない。ケーブルがない分、ものすごく自
      由だ。半径百メートルぐらい自由にならないだろうか。
       ここまで考えて、はっとした。人をそういう不便さから解放するのが
      携帯電話ではなかったか。携帯電話が携帯できない時代が来て、別のモ
      ノを携帯することで解決しようとしている私たちである。
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     過去文 2003年   2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月