今日の言の葉 

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 1/31  外食をすると、頼んだものがテーブルに届くときに「こちら、ざるそ
      ばになりまーす」「味噌煮込みになりまーす」などと言われる。おかし
      な日本語だ。最近のはやりの表現のようだ。
       ざるそばが手品で味噌煮込みになるのなら、びっくりして耳がでっか
      くなるだろう。
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 1/30  「ハニカム構造」の「ハニカム」を、英語では[honeycomb]と書く。
      それなら、初めから「蜂の巣構造」と言ってくれればいいのに。ボクは、
      「はにかむ構造=何か恥ずかしがる様子をした構造」ではないかと真剣
      に考えたことがある。[honey]+[comb]で蜂の巣なのだ。でも、[comb]
      だけでも蜂の巣の意味がある。
       さて、「蜂の巣」を短く言うと「蜂巣」だ。これが縮まり、「はす」
      になった。そう、仏花に使われる「蓮」は、つまり蜂の巣構造だった。
      確かに花の散った後には、蜂の巣のようなものができている。そこに種
      が入っているのだ。これは砂糖漬けにするとおいしい。
       ご丁寧に、蓮は根っこまでが蜂の巣構造だ。何かの虫が食べた跡に見
      えて、子どものころは食べることができなかった。呼び名が「レンコン」
      と軽薄なイメージの発音だったこともある。何も考えていないような響
      きだと思わないか。

       子どものころは、いろいろ言い訳をして、好き嫌いをしていたようだ。
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 1/29  雪の日の運転中、たまたまFM放送をかけていたら、「とても滑りや
      すくて良かったです」といっていた。ちょっと不思議なフレーズに何事
      かと思ったら、スキー場からの中継だった。山から下りてきた人の感想
      だったのだ。ゲレンデの状態が良かったらしい。
       駅でも凍結路でも、「滑りやすいので、ご注意下さい」のように使わ
      れる「滑りやすい」が、ここでは認められた存在だ。一つの事実が好ま
      れたり嫌われたりしている。ちょっとおもしろい。
       これは要するに、コントロールできるかどうかの問題なのだと思う。
      スキーの「滑りやすい」は、「思うように滑れる」だし、路面の「滑り
      やすい」は、「思った以上に滑ってしまう、制御至難」を表すのだ。
       ボクは、能動的な「滑る」と、受動的な「滑る」があることに気がつ
      いたわけだ。
       駅の構内を滑って競うスポーツがあれば、「今日はトイレの前のタイ
      ルの状態が最高だったな」「うん、滑りやすかったね」となるところだ。
      そういう競技が開発されない限り、世間では「滑りやすい」は日陰者あ
      つかいだろう。
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 1/28  タバコに閉口すると言えば、風呂上がり以上のものはない。
       ファミリー銭湯でゆったりした後、脱衣場に上がるや、そこには喫煙
      スペースが……。店主の配慮だろう。風呂上がりの一服は最高だよ、と
      だれが言ったものか。
       ボクは着替えつつ、どんどんタバコが体に染みこんでいくのを感じる。
      せっかく洗った髪にも、替えたばかりの下着にも。着替えの順を追って
      臭いが染みついていくのだ。で、結局は帰宅後に着替えることになる。
      腹立ちにまかせて洗髪に及ぶこともある。アホらしいことだ。同じ料金
      を払っているのに。
       そんなにイヤなら、ファミリー銭湯に来るなと言われそうだが、迷惑
      をかけているのはこちらではない。だいたいタバコは「嗜好品」なのだ。
      好みには人により差があることを分かってもらいたい。タバコの嫌いな
      人は首に看板を下げて歩かねばならないというのか。どうせこの国では、
      そんな看板、無視されるのだろうし。
       ああ、シンガポールに住みたい。

      しこう-ひん 【嗜好品】
       栄養のためでなく味わうことを目的にとる飲食物。酒・茶・コーヒー
       ・タバコなど。                  (大辞林)

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 1/27  先日、焼き肉のチェーン店に行った。店員に案内されるまま席に着い
      たものの、周りの客のタバコの煙に閉口した。しばらく我慢したが、こ
      れから食事を楽しもうという身にこの煙は耐えがたい。仕方なく、席を
      替えることを申し出た。
       店員は申し出に応じてくれたものの、「なんだこの客は」という表情
      だった。「煙がイヤなら焼き肉屋に来るなよな」とでも思っていたのか。
      君、客商売なんだから、明るく対応したまえ。
       そういえば、大抵のファミリーレストランには禁煙席があるのだが、
      焼き肉屋の禁煙席というのは聞いたことがない。煙は焼き肉屋の前提な
      のだ。ここまで来てそれはないだろうという気持ちは分かる。だがね、
      焼き肉の煙は食欲をそそるが、タバコの煙は、あれは毒物だよ。しっか
      り区別してほしい。
       健康増進法が施行され、公共施設はどんどん禁煙になっている。国を
      挙げて「タバコは毒だ、迷惑だ」と言っている時代だ。愛煙家の方々も
      もう少し周りを見てもらいたい。自分がタバコを好きだからと言って、
      周りにもおいしい香りだろうと思うのは大きな勘違いというものだ。
       まず、町から「禁煙」の文字をなくしたい。そう、原則全面禁煙だ。
      しかし、それではあんまりタバコ好きがかわいそうだから、周りに迷惑
      のかからない喫煙スペースを作って、そこに「喫煙可」の表示をするの
      だ。電話ボックスを復活させればいいのだ。「タバコボックス」。イヤ
      ならタバコをやめることだ。
       ボクだって、苦労して禁煙したのだ。できないことはあるまい。
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 1/26 「双璧」という字の下の部分は「」なのだと書いたが、「『完』も
      そうだよ」と教えてくれる人がいた。その気持ちに礼を言いたい。「長
      い間、『完』だと思ってきたけど、じゃなかったんだね」と目から
      鱗が落ちた瞬間の経験まで話された。「無敵の、頑丈な、完全な壁だと
      思ってきた」のだそうだ。だから、「完壁」だと。……防火壁みたいな
      ものだろうか。核シェルターの壁とか。
       一度そういうイメージが焼きついてしまうと、なかなか抜け出すこと
      ができないものだ。そんな人にとっては、「完璧」と正しく書いても、
      なんだか迫力に欠け、不満に思えてならないのではないかと思う。もは
      や、人事ではない。
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 1/25  以前、「おとといおいで」について書いたが、これに似たもので「あ
      さっての方」(または「方向」)というのがあった。「全く見当違いの
      方向」という意味合いだが、何がどうして「あさって」なのか。
       まずは「あさって」の語源だ。調べると、「あす去りて」というとこ
      ろに行き着いた。「明日が去りて(その次の日)」という意味か。これ
      が長い間に「あすさりて」→「あすさって」→「あさって」になったよ
      うだ。
       ここまではなんとか飲み込めたが、「あさっての方」と表現するよう
      になった根っこの部分がまだわからない。
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 1/24  右に高い山があり、左にもそびえる山がある。そういうのを「双壁」
      というのだと思っていた。どちらを見ても絶壁というイメージ。だが、
      ボクは文字を見間違えていた。正しくは、「双壁」ではなく、「双璧」
      だったのだ。

      そうへき 【双璧】〔「璧」は宝玉の意〕
       優劣をつけられない二つのすぐれたもの。両雄。
       「日本文学の―」               (大辞林)

       辞書で、こちらが正解、という答えを見つけても、なんだか納得でき
      ないのは、高い山が二つそびえてこそ迫力があるものだという思い入れ
      がボクにあるからだ。「璧」は宝玉を表す文字だが、そんなものが二つ
      置いてあっても、なんだかあまり価値を感じない。やっぱりそびえ立つ
      岩山だ、絶壁だ。
       負けを認めたくないだけのボクだ。
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 1/23  コンビニエンス・ストアでトイレを借りた。中にこんなプレートが貼
      りつけてあった。

       お客様へ
       いつもトイレをきれいに利用していただき、ありがとうございます。
                                   店主

       こうして保たれているトイレの平和を乱すな、という隠れたメッセー
      ジが読み取れるが、店主は敬語の使い方を間違えている。「いただく」
      は謙譲語なのだ。「トイレをきれいに利用していただいている」のは、
      店主の側だから、この文では、店主が店主を尊敬していることになる。
      込み入った事情となり、これでは解読不能。
       正解は、「トイレをきれいに利用して下さり、ありがとうございます」
      であろう。あるいは、「いつもトイレをきれいにご利用いただきまして、
      感謝申し上げます」と、相手と自分の事情をきちんと分けることだ。

       またうるさい中年になっている。       
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 1/22  今日は旧暦の正月である。中国では、春節という。暦にはいろいろと
      ややこしいことが多いが、旧暦のことを考えるようになって、ようやく
      「小正月」というものが分かった。これは「女正月」とも呼ばれるもの
      で、一月十五日を中においた三日間のことだ。この日は、新年を迎える
      ために年末から頑張り続け、ようやく新年を迎えても気の休まるときの
      なかった、女たちのための正月なのだ。新暦にもあることはあるが、ど
      うしてその日が選ばれたか、さっぱり分からなかったが、旧暦というも
      のをヒントにして考えてみた。
       旧暦の正月は、新月から始まるのだ。「大晦日」とは「晦日」の元締
      めであるが、「みそか」は「三十日」である。つまり、明けた正月は新
      月となる。これに対して、「十五日」が満月になるのは自明のことだ。
      つまり、女には満月を明け渡して、少しは優しいところを見せようとい
      うことであろうか。
       ボクが女なら、満月はいらないから、正月は寝させてほしいと思う。
      だれでもそう思うところなのだろうが。
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 1/21 「は虫類」とは「爬虫類」のことだが、そのように漢字で表記されない
      ことが多い。常用漢字の範囲にないからだろうか。さて、「爬虫類」と
      いう言葉には「虫」の字が入っているが、あれは「虫」なのだろうか。
      その仲間を調べてみよう。

       ・ヘビ ………… 蛇
       ・トカゲ ……… 蜥蜴
       ・マムシ ……… 蝮
       ・ヤマカガシ … 赤楝蛇
       ・カエル ……… 蛙 
       ・サソリ ……… 蠍
       ・コウモリ …… 蝙蝠
       ・ミミズ ……… 蚯蚓
       ・ゴカイ ……… 沙蚕

       途中から爬虫類でなくなっているが、要するに、昆虫以外でも、なん
      だか変なものは、みんな「虫」にしてしまったようだ。いや、「虫」と
      いう枠の中に、「昆虫」や「爬虫類」、「その他」があるようだ。
       嘉永年間に一猛斎(歌川)芳虎という絵師がいて、「新板はんじ物 虫」
      という遊び絵が描かれている。「新板」は「新版」、「はんじ物」は「判
      じ物」ということで、絵解きクイズのようなものだ。そこには、釜を日
      本刀で切る武士だの、戸板の陰に隠れる男だの、妙な姿がたくさん書か
      れていて笑えるが、それが「カマキリ」「トカゲ」などを表すと分かる
      ともっと笑える。香炉のそばに木があって、これで「コオロギ」だが、
      木の絵に濁点がついているのには泣けてくる。
       このページを見てもらいたい。
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 1/20  また「仰げば尊し」だが、その終わりに「いまこそ わかれめ」とい
      う部分がある。「わかれめ」って「別れ目」だろうとなんとなく思って
      きた。今この時こそがみんなとの別れ目だ、というのは訣別らしい言葉
      だが、どこかしっくり来ないと思ったことはないだろうか。そして、古
      語だから変なのは当たり前だと自分を納得させていなかっただろうか。
       実はこれは、係り結びなのである。「こそ」で強調して、文末は「已
      然形(中学生の読者諸君、習っていないね。ごめん。)」である。「別
      れめ」は「別れむ」の已然形であり、「別れむ」の意味は「別れよう」
      だ。つまり、「今こそ別れよう」という、自分たちの気持ちを述べたも
      のだったのだ。「別れの時だ」に比べ、別れがより主体的なものになっ
      ていることに気づくだろう。
       卒業式が終わった後、いつまでも校地内をうろうろする生徒が毎年い
      る。再び職員室に来る生徒も。名残が尽きないのは分かるが、見送った
      側からすると、名残を断ち切って次の一歩に向かってほしいものである。
      歌詞にも、「いまこそ わかれめ いざ さらば」とあるのだ。

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 1/19  年月が過ぎる速さを「いと疾し」というのだと書いたばかりだが、そ
      ういう言葉はほかにもあった。「歳月人を待たず」「光陰は矢の如し」
      などがそれである。人間は歳月のスピードに追いつけないのでそんなこ
      とを言うのであろうか。中島敦「山月記」にも、「人生は何事をもなさ
      ぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い」とある。これ
      は、虎に姿を変えた主人公李徴が過去の不遜な自分の言葉として友に示
      した言葉だが、そんな主人公でなくとも実感が持てる。
       いったいボクは何をしてきたのだろう。毎日、食べて、寝て、の繰り
      返しである。四十年あまりを無為に過ごして、足跡らしいものを残さず、
      ただ生きているだけだ。万葉集に「世の中を何にたとへむ朝びらきこぎ
      去にし舟の跡なきがごと」とあるが、まさにその通り。ボクの漕いでき
      た船は跡を残してはいない。
       でも、李徴のように細かく考えたりしないから、これでいいのだ。こ
      んな自分なら、虎になるおそれもないというものだ。
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 1/18  卒業式と言えば、「仰げば尊し」だったものだが、最近は歌われなく
      なった。もはや「我が師の恩」などという時代ではないのだ。しかし、
      文語調で歌われる歌がなくなることには寂しさを禁じ得ない。こういう
      歌がないと、古典は遠くなる一方だ。
       この歌詞の中で、「思えば
イトトシこの年月」というのがある。「イ
      トシイ」という言葉に似ているとばかり思ってきたけれど、年月のこと
      をイトシイと思ってもしかたがない。
       納得できない思いでいたが、いつしか、「いと+とし」だと気がつい
      た。「いと」は、ご存知のように「大変、たいそう」の意味。「とし」
      は、「疾し」で、「速い」ということ。年月の過ぎるのが速いことを、
      「いと疾し」といったのだ。
       そうでないと、「たいへん年」となるであろう。
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 1/17  人に責任をなすり付けることを「責任転嫁」というけれど、この言葉
      はどうしたものか。「転嫁」とは、再度の嫁入りのこと。嫁入りとは女
      性の側のことだが、責任をなすり付けることをこの言葉の意味を借りて
      表現しているわけだ。女性蔑視の考え方だと思う。
       中学だったか高校だったか、この言葉を知ったときに感じた違和感が、
      ボクにこの言葉を使わせなくしているが、周りの人が平気で使っている
      のを見るとムカムカが消えない。
       知っていても使いたくない言葉だ。
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 1/16  ボクが中学生のころには、学校の授業でマイナスドライバーを作った
      ものだが、今でも作るのだろうか。鉄の棒を熱したり、ハンマーで叩い
      て延ばしたりして、次第にドライバーらしい形にしていく。かなり気に
      入った形になったところで、それを高温で熱して、水の中にジュッと入
      れるということをしていた。
       これが「焼き入れ」だ。こうすることで、鉄は硬くなる。どうしてそ
      うなるのか知らないが、とにかく硬くなる。逆に、この時、水につけな
      いで放っておくと、鉄は軟らかくなる。これを「焼きなまし」と言って
      いた。
       ところで、「焼きが回る」とは、そもそも、刀剣を鍛えるときに火が
      回りすぎて切れ味が悪くなることで、それを人間にも当てはめて表現し
      たものだが、ボクの知っている「焼きなまし」と少し似ている。鉄でも
      人でも、ここぞというとき、冷たい水にジュッとつけて鍛えねば。

      やきいれ  【焼(き)入れ】
       金属の熱処理操作の一。金属を高温に加熱したのち急冷して組成を変
       えること。これによって鋼を硬化させることができる。鋼の場合のほ
       か、ジュラルミンなどに対しても行う。

      やきなまし 【焼き鈍し】
       金属やガラスの熱処理操作の一。金属・ガラスをある温度に加熱した
       のち、ゆっくりと冷却すること。内部組織の均質化、内部応力の除去
       のために行う処理。軟化焼き鈍し、応力除去焼き鈍しなどがある。焼
       鈍(しようどん)。なまし。              (大辞林)

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 1/15  YシャツはYの字のシャツだからYシャツだと思っていたのが中学時
      代。TシャツはTの字だからTシャツだろう。ところが、これが「ホワ
      イトシャツ」という発音からきたものだと聞いて、語源のあいまいさに
      うれしくなったのを覚えている。しかし、このほど、「えっ、Yの形だ
      からYシャツじゃないの?」という人に出会った。ボクが三十年前にク
      リアしたハードルを、今越えた人がいた。同様の驚きと感動があったも
      のと確信するところだ。そう、これが大人になるということなんだと、
      心の中でお祝いをしてあげたい。
       ところで、「T字路」はどうしてそう呼ぶのか。ボクは「T」の形だ
      からだと思っていたが、どうも違うらしい。これは、アルファベットの
      「T」ではなく、漢字の「丁」から来ているということだ。本来、「丁
      字路」であったものを、ずぼらなだれかが間違えて、「T字路」にして
      しまったという。
       その読み方が気になるが、「丁寧」の「丁」だから、「てい」だろう。
      今までは「ティージロ」と言っていたが、これからは思いきり「テージ
      ロ」と言うようにしたい。英語がダメな世代の人みたいだが、突っ込ま
      れたらウンチク返しである。わくわくしてきた。イヤな中年、ここにあ
      り。
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 1/14  加齢とともにヒゲが頑固になってきている。コンビニでT字の髭剃り
      を買ってくるが、すぐにダメになってしまう。T字の安全カミソリは宣
      伝ほど深剃りがきかないので、眉を剃るカミソリも併用して、10分以上
      も鏡に向かうことになる。その姿だけ見ていると、思春期の男子みたい
      だ。
       昔はこんなに濃かったかなあ、とよく思う。ヒゲだけではない。眉の
      中に一本だけ妙な長さの毛が発育しているし、同様の毛が腕の内側の皮
      膚にぴょこりと生えてきている。この体のどこにそんなエネルギーがあ
      ふれているのか。加齢というものの可能性を感じないではいられない。
       さて、ヒゲを剃ることを「ヒゲをする」と言わないだろうか。イント
      ネーションは「剃る」と同じである。この「する」が、賭け事で負ける
      ことを連想させるのか、「ヒゲをあたる」と言い換えることがある。強
      引に福を招こうという気持ちが伝わるではないか。宝くじでも当たりそ
      うだ。
       ボクはさんざんヒゲを当たってきたけれど、パチンコも麻雀もやらな
      いので、せっかく言葉で験を担いでも効果の出ようがないのである。
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 1/13  思い出した。七日には七草がゆを食べていた。春の七草である。しか
      し、本当に寒いのはまだこれから。それでも春を主張する強引さが感じ
      られる行事だ。実際、七草を売っているスーパーを覗いたら、ゴギョウ
      など、土の付いた根っこばかりで、葉っぱの部分がないではないか。小
      さくとも七草を勢揃いさせねばならないという使命感さえうかがわせる
      内容だった。

       セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ

       日本人が五・七のリズムを大切にしていることがよくわかる。これで
      覚えれば間違いがない。ただ、ボクの覚えているのは「春の七草」だけ
      で、秋の方はおぼつかない。半年早く調べてみよう。

       萩の花 尾花 葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴 朝顔が花
                           山上憶良(万葉集 巻八)

      「朝顔」とあるが、「キキョウ」のことだという。それはそうとして、
      春の方も秋の方も、短歌のリズムになっていない。春は足りない、秋は
      言葉がはみ出している。直してあげたい。だめだろうか。
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 1/12  工夫と苦労を重ねて問題に対処することを「四苦八苦」というが、本
      来は仏教の言葉だった。
       まず、「四苦」は「生・老・病・死」の4つの苦しみを指す。生きて
      いく苦しみ、老いていく苦しみ、病気になる苦しみ、死ぬ不安や恐れな
      どの苦しみがこれだ。
       そして、ここに四つの苦しみが加わることで「八苦」となる。一つに
      は「愛別離苦」、二つには「怨憎会苦」、三つには「求不得苦」、四つ
      には「五陰盛苦」である。
      「愛別離苦」とは、家族や愛する人と別れる苦しみ。
      「怨憎会苦」とは、嫌な人と出会い、心身に不快感を受ける苦しみ。
      「求不得苦」とは、努力しても欲しいものが手に入れられない苦しみ。
      「五陰盛苦」とは、人にある「色・受・想・行・識」の五陰から起こる
      本能的欲求の苦しみ。「五陰」とは順に、「色=肉体」、「受=ものご
      とに対する感じ方や受け止め方」、「想=思い巡らすこと」、「行=行
      動」、「識=経験と知識」を意味する。
       もう、特別なことをしなくても自然に苦しいということのようだ。本
      能のままに生きても苦しいし、より人間らしく生きようとすると、ます
      ます苦しくなるようだ。そして、経験がそれに拍車をかける。
       幼い子は汚れがないと言うが、こういうことなのだろう。かといって、
      昔に戻りたいわけではない。戻ると、これまでの四苦八苦をもう一度初
      めからやり直さねばらないのだ。
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 1/11  昨日、「遠江」のことを書いたが、「とほ」の発音が「とふ」に近い
      ことを利用して、ある種の掛詞が使われたことがある。少し前の教科書
      では説明のあったことだが、「太平記」の中にそれが見られる。

       熱田の八剣伏し拝み、潮干に今やなるみ潟、傾く月に道見えて、明け
      ぬ暮れぬと行く道の、末はいづくととほたふみ。浜名の橋の夕塩に、引
      く人も無き捨て小船、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀れと夕暮れの、
      入逢鳴ば今はとて、池田の宿に着給ふ。(岸注:これは原文通りでなく、
      送り仮名を読みやすく改めたものである。)

      「潮干になる」………「鳴海(なるみ)潟」
      「いづくと問ふ」……「遠江(とほたふみ)」
      「哀れと言う」………「夕暮れ」
      「行け(ば)」………「池田」

       掛詞を使って文章を展開していくこの手法はほかの作品にも見られる
      が、このような見事なものはなかなかない。掛詞あなどるべからず。最
      近はお笑いブーム再燃の様子がうかがえるが、お笑いを志す人は古典を
      勉強すべきであろう。
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 1/10  昨日「おとつい」について書いたところだが、「おとつい」の「つ」
      は、「まつげ」の「つ」でもある。「ま」は目を表すので、「ま・つ・
      げ」で「目・の・毛」になる。百人一首の「沖つ白波」も「沖の白波」
      ということだ。「おとつい」とは、意外なところでつながっていた。
       以前、本欄で「遠江」が「とお・つ・あふみ」だと書いた(2/22)が、
      それと同じことだ。ついでだから書くが、旧仮名遣いでは、「とほ・つ
      ・あふみ」だから、「とほたふみ」と仮名を振るのが正しく、これを現
      代仮名遣いで書くと、「とおとうみ」になる。決して「とうとうみ」で
      はないので注意してほしい。
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 1/9   子どものころ、テレビの時代劇などで「おとといおいで」という台詞
      を耳にして、いったいいつ行けばよいのかと思ったが、これは「二度と
      来るな」という意味だった。うまいことを言うものだ。おとといでは来
      ようがない。
       ところで、ボクの家の近くでは、一昨日のことを、「おとつい」とい
      う。「おととい」というのが一般的なように思うが、「おとつい」は、
      方言
なのだろうか。気になったので、調べてみることにした。

       おととい をととひ 【一昨日】
       〔「おとつい」の転〕
       きのうの前の日。いっさくじつ。おとつい。

       おとつい をとつひ 【一昨日】
       〔「遠(をと)つ日」の意。「つ」は格助詞〕
       おととい。主に西日本での言い方。    (大辞林) 

       というわけで、本来は「おとつい」が正解なのだ。岐阜は古い伝統を
      正しく残していると言えよう。しかし、二日も前になると「遠い日」だ
      というのが気に入った。映画「カサブランカ」で、ハンフリー・ボガー
      トがイングリッド・バーグマンに昨日のことを聞かれて、「そんな昔の
      ことは覚えていない」と答えたのは有名な話だが、外国映画を見るまで
      もないではないか。
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 1/8   テレビのコントで泥棒役が「今宵こそ、濡れ手でアワのつかみ取り」
      と豪邸に忍び込むシーンを見たことがある。学校で「五穀」というもの
      を習ったばかりだったこともあって、「アワ」が「粟」であると直感で
      きた。
       今の世の中、そんな老けた小学生ばかりではあるまい。「濡れ手で泡
      のつかみどり」だと考えてしまう子どもが多いという。泡などつかんで
      も面白くない。しかし、粟だとしてもあまりうれしくない。粟おこしは
      嫌いじゃないが、主食とするには力不足だ。だいたい十分な満腹感も期
      待できない。
       五穀については、次のような説明がある。

      いつくさのたなつもの 【五種の穀物】
      (1) 人間の主食となる代表的な五種の穀類。日本では、米・麦・粟・黍
      (きび)または稗(ひえ)・豆をいう。   (大辞林)

       説明の順序に若干のわかりにくさがあるが、「黍」と「稗」の位置づ
      けのあいまいさが分かるであろうか。最後に書かれた「豆」はしっかり
      と五穀の仲間だと認められているが、この二つは違う。どちらでもいい
      感じだ。
       あてにされないバイト生みたいだ。
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 1/7   職場の飲み会だったので、バスを利用した。最近は「バスカード」と
      いうプリペイドカードが普及しているようだが、利用機会の少ないボク
      は、もっぱら現金である。クレジットカードが使えるようになればと思
      う。さらに、ETCが使えるともっとよい。
       さて、前から二列目の席に座ると、目の前に両替機がある。料金がい
      くらなのかをはっきり知らないボクは、そういう席に座ることにしてい
      るのだ。
       その両替機の説明に、「……ご使用できます」と書かれていた。読ん
      でたじろぐ自分。何だか変だ。しかし、何がおかしいのか、はっきりし
      ないままに時間が過ぎる。これはじれったい。やがて、「……ご使用に
      なれます」の形が正しいのだと分かった。頭に「ご」をつけて敬語にし
      たければ、おしまいに「なる」をつけ、
「ご……になる」にすることだ。
      「ご使用できる」がおかしいように、これを丁寧に言った「ご使用でき
      ます」もおかしいのだ。
       誰もが目にする公共の環境に、こうした表現が広がってきている。よ
      ほど注意していなければ気づくこともない。
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 1/6   小学生のころ、グランドで遊んでいると、上天気にもかかわらず雨が
      パラパラと振ってきたことがあった。雨はすぐにやんで、ボクたちは遊
      びの続きをすることができたが、このとき友達は「キツネの嫁入り」だ
      と言っていた。どうしてそんなふうに言うのかと尋ねると、「分からん。
      ただ、そう言うのだ」と答えた。
       ボクは今でも分からない。キツネそのものも実感のない存在だ。生ま
      れてこの方、キツネというものは見たことがない。
       父はまだ若い頃、寺の裏山でキツネに遭遇したことがあると言う。木
      を伐って休憩中、ふと振り向くと見たことのない犬がいたという。しか
      し、それがキツネだとは気づかなかった。しっぽが細かったからだ。こ
      ちらがキツネを目撃した瞬間、キツネもこちらを発見して驚いたらしい。
      瞬時に警戒態勢に入ったキツネは、細かったしっぽがぶわっと一気にふ
      くらんだそうだ。父は、自分にしっぽがあったら、同じようにふくらん
      でいたはずだと言う。

       いるのかいないのか、はっきりしない動物の名を借りた「キツネの嫁
      入り」は、なかなかそれらしい表現である。
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 1/5   今日は、文豪夏目漱石の誕生日だそうだ。生きていたら何歳だろう。
      生まれたのが1867年だから、2004-1867=137歳。ふむふむ。
       しかし、そのころは旧暦の時代だ。1月5日を誕生日とするのは、今
      でも通用することなのだろうか。調べてみると、この日は新暦では2月
      9日に当たるとの結果を得た。しかし、釈然としない。だったら今日は
      何なのだ。「夏目漱石の旧暦の誕生日と日付が一致する新暦の日」と呼
      ぶべきだろう。
       ちょっと待った。明治維新は1868年だったのだ。漱石はその前年の生
      まれということになる。江戸時代の人だったのか。ちょんまげの時代。
      なんだか愉快だ。しかし、江戸時代の生まれというのは古すぎる。ボク
      たちの日常は、明治時代から始まる。「明治、大正、昭和」と呼び習わ
      してきたのだ。意識の外の過去、江戸時代に生まれたのが漱石だったの
      だ。「我が輩は猫である」なんて、「拙者は猫でござる」だったはずだ。
       ボクは昭和の生まれだが、元号が平成に変わるときには、「ヘーセー
      なんて、発音にしまりがない」だの「ショーワの方が格好いい」だのと
      言いながら、「これからはおやじやおふくろとともに、昔の人の仲間入
      りだ」と覚悟したものだ。

       肝心なことは、古くても消え去らないことだと思う。こういう言い方
      もじじ臭いと思うが。
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 1/4   残酷な歌があるなあと思うと、「山寺の和尚さん」はどうだろう。

       山寺の和尚さんが
       まりは蹴りたし まりはなし
       猫をかん袋に 押し込んで
       ポンとけりゃ ニャンとなく
       ニャンがニャンとなきゃ ヨイヨイ

       子どものころから気になっていたが、あんまりひどい歌ではないか。
      きっとそう感じる人が多くなったのだろう。昔はNHKでも流れていた
      ものが、今ではすっかり影を潜めた。どんな時代にも何ものかに心を痛
      める人がいて、仲間がいないことに寂しさを感じているものだ。今の世
      が正しいというわけでもない。世の中の隅っこにいる人のことを忘れた
      大人にはなりたくない。
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 1/3   手毬唄かなしきことをうつくしく   高浜虚子

       そういう遊びをしたことがあれば、ああ、そのとおりだと分かろうも
      のだ。そういえば、手毬歌のみならず、子どもの歌には悲しいものが少
      なくない。

      ・赤い靴 履いてた 女の子 異人さんに連れられて行っちゃった
       横浜の 波止場から 船に乗って 異人さんに連れられて行っちゃった
      ・十五でねえやは嫁に行き お里の便りも絶え果てた……
      ・お釜をかぶってちょっとおいで 鬼が怖くてよう行かん……
      ・この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります
       行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも とおりゃんせ
      ・せんば山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で打ってさ
       煮てさ 焼いてさ 食ってさ……

       何か猟奇的なムードが漂うのをお感じではないだろうか。
       子どものころは、残酷さの経験を刻むものだろうか。小さな生き物を
      かまうのが好きで、アリの後をついていったり、途中で見つけたアリ地
      獄を掘り返したり、ボクはそんなことばかりしていた。
       友達はもっと強烈だった。田圃でつかまえたカエルを橋の上から水面
      に叩きつけていた。カエルは失神して流されていく。しかし、そのうち
      に正気を戻して泳いでいった。友達は、それが面白いと言って次のカエ
      ルを投げつけていた。いた。別の日には、カエルに花火を入れて破裂さ
      せたと言うので、こいつは変なヤツだと思って距離を置くようになった
      が、後で聞いてみると、意外な人数が同様の遊びをしていた。そういう
      時期があるのだろうか。
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 1/2   新春とはいつのことなのか。考え出すときりがない。その矛盾点を書
      き出してみよう。

       1.春と言っているのに、体感的には冬真っ盛りだ。
       2.太陽暦のカレンダーでは「冬至」の直後に新年が来て、本格的に
         寒いのはまだそのあとからだ。
       3.太陽暦では、節分の日の意味がおかしい。明くる日が立春だとな
         ると、前日は大晦日ではないのか。
       4.かといって、太陰暦に直しても、立春の日が一定するとは思えな
         い。ときどきやってくる閏月がやっかいだ。

       以上のことから、季節感の矛盾のない、新たなカレンダーを作ること
      を提案したいと思うがどうだろう。

       1.基本は太陽暦とする。
       2.しかし、元旦は太陽暦の立春とする。
       3.節分の豆撒きは、大晦日に行う。
       4.全世界、この法則に従う。

       これで喜ぶのは芭蕉翁である。

       去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立
      てる霞の空に白川の関こえんと……

       秋が来て、次第に年の暮れを迎え、春が立つころに霞が立つというイ
      メージは、ボクのカレンダー以外では実感が湧くまい。
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 1/1   新年明けましておめでとうございます。

       生家で除夜の鐘を撞いた。寺に生まれるといつまでも鐘つきに使われ
      る。生まれてから42年間、正月を寺で迎えなかったことがない。気がつ
      いたら毎年鐘をついていたようなものだ。ボクの夢はハワイで正月を迎
      えることだ。
       さて、除夜の鐘は百八つと決まっているが、困ったことに鐘をついて
      いる間に何回ついたか分からなくなることがある。子どものころは「現
      代の煩悩は百八つではきかない」とか言いながら、少し多めについても
      平気だったが、実はこの回数にはちゃんとした理由があるのだった。
       そもそも人間には感覚を司る「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根とい
      うものがある。そしてこの六根のそれぞれに、「好・悪・平」の三つの
      状態があるのだ。これに「浄(きれい)・染(汚い)」の二種をかけ、
      さらに「現在・過去・未来」の三つをかけて、6×3×2×3=108
      となる。
       そういうことだから、現代人には煩悩が多いとか少ないとか、そんな
      バカなことを言っていてはいけない。
       今年こそしっかり数えようと気持ちを整えて臨んだのだが、鐘をつき
      に来た参拝客が「あ、今のなしにして」と勝手にやり直しの鐘をついた
      り、意味も分からない小さい子が鐘を連打してしまったりと、やっぱり
      何回ついたか分からなくなってしまった。
       思いは違うが、やっていることは昔と大差がない。
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         2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月