今日の言の葉 

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 3/31  宮内庁のホームページを見ていた。「お出ましに関する用語」という
      のがあったので、読んでみた。

       行幸(ぎょうこう) ………… 天皇が外出されること。
       還幸(かんこう) …………… 天皇が行幸先からお帰りになること。
       行幸啓(ぎょうこうけい) … 天皇・皇后がご一緒に外出されること。
       還幸啓(かんこうけい) …… 天皇・皇后がご一緒に行幸啓先からお帰
                    りになること。
       行啓(ぎょうけい) ………… 皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出
                     されること。
       還啓(かんけい) …………… 皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が行啓
                     先からお帰りになること。
       お成り(おなり) …………… 天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃
                     以外の皇族方が外出されること。
       ご帰還(ごきかん) ………… 天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃
                     以外の皇族方がお成り先からお帰りにな
                    ること。

       皇室内にも身分の差があることを実感する次第だ。誰が外出するかに
      よって呼び方が違う。天皇自らの場合は「幸」がつき、天皇のごく近親
      の場合は「啓」である。
       皇太子が弟君と外出したら、何と言うのだろうか。天皇が帰り道に甥
      君にひょっこり出会って一緒に帰ってきてしまったら、なんと呼ぶのだ
      ろう。
       どうしても下世話な興味しか湧かないところを直したいと思う。
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 3/30  年年歳歳花相似たり
       歳歳年年人同じからず

       こんなことを誰が言ったものか。胸にしみる言葉だ。気になったので、
      調べてみた。

       代悲白頭翁    白頭を悲しむ翁に代る
          劉庭芝(初唐)

       洛陽城東桃李花  洛陽城東 桃李の花
       飛来飛去落誰家  飛び来り飛び去りて誰が家にか落つ
       洛陽女児惜顔色  洛陽の女児 顔色を惜しみ
       行逢落花長歎息  行くゆく落花に逢いて長歎息す
       今年花落顔色改  今年花落ちて顔色改まり
       明年花開復誰在  明年花開いて復た誰か在る
       已見松柏摧為薪  已に見る 松柏の摧かれて薪となるを
       更聞桑田変成海  更に聞く桑田の変じて海と成るを
       古人無復洛城東  古人復洛城の東に無く
       今人還対落花風  今人還って対す 落花の風
       年年歳歳花相似  年年歳歳花相似たり
       歳歳年年人不同  歳歳年年人同じからず
       寄言全盛紅顔子  言を寄す 全盛の紅顔の子
       応憐半死白頭翁  応に憐れむべし 半死の白頭翁
       此翁白頭真可憐  此の翁白頭 真に憐れむべし
       伊昔紅顔美少年  伊れ昔 紅顔の美少年
       公子王孫芳樹下  公子王孫 芳樹の下
       清歌妙舞落花前  清歌妙舞す 落花の前
       光禄池台開錦繍  光禄の池台 錦繍を開き
       将軍楼閣画神仙  将軍の楼閣 神仙を画く
       一朝臥病無相識  一朝 病に臥して相識無く
       三春行楽在誰辺  三春の行楽 誰が辺りにか在る
       宛転娥眉能幾時  宛転たる娥眉 能く幾時ぞ
       須臾鶴髪乱如糸  須臾にして鶴髪 乱れて糸の如し
       但看古来歌舞地  但だ看る 古来歌舞の地
       惟有黄昏鳥雀悲  惟だ黄昏鳥雀の悲しむ有るのみ

       洛陽城東の桃の花は、飛び来り飛び去って誰の家に落ちるのか。洛陽
      の娘達はおのが顔色の移ろいを惜しみつつ、落花に行き逢って溜息をつ
      いている。今年の落花を見てわが顔色の移ろいを嘆いているが、明年ま
      た花が開くときに誰がこの世に永らえているだろうか。立派な松柏でも、
      年古れば切られて薪となり、桑畑もいつか変わって海となるというでは
      ないか。昔、洛陽城東で落花を嘆いた人はすでに亡く、今の人がまた落
      花の風を嘆いている。年ごとに花は同じでも、年ごとに見る人は変わる。
      いま全盛の若者達よ、この半死の白頭の翁を憐れんでほしい。この翁と
      て、昔は紅顔の美少年であった。公子王孫とともに花咲き匂う樹の下で、
      落花の前で清らかに歌い、軽やかに舞ったものだ。光禄大夫の池殿の錦
      を広げた宴や、将軍の邸の、神仙を描いた楼閣の宴にも出たものだ。そ
      れがひとたび病に臥してからはつきあう人もなく、春三月の行楽は誰の
      もとに去ったのか。美しい眉を誇れるのも幾時であろう。たちまち鶴の
      ような白髪が糸のように乱れかかる。昔、若者達が歌舞した場所も、今
      は黄昏に鳥雀が悲しく鳴いているだけだ。


       本日は現勤務校の離任式である。人が亡くなるわけではないが、花は
      同じで人が変わるという点では共通している。かく言うボクも、転勤で
      ある。4月からは美濃加茂市立東中学校の職員。別れと共に新しい出会
      いを大切にしたい。
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 3/29  年度末は生徒指導要録の書き入れ時である。子どもたちの一年の活躍
      を、端的に、しかも具体的にまとめなければならない。担任の先生はた
      め息をつきながら取り組むわけだ。
       この仕事で最も気をつかうのが、「氏名の正しい表記」である。例え
      ば、ワタナベ君は、「渡辺」か「渡邊」か、はたまた「渡邉」か。戸籍
      の通りに、一文字も間違えないのが一番大切なのだ。ワタナベにはこの
      ほか、90種類以上の書き方があるというが、すべて「辺」の部分をど
      う書くかなのだ。線が一本あったりなかったりと、微妙なバリエーショ
      ンを展開している。
       一つの漢字なのに、どうしてこんなに数ばかりが増えてしまったのか、
      よく分からない。書き方に自信がないのに勢いで書いてしまったとか、
      もともとややこしい字なので、伝言ゲームのように次第に形を変えて伝
      わっていったとか、そういうことなのだろうか。
       知ったかぶりが悲劇を招くという仮説だが、検証のしようがない。
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 3/28  ちょちちょち あわわ
       かいぐりかいぐり とっとのめ
       おつむてんてん はらぽんぽん

       今や、若い人たちに話しても、そんなの知らんと言われそうだ。ボク
      自身、こんな意味不明の言葉で遊んでもらった覚えはない。ただ、亡く
      なった伯母がボクの従兄弟にそんな呪文を唱えていたことは、不思議に
      覚えている。それを聞きながら、いい加減な日本語だなあと感じていた
      ことだって覚えている。
       ボクが感じたのは、「おつむ」と言いながら、次には「はら」と表現
      することの無神経さだ。幼児語と大人言葉の混用だ。ここは「おなか」
      といってほしい。「とっとのめ」も、おそらく「ととの目」なのだろう。
      「魚」を表す幼児語だ。
       さて、岐阜に住む人で、魚のことを「とと」と呼んでいた人がいるだ
      ろうか。ボクには思い当たらない。伯母は一体どこで覚えたのか、気に
      なった。
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 3/27  嘘は雪だるまのようなもので、長く転ばせば大きくなる。 ルター

       子どものころのことを思い出した。家に来ていた学生さんを驚かそう
      として、釘を手の平に上手に隠し、それを飲んだふりをしたら、遊びに
      来ていた従姉妹が見つけて、「おばさーん、ヒロ君が釘飲んだよ」と騒
      ぎ出し、小さな冗談がどんどんおおごとになっていった。ボクはウソを
      突き通し、飲んだことにしていた。嘘をついたと思われるのがイヤだっ
      たのだ。
       ところが、ボクの母は必死だった。山の寺にハイヤーを呼んで、岐阜
      の街にある有名病院に運び込んだ。ボクは生まれて初めてレントゲンの
      診断を受け、「何も映りませんよ」の言葉を母とともに聞いた。何も飲
      んでいなかったので当然のことだ。
       ボクは帰りのタクシーの中で、ひどく叱られた気がするが、どういう
      わけか、この部分の記憶がないのだ。
       積み重ねたウソは、雪だるまのように、真っ白であるということか。

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 3/26 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」は室生犀星だが、実際には、郷里
      はいつまでも自分から離れないものだ。美しい衣装で飾ったとしても、
      ちょっとした仕草や言葉遣いで育ちが知れると言われる。その土地を愛
      するとかいう問題ではない。昔から言われる「お里が知れる」は躾(し
      つけ)の大切さを示した言葉だ。今では、そんなことは言わなくなって
      しまったが、ボクたちにとって「故郷」が次第に意味を薄くしつつある
      のではないだろうか。自らの恥は自らにとどまり、近隣には及ばない。
      そういう人がこの国にずいぶん増えたようだ。
       そもそも、「故郷」は「錦を飾る」場所だった。かの啄木も、

       汽車の窓はるかに北に故郷の山見えくれば襟を正すも

      と歌っている。そんな緊張が故郷にあったのだろう。故郷を思えば、ひ
      しひしと胸にふくらむ懐かしさ。「立派になって帰ってこい」……切ろ
      うにも切れない故郷である。温かく厳しい。これが故郷の本態なのだ。
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 3/25  ウーロン茶を買うと、側面に「福建省産茶葉使用」のような表示があ
      る。その「茶葉」をなんと読むであろうか。昔のテレビCMでは、「茶
      葉分公司」をきちんと「ちゃようぶんこんす」と発音していたので、そ
      もそも「茶葉」は「ちゃよう」だったようだが、最近では「ちゃば」と
      しか聞かなくなった。
       こういうのを重箱読みという。間違いではないのかもしれないが、標
      準ではないはずだった。世の中の流れが「ちゃば」支持に向かっている
      のなら、抵抗も虚しいが、「ちゃよう」なのだと胸の奥で叫び続けたい。
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 3/24  肉汁。なんと読むか。

       答えは「にくじゅう」である。テレビでは、「にくじる」と流してい
      ることが多いと思うが、いかがか。
       「にく」という読み方が音読みであることは、11月20日に記したが、
      「肉汁」を「にくじゅう」と読むのは、つまり重箱読みを避けるという
      ことなのだろう。ただ、「にくじる」と言った方が、うまみがあふれて
      聞こえる気がするが、そう感じてしまうボクはテレビに毒されていると
      
いうことなのだろうか。
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 3/23 「憂鬱(ゆううつ)」という字を覚えたのは、高校の時だった。あのころ
      は、画数の多い文字が書けるのがうれしかった。だから、「薔薇(ばら)」
      とか「親鸞(しんらん)」とか、ごちゃごちゃした字が書けるようになる
      と、だれかに言いたくてたまらなかった。そこで同級生に「憂鬱」を書
      いて見せた。すると、「お前、そんな暗い字覚えてうれしいの?」と怪
      訝(けげん)な顔をされた。

       彼との友情は、長続きしなかった。
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 3/22  今日は放送記念日だ。日本放送協会が昭和18年に制定したものという。
      時は1925(大正14)年、社団法人東京放送局(現在のNHK東京放送局)が
      日本初のラジオ仮放送を開始したのだ。
       東京芝浦の東京高等工芸学校に仮スタジオを設け、午前9時30分、京田
      武男アナウンサーの「アー、アー、アー、聞こえますか。JOAK、JOAK、
      こちらは東京放送であります。こんにち只今より放送を開始致します」
      という第一声が放送されたのだ。記念すべき一日である。
       ここまでは「なるほど」のエピソードだが、その背景が大変だった。
      そもそもは、3月1日に放送を開始する予定だったが、購入予定だった
      日本にたった1台しかない放送用送信機が、同じく設立準備中の大阪放
      送局に買い取られてしまったのだ。
       そこで東京放送局は、東京電気研究所の送信機を借り、放送用に改造
      して使用することにしたが、逓信省(後の郵政省)の検査で、「放送設備
      は未完成。3月1日からの放送はできない」と判断されてしまったのだ。
      既に3月1日からの放送開始を報じており、また、大阪放送局よりも先
      に日本初のラジオ放送を行いたいということで、「試験放送」という形
      で逓信省の許可を受け、なんとか3月1日から放送を開始することがで
      きたのだった。
       22日には逓信省から正式に免許を受けて仮放送を開始し、7月12
      日に本放送が開始された。大阪放送局の仮放送はその年の6月1日に始
      まっている。
       こんなはらはらの事情があるのなら、放送記念日は、3月1日にした
      いと思うが、どうお感じだろう。正式な免許もなく放送を開始したその
      日が記念日というものではないだろうか。(やや乱暴だがね)
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 3/21  「赤貧」という言葉を聞かなくなった。世相が変わったからか。実に
      懐かしい響きだ。この言葉を聞くと、ただの貧しさではない、偽りのな
      い、潔い生活を思わずにいられない。気持ちよいほどの貧しさ。それは、
      ぼくの心の中で美化されたイメージかもしれない。そう分かっていても、
      何か、悟った境地の、不足のない生活が思い浮かぶ。
       テレビもない、電話もない、風呂もない生活。何もないから、物をと
      られる心配もない。仕事もないから、退職もない。貯金も退職金もない。
       あこがれと拒絶の共存の状態だ。

      せきひん 【赤貧】
      〔「南史(臨汝侯坦之伝)」による。「赤」は何もない意〕
       きわめて貧しいこと。
       ――洗うが如(ごと)し
       はなはだしく貧しくて、洗い流したように持ち物が何もないさま。
                               (大辞林より)
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 3/20  栄養満点

       いつ頃から言われ出したものなのか。子どものころ、おいしくないも
      のを食べさせられるとき、必ず言われたのが、この言葉だった。
      「栄養満点やよ」
       母にこう言われると、食べざるを得ない。ほうれん草も「栄養満点」
      と言われて食べだしたものだが、果たしてそうなのか、実に疑わしい。
       料理した者の、かけ声のようなものだったのかもしれない。そこには、
      「味はともかく」という暗号も含まれていると心得よ。
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 3/19  バスに乗ると、「大人」に対する言葉が「小人」であることが分かる。
      これでは「コビト」ではないか。まるで童話の世界だ。この表記は、子
      どものころから不思議だった。しかし、今もこう書くのはなぜだろう。
       コンピュータで「小人」と変換するには、読みを「しょうにん」と打
      ち込まねばならない。「こども」でもダメ。「こびと」も受けつけてく
      れない。これはあくまでも「しょうにん」なのである。
       ここには「差別語」の問題が横たわっている。「こびと」は、「白雪
      姫」に出てくるものばかりではないのだ。人種的に体の小さい人々、あ
      るいは何らかの理由で体が小さく生まれた人を、日本人は差別してきた
      歴史がある。いや、日本人ばかりではない。世界のあちこちで、彼らを
      サーカスの見せ物にしてきた過去は拭い去ることができない。
       そういうわけで、「小人」は「しょうにん」であって、「こびと」で
      はないのだ。意味合いは、「大人」に対する「小人」である。料金の表
      示に「こども」を使うと、「おれだって、おふくろから見れば『こども』
      だ」などと言い出す中高年者がいそうなので、「こども」は避けられた
      に違いない。それはもちろん、ボクのことだが。
       さて、童話「白雪姫」は、白く生まれたものが美しいという発想その
      ものに問題点が指摘されて久しいが、それとは別に、「小人」が登場す
      るという特徴を持つ。よって、以前は「白雪姫と七人の小人」と題され
      ていたものが、最近では、「白雪姫と七人の妖精」に改められているこ
      とがある。出版社の自主規制のようなものだろう。ボクは、妖精といえ
      ば、羽の生えた半透明な人のことだと思っていた。
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 3/18  中学校一年生の国語の教科書に「少年の日の思い出」という作品があ
      る。ヘルマン・ヘッセの作で、かなり長い間、教科書に採択されている。
      少年期特有の熱情と苦悩に焦点を当てた名作だが、文章中に、「隣の子
      供」という表記があるのが気になっている。「子ども」ではなく、「子
      供」なのだ。
       今や、「子供の日」は「こどもの日」と書く時代である。「子供」と
      いう書き方には、大人の従属物のイメージがあるという理由で、「子ど
      も」や「こども」に変えられたくらいだから、教科書だって、「子供」
      ではよくないだろう。しかし、実際、教科書には「子供」と書かれてい
      る。どういうことだろう。
       ここには、訳者の存在が関わっていると思われる。訳者高橋健二は、
      すでに1998年に亡くなっているが、彼の名訳を一言一句、勝手に変える
      わけにはいかない。翻訳という仕事によって生まれた、著作物としての
      独自性がそこにあるのだ。
       過去のさまざまな著作物を見るに、差別的な表現をしたものは数知れ
      ない。これをすべて、現代にも通じる表現にすることは至難の業である。
      手直しすることで、文章に独特のリズムや雰囲気を乱すことにもなりか
      ねない。その歴史性を理解した上で、手直しをしないというのが、現代
      に生きるボクたちの仕事である。「子供」の表記も、たかがと思うなか
      れ、されどと思うべきである。
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 3/17 「三度の飯より〜が好き」という言い方があるが、たいていそれは夢中
      になっていてはいけないことばかりだ。「三度の飯よりパチンコが好き」
      のように、人から呆れられるようなことが好きなのを表すのによく使う。
      役に立つことが好きでたまらないという人はあまりいない気がする。

      ・三度の飯より仕事が好き。
      ・三度の飯より掃除が好き。
      ・三度の飯より洗濯が好き。
 
       こういう人と一緒に生活すると便利かもしれない。けれど、自分がい
      かに怠け者であるかを実感させられることになるだろうから、そんなま
      じめな人でなくても良い。
       でも、遊んでばかりの人も困る。
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 3/16 「先祖」と「祖先」の区別はなんだろう。

       人類の祖先はサルである。
       先祖を大切にしよう。

       つまり、気が遠くなるほど遠い昔の先祖のことは、「祖先」というの
      だ。だから、江戸時代ぐらいは当然「先祖」、平安時代でも、奈良時代
      でも、「先祖」だろう。問題は、どの辺りから気が遠くなるかだ。
       ボクなりに考えてみるに、土をこねて土器を作る時代は、先祖と呼ん
      で良い。農耕の時代である。「いつになったら種をまき、いつになった
      ら刈り入れて」という計画と管理がそこにはある。そうだ。そういう賢
      さのある人たちを「先祖」と呼びたいのだろう。
       もう少しさかのぼると、命を守る方法が急激に原始的になると思うの
      だ。そういう人たちは、命こそ引き継がせていただいたが、文化性が違
      うのだと、そう思っているのだ。そういう区別が「祖先」という呼び方
      に反映しているように思う。だから、「祖先はサル」に違和感はないが、
      「先祖はサル」だと、えもいわれぬ思いになる。家系図にサルの名前が
      あるようだからだ。
       ただ、こうした解釈も、辞書の前には無力である。「大辞林」によれ
      ば、

      そせん 【祖先】
      (1) 一族・一家の初代にあたる人。また、初代以来、先代までの人々。
        先祖。〔「先祖」よりも客観的な立場でいう語〕
      (2) 現在のものに発達してきた、もとのもの。
        「人類の―」

      せんぞ 【先祖】
        家系の初代。また、その血統に連なる先代までの人々。祖先。
        「ご―様」


      とある。読んでいて、くらくらしてきた。「祖先」は「先祖」と書いて
      もいいし、その逆も認められているではないか。できないのは「祖先」
      の(2)ぐらいのものだ。とほほほほ。
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 3/15  間もなく春分を迎える。本格的な春はすぐそこ、と気分が高まる中、
      昨日はなんと、ツバメの姿を目にした。キュキュキュッという独特の声
      に空を仰ぐと、燕尾服のような尻尾が視界をかすめて飛んでいったのだ。
       いや、「燕尾服のような尻尾」はおかしい。そもそも燕尾服は、後ろ
      が燕の尻尾のようになっているから、「燕尾服」なのだ。「燕は、燕の
      尻尾に似た形の服に似た形の尻尾をもつ鳥だ」とボクは書いたことにな
      る。
       できの悪い辞書を引いて、見出し語がたらい回しにされる感覚に似て
      いる。
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 3/14  世間では「ホワイト・デー」だとか騒いでいるが、ボクには花粉症の
      方が大きな位置を占めている。そういうわけで耳鼻咽喉科に行くと、も
      のすごい数の患者に待合室はひしめいていた。退屈なので壁に貼られた
      ものを眺めていると、「お母さん方へ」と書かれたものがあった。よく
      見ると、こんなことが……

      「受診時の正しいお子さんの抱き方」

       語順を直してあげたくなった。「受診時のお子さんの
正しい抱き方
      ではどうだろうか。「正しいお子さん」というのが引っかかるのだ。そ
      の逆の「間違ったお子さん」があるみたいじゃないか。
       幼いころ、幼年雑誌の「よいこ」が気になっていたことを思い出した。
      ボクは小学一年ぐらいだったか。子ども心に、「そんな本は認めない」
      と思っていたのだ。大人からよい子だと思われたくて読んでいるような、
      媚びたイメージがあって、そんな表紙を開く気にはなれなかったのだ。
      もちろん、「よいこ」の中味を見たことは一度もなかった。だから、勝
      手な思い込みに過ぎない。出版社の努力をものともしない思い込みだ。
       そういうひねた子どももいるので、逆の「正しいお子さん」だって存
      在するのだろうと、瞬間的に思った次第だ。
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 3/13  のどの状態が悪い。花粉のせいだ。

       こういうことを手書きで表そうとすると、とたんに緊張が襲い来る。
      「のど」を自信を持って書けないのだ。漢字で書けば「喉」である。し
      かし、似たような文字には次のようなものがある。

       侯爵 耳鼻咽喉科 ←→ 候補 気候

       字画が一本、縦にはいるかどうかの違いだけ。読み方もそっくり。と
      なれば、間違えて当然だろう。「のど」は縦棒がない方の字なのだが、
      書こうとするたびに自信をなくしてしまう。「ないと思わせておいて、
      じつはあるのだ」とか考えてしまうからだ。
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 3/12 「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリスト
      による攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外
      国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に
      基づく人道的措置に関する特別措置法」

       これが、あの「テロ対策特別措置法」の正式名称なのだそうだ。しば
      らくその名を聞かなかったが、改めて見ると長い長い。

       落語「寿限無」は長命を願った名前の話だが、これは「寿限無寿限無
      五劫の擦り切れ海砂利水魚水行末雲行末風行末食う寝るところに住むと
      ころやぶら小路ぶら小路パイポパイポパイポのシューリンガン、シュー
      リンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナー
      の長久命の長助」という名前から来ているという。

       ポンポコピーなんて名前、あると思うか?
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 3/11  長い名前について昨日書いたところだが、駅名では、南阿蘇鉄道とい
      う路線に「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」というのがあるらしい。
      時刻表ではどうなっているのか、見てみたい。少しでも短く表記したい
      はずなので、省略は避けられないことだろう。
       タイの首都「バンコク」は、実は外国人がそう読んでいるだけだとい
      う。タイの人びとが呼ぶ名前としては、一般に「クルンテープ・マハー
      ナコン」というそうだ。そして、その「クルンテープ・マハーナコン」
      を縮めずに正式に言うとこれが長い。

      クルンテープ・マハーナコン・ボーウォーン・ラタナコーシン・マヒン
      タラーユタヤー・マハーディロクポップ・ノッパラッタナ・ラーチャタ
      ーニー・ブリーロム・ウドム・ラーチャニウェート・マハーサターン・
      アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカティッティヤ・ウィ
      サヌカムプラシット

       省略は美徳という感想を持った。
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 3/10  ピカソの名前が長いことはかなり有名であるが、改めて紹介したい。

       パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フワン・ネポ
      ムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピニア
      ーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ

       縁起のよい先祖の名前を全部つけてもらったらしい。こんなに長い名
      前を付けて、小さいころ、井戸に落ちたりしなくて良かった。
       問題は、ピカソの父親だ。こんな名前をつけて、役所が受けつけてく
      れなかったら、どうするのだ。そう思うのだが、どうも役所は受けつけ
      ているようだ。その地方では縁起の良い祖先の名前を次々付ける風習が
      あるというのだ。ピカソの周りは毎日名前を呼び合うのが大変だったか
      もしれない。それにピカソは、期末テストで名前を書くとき困らなかっ
      たのかと、そんなことが心配だったりするが、期末テストがなかったの
      か、それについてのエピソードは残されていない。
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 3/9   NHKのニュースを見ていたら、春の便りのコーナーがあった。岐阜
      県内の農家で「タラの芽」の出荷が始まったとのことであった。そうそ
      う、ボクもしばらく前に食べたなあ、と思ったが、アナウンサーの発音
      は、「タラの芽」ではなく、「鱈の目」だった。全くの別物。
       常用漢字の範囲にないが、木偏に「忽」と書いて「たら」と読む。苦
      みは好きだが、食べているととげとげが痛い。
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 3/8   啓蟄は5日だった。
       春が来たというと、暦の上での立春や、梅の花の開花などに目が向き
      がちだが、ボクにとっての春は、まぎれもなく「啓蟄」である。
       この日を境に、虫が世の中にあふれてくる。今までどこに行っていた
      のかと思うほどだ。先週末金曜日、まさに5日には小虫が飛んでいたの
      を目にしたし、こうして原稿を書いている今も、目の前を蟻が横切って
      いる。

       春を満喫する前に、仕事環境の見直しが必要かと思う。

      けいちつ【啓▼蟄】
       二十四節気の一。太陽の黄経が三四五度になったときをいい、現行の
      太陽暦で三月六日頃。二月節気。また、このころ冬ごもりをしていた虫
      が穴から出てくることをいう。[季]春。
      《―の土くれ躍り掃かれけり/吉岡禅寺洞》       (大辞林)
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 3/7   肩たたき機。平仮名で書くと「かたたたきき」。なんだかおかしい。
      「味わう」も、未然形を考えると、「あじわわない」「あじわわせる」
      となる。これを変だと思う人は「あじあわない」「あじあわせる」と使
      うようだ。いや、自分がそうであった。

      「祝う」………「いわわない」
      「賑わう」……「にぎわわない」
      「結わう」……「ゆわわない」
      「味わう」……「あじわわない」

       並べてみると、別に違和感もないことだ。こうなると、「わ入り言葉」
      とか、発明したくなる。なんにでも「わ」を入れるのだ。
       ……少し考えたが、良い表現例がない。つまらわない。くだらわない。
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 3/6   ボクたちは「あした」というと翌日のことと思っているが、そもそも
      「あした」は、「朝」を指す言葉だった。

       あしたには紅顔ありて夕べには白骨となる   (蓮如)

       これは人の命のはかないことをいうものかと思う。

       あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり   (論語)

       ボクはそこまで思わないけれど、名言である。背筋がしゃんとする。
       さて、ここで分かることは、「あした」というのは、「ゆうべ」に対
      する語であるということだ。人が「あした」をイメージするのは、一日
      を終えた夕べなのだ。今はもう夜になったけれど、朝になったらこれこ
      れをするぞ、という思いで「あした」をイメージすると、「翌日」の意
      味で使う「あした」の持つ重みが分かろうというものだ。

       ……いや、だから、いつでも「あしたでいいや」などと思っている自
      分をなんとかしなくちゃいけないのだ。
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 3/5   かつて選挙には、「当選のアカツキには」という言葉がつきものだっ
      たが、最近はあまり聞かなくなった。それよりは「マニフェスト」であ
      る。こちらは個人の公約などとは違うので、同列に扱うことはできない
      が、要するに「政権を取ったアカツキには……」ということである。
       さて、アカツキとは『暁』である。「明るくなってくる時」だからだ
      と聞いた。「明時=アカトキ」なのだ。真っ暗だった夜が白々と明けて
      くるのは、胸がときめく。
       そんな『暁』が、「これこれの物事が実現した際には」という言い方
      に用いられるようになったのは、いつからなのだろう。
       やはり、新しく何かを始めるには「朝」がふさわしい。朝の決意は一
      日を貫くものだ。まだ薄暗い時間帯には、これから始まる一日への期待
      と希望が満ちている。

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 3/4   高校のころ、クラスにバンドを組んでいる二人組がいた。

      「ボクが『かり』です」
      「ボクが『うど』です」
      「二人合わせて、『かりうど』です」

       みんなを笑わせてくれる二人だったが、歌は聴いたことがない。本当
      にバンドをやっていたのだろうか。
       ところで、「うと」というのが「人」を表すらしいことが以前から気
      になっている。「弟・妹・仲人・狩人・素人・落人・若人」など、次か
      ら次へと思いつく。

       商人(あきんど)……「あきびと」の転
       妹 (いもうと)……「いもひと」の転
       弟 (おとうと)……「おとひと」の転
       落人(おちうど)……「おちひと」の転
       狩人(かりゅうど)…「かりひと」の転
       蔵人(くろうど)……「くらひと」の転
       素人(しろうと)……「しろひと」の転
       仲人(なこうど)……「なかびと」の転
       客人(まろうど)……「まらひと」の転
       召人(めしゅうど)…「めしひと」の転
       若人(わこうど)……「わかびと」の転

      「うと」は「ひと」が音を変えたものらしい。徒然草に登場する「良覚
      僧正(りょうがくそうじょう)」は「公世の二位の兄人」と紹介されてい
      るが、「兄(せ)+人(ひと)」=「せうと」であり、読み方は「しょうと」
      であった。
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 3/3   うまいものを食っても、八時間食い続けられるものではない。遊ぶこ
      とにしても同じだ。ただ仕事だけは八時間やっても飽きがこない。また
      やる気がでる。                      ショー

       日本人は勤勉だというが、バーナード・ショーもそうだったのか。
       しかし、彼はボクとは違う。ボクは八時間でも遊んでいられる。彼に
      はそれを楽しむ力がなかったのだろうか。働いていないと不安だったと
      なれば、ワーカホリックというものだ。
       ボクのことをついでに言えば、仕事にしても、18時間ぐらい続けら
      れる。飽きは来ると思うが、やらないとたまる一方なのだ。

      【ワーカホリック [workaholic] 】
       働き中毒。仕事中毒。〔ワーク(work 仕事)とアルコホリック(al
       coholic アルコール中毒)からの造語〕        (大辞林)
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 3/2   運命のなかに偶然はない。              ウィルソン
                        (1856-1924 アメリカの政治家)

       それはボクのことだよ、ウィルソン君。なくしたと思っていたCDが
      出てきたと思ったら、それを使った仕事が舞い込んできたり、そろそろ
      あの仕事にかかるか、と思っていると資料の山が崩れて大切な資料が出
      てきたりと、そういう話には事欠かない。
       神はボクを守ってくれていると思うのだが、信仰よりも身の回りを整
      理することだというメッセージを強く感じる。
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      (あんまりバカなことを書いたので……)
       ウィルソンが言っていたのはそういうことではない。幸運といい、不
      運といっても、それはその人が作り出した必然的な成り行きであり、た
      またまそうなったのではないと説いたものであるという。ごもっとも。
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 3/1   運命は波のように、自分たちを規則正しく、訪れてくれるのだが、自
      分たちはそれを千に一つも生かすことができないのだ。
                                武者小路実篤

       ああ、武者小路先生、あなたに何があったのか。大金儲けをした発明
      家のアイディアが意外に何でもないものだったので、そんなことなら自
      分にもできたと思ったり、親子関係が隔絶して会話のチャンスがなかな
      かつかめず、言いたいことがなかなか言えなくてくよくよしたり、勉強
      したはずの問題がテストに出ずに、これは出ないと思ったところが出さ
      れて悔やんだりしていたのなら、その辺の小父さんと変わりがない。

       いや、そうであってほしいと願う自分がいる。「仲良きことは美しき
      かな」も、そんな角度から見ると、一挙に身近な位置にやってくる。
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