今日の言の葉 

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 3/31  指を惜しんで掌を失う

       わずかの損を惜しんだばかりに大損をすることを言う。耳慣れない言
      葉だが、言わんとするところはよく分かる。ただ、言葉の生まれ方が気
      になる。
       ひどい凍傷になって指が壊死を起こしたとき、指を残したいと思って
      切断を躊躇していると、壊死が進行し、掌あるいはそれ以上を失うこと
      があると聞いたことがある。
       決断は早いうちがよい。ふとそういうことが気になった。
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 3/30  しゃれこうべ

       なぜこんな名前が付いてしまったのかと思う。骸骨なのだから、もっ
      と深刻な響きの言葉にならなかったものか。「しゃれ」が軽いではない
      か。「洒落(しゃれ)」みたいだ。「馬鹿な洒落いいなしゃれ」だ。
       しかし、これを漢字で書けば「髑髏」あるいは「曝首」となって、と
      たんに緊張感が高まってくる。「大辞林」には次のような説明がなされ
      ている。

      されこうべ ―かうべ【〈髑髏〉】
       〔「曝(さ)れ頭(こうべ)」の意〕風雨にさらされ、白骨になった頭蓋
       骨。しゃれこうべ。しゃりこうべ。どくろ。野晒(のざら)し。

       いろいろな言い方があるものだ。「しゃりこうべ」は「舎利」を連想
      させて、いよいよ骨っぽい。仏や聖人の遺骨のことを舎利というのだ。
      それはともかく、「曝れ頭」とは寂しいではないか。うち捨てられ、雨
      風に晒されて、顧みる者もなく白骨化していく。それは悲しみの末路で
      ある。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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 3/29  コンピュータをいじっていると、いろいろと面白いことがある。2年
      前に壊れたUSBのメモリーを、さきほど、「もしかしたら動くかも」
      と馬鹿な期待をしてコンピュータに挿してみたら、おかしなメッセージ
      が出てきた。

      
「このコンピュータに接続されているUSBデバイスの一つが正しく機
       
能していないことが WINDOWSによって認識されていません。」画像

       このメモリーは使えるのか使えないのか、どっちなんだ。しばらく考
      えたが、コンピュータがこんな答えを出すほどだから、きっと使えない
      んだろう。壊れたものに期待する甘さを鋭く指摘されたようで、ボクも
      がっかりだ。
       昔のテレビは叩けば直ったものだが、21世紀の品々はデリケートに
      できている。でも、これはあんまりだ。
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 3/28  後世に長く残る立派な業績や偉大な作品を残すことを「金字塔を打ち
      立てる」と言うが、「金字塔」とはいったい何か。気になって辞書を引
      くと、「『金』の字の形の塔。ピラミッドをいう(「大辞林」)」と書か
      れていた。……うーむ。
       なるほどと思いつつ、言いしれぬ違和感を禁じ得ない。それは確かに
      ピラミッドは金の字に似ている。しかし、「金字塔を打ち立てる」と表
      現するときに、ピラミッドのことが頭にあるだろうか。ボクたちが「金
      字塔」と耳にするとき感じるものは、金のように永遠不滅の価値であり、
      何億何兆もの金を注ぎ込んだような存在の迫力である。ピラミッドも長
      い歴史をよく耐えてきたと思うが、滅びた文明の象徴のようだし、ぼろ
      ぼろに崩れた所もあって、どうも金字塔のイメージとは違う。
       それに「塔」という以上は、すらりと天に伸びていなければなるまい。
      ピラミッドは「塔」と呼べるのか、大いに疑問がある。高さも立派だが、
      底辺も広い。高ければそれだけで塔だと言って良いのか。
       そう、ボクの「金字塔」のイメージは、巨大な純金の箸だ。高さは東
      京タワーくらいで良い。とにかく純金であることだ。
       ところで、ピラミッドは「全」の字にも似ている。ならば、大袈裟な
      言い方はやめて、「全字塔」ぐらいの表現はどうだろう。ボクもこれほ
      ど意見は言うまい。
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 3/27  「爨」というものすごくややこしい漢字がある。これで「かしき」と
      読む。現代語の「菓子器」とは関係がなく、「炊事」のことだ。あんま
      り難しい文字なので、一般には簡単に「炊き」と書く。(「炊く」が元
      の動詞なのだ。)
       さて、作られた料理を盛りつけるには、器が必要だ。かつてはその器
      として、樹木の葉が用いられていた。ボクの生家では、お盆に先祖の墓
      に供える器は柿の葉と決められていた。肉が厚く丈夫な葉だから都合が
      良かったのだろう。このように、食物を盛る食器としていろいろな葉っ
      ぱが用いられ、それを「かしきは(炊葉)」と呼んでいたが、中でも柏
      の葉をよく使ったので、やがて「かしきは」と言えば柏のことだと決め
      られてしまった。「かしきは」は、後に「かしわ」になった。
       旧仮名遣いで「かし」と書くのは、あれは「葉」のことだったのだ。
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 3/26  柏餅は、柏の持つエネルギーにあやかるものだ。柏は子孫繁栄の象徴
      なのだ。新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴から「子供が産ま
      れるまで親は死なない」と喜ばれた。つまり「家系が途絶えない」とい
      うことなのだ。
       桜餅は桜の葉を食べるが、柏餅の葉っぱをどうするか、悩んだことは
      なかっただろうか。あんなもの、食べられるはずがないのに、人に聞い
      た。縁起がよいことと食べるかどうかは直結しないのだ。
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 3/25  鹿の肉のことを「もみじ」と呼ぶ。馬は「さくら」だし、猪は「ぼた
      ん」である。肉なんだから、どれも同じようなものだろうという程度に
      思っていた。専門家には一目瞭然のものも、関心の薄い素人には見分け
      が付くと思えない。だいたい、実物を並べてみたこともないのだ。
       しかし、「もみじ」「さくら」「ぼたん」とはなかなか洒落ている。
      動物の肉を花の名で呼ぶとは、などと考えるうちに、ふと、「かしわ」
      のことが頭をよぎった。子どもの頃から当たり前のように使ってきた言
      葉だから意識したこともなかったが、これは「柏」ではなかったか。
       風流なことも、あまり日常化すると値打ちが下がるという例ではない
      かと思う。(なお、鹿ともみじ、猪とぼたんの関係は、どうやら花札の
      図柄にあるようだ。確かにその通りである。このようなことは、花札愛
      好家なら常識の範囲内であろう。)
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 3/24  もみじについて調べていたら、「大辞林」に「動詞「もみず」の連用
      形から」という説明を見つけた。「もみず」とはなんだ。

      もみ・ず もみづ 【〈紅葉〉づ】(動ダ上二)
       〔四段動詞「もみつ」が中古に上二段化し語尾が濁音化したもの〕紅
       葉する。                     (「大辞林」)

       上二段動詞は高校で学ぶ。上一段動詞に似ているが、次のように活用
      する。

       未然形   連用形    終止形 連体形  仮定形    命令形
       もみぢ-ず もみぢ-たり もみづ もみづる もみぢれ-ば もみぢよ

       現代的に表現すれば、「うわあ、こっちの山は見事にもみじてるね」
      「うちの方の山はなかなかもみじないね」「早くもみじればいいのに」
      となる。その動詞が名詞化したものが「もみじ」なのだ。
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 3/23  ラジオを聞いていたら、イチゴ狩りの情報が入ってきた。春は名ばか
      りのものではないと実感。ところが、中継先の農園の主人が、「イチゴ
      は狩るものじゃない。摘むものだ」と発言していたのが引っかかった。
      それはそうだとは思うが、そんなことを言い出したら、「モミジ狩り」
      はどうなのだ。何も取らない、ただ見ているだけなのだ。
       こうした「狩り」の使い方を、大辞林は、
「自然の中に分け入って、
      野草や貝などをとったり、花やもみじを観賞したりすること」
と説明す
      る。用例には、「きのこ―」「潮干―」「桜―」「紅葉(もみじ)―」が
      挙げられている。「桜狩り」という言葉があることは初めて知ったが、
      単なるお花見ではないのだろう。「自然の中に分け入って」が「狩り」
      の条件だから、桜狩りとは、山に分け入って、桜観賞のポイントに陣取
      ることを言うわけだ。
       一つ賢くなった気がする。
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 3/22  木々の梢は赤さを増して、そろそろ雪も降らなくなった。先日、この
      地方でも遅い雪が降ったが、子どもたちの会話にふと「ぼた雪」という
      言葉が混じるのに気がついた。懐かしい言葉だと思いながら、高校生の
      頃に「それを言うなら、牡丹雪だろ」とバカにされた記憶がよみがえっ
      た。ボクは田舎臭い言葉を使うやつだと決めつけられて笑われたのだ。
       これを機会に認識を新たにしようと思って辞書を引いてみた。

      ぼたん-ゆき【▼牡丹雪】
        ボタンの花びらのように大きな雪片となって降る雪。多数の雪の結
       晶が付着しあったもの。ぼたゆき。[季]冬。   (「大辞林」)

      ぼたんゆき【―雪】
        ふっくらした感じの大きな雪片になって降る雪。▽「ぼたゆき」と
       も言う。ボタンの花びらのようだからとも、ぼたぼたした雪だからと
       もいう。                 (「岩波国語事典」)

       なんだ、「ぼた雪」は辞書に載ってる言葉じゃないか。しかも「ぼた
      ぼたした雪だからとも」と雪の性質まで説明されている。高校時代のボ
      クがやっと報われたという思いだ。
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 3/21  テレビを見ていたら、「知ってトクする便利情報」というコーナーが
      あった。とたんに走る違和感。なんなのだろう、と考えると、「情報と
      は、知って得るもの」という前提があることに気づいた。だから、この
      場合は、「トクする便利情報」で十分意味が伝わるはずだ。
       校内アナウンスで「○○先生、いらっしゃいましたら、職員室におい
      で下さい」と流すのもどうかと思う。このように放送するのは、その先
      生が校内にいるのが前提だ。いるかいないかは、その先生が職員室に現
      れるかどうかで判断すればよい。「いらっしゃいましたら」は不要であ
      る。
       西行の「ねがはくは花の下にて……」の歌の場合は、「ねがはくは」
      の語が落ち着かない。「春死なむ」と願っているのだから、「ねがはく
      は」と言わなくても意味は通る。ほかに何か新鮮な言葉はなかったもの
      かと思う。ボクがこの歌を十分に味わえないのには、そんな理由もある
      のだ。
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 3/20  ねがはくは花の下にて春死なむ そのきさらぎのもちづきのころ

       有名な西行の歌である。「願うことなら、桜の花の下で春に死にたい。
      如月(二月)の望月の頃に」という意味である。ボクがこの歌に出会った
      のはいつのことだったか覚えていないが、そのころは「そのきさらぎ」
      の部分が理解できなかった。「その」は何を指し示すものか。「春の」
      の意味なのか。しかし、二月は春に決まっているから、「その」なんて
      読み込む必要がないはずだ。なぜこのような歌をもてはやすのか、納得
      できなかった。
       しかし、二月の満月は当然十五日。この日は釈迦が亡くなった日であ
      る。西行が死にたい望月とは、釈迦にあこがれる思いに重なるのだ。そ
      う思って読むと、この歌はしっかり心に落ちる。
       西行が亡くなったのは七十三歳で1190年の旧暦二月十六日。きさ
      らぎのもちづきの翌日だった。
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 3/19  人間の視野は約140度あるという。そんなに見えていたのか、と驚
      きつつ、それほどでもないなという気がしてくる。せいぜい運転には気
      をつけたい。
       それに比べて馬の大きな目の視野は、なんと350度近くあり、頭の
      真後ろ以外は常に見えているらしい。馬は気が小さい動物で、敵をすぐ
      に察知できるように発達したものだという。また、馬の目は地上の哺乳
      類の中で最も大きいそうだ。しかし、うらやましいことだろうか。
       「視野」は、「大辞林」によれば、「思慮や判断の及ぶ範囲。識見」
      と説明される。狭いよりは広いことの方が良くて、人が生きる上で、そ
      の視野を広げることがを良いように言うことが多いが、ボクは、案外そ
      うでもないなと思う。人間として、視野狭く生きることだって、価値が
      あるはずだ。余計なことを考えず、まっすぐ生きたおかげで生み出され
      た文物がいかに多いことか。
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 3/18  岐阜県郡上市には、大中小学校という学校がある。「おおなかしょう
      がっこう」と読むのだが、そう読めるようになったのは最近のことであ
      る。その存在に気づいた当初は、「大学まで一貫教育を行う学校か」と
      思ったものだ。
       このほか、栃木県に「小山市立中小学校」を発見した。また、愛知県
      丹羽郡大口町には、「大口町大字中小口」という複雑な住所もあり、初
      めてそこを通ったときには、住所表示に目を奪われて事故を起こしそう
      になった。
       毎日、そこを通る度にそんなことばかり考えて運転している人も多い
      のではないかと思う。
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 3/17  以前、長良川の鵜匠、渡辺さん宅を訪れた折のこと、渡辺さんが「鵜
      には名前を付けない」と語ってくれた。「犬でも猫でも、名前を付ける
      から、鵜にも名前を付けると思うやろうが、たくさんいる鵜を区別しよ
      うとして名前をつけると、鵜が人間の世界のものになってまうんや」と
      渡辺さんは言う。
       鵜匠として、鵜とともに暮らしてはいるが、鵜は鵜であって、人間で
      はない。鵜を愛しても、名前は付けないのが鵜とのつきあい方である。
       渡辺さんは、「名前なんて付けなくても、鵜は区別できないわけやな
      い。鵜だって、互いにそのことで不便は感じていないやろ。だから、お
      れが鵜を見るときにも、大きいやつ、小さいやつ、ここに怪我しとるや
      つ、というふうに思っとるだけや」と話してくれる。
       世のペット好きには耳の痛い話かも知れない。服を着せ、専用の美容
      院に通い、ペットに人格を与えてしまうことの入口に、名前を付ける行
      為があるのだ。犬が犬でなくなり、猫が猫でなくなることには、そうい
      うきっかけがあるのだろう。
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 3/16  ボクの味覚の問題だと思うのだが、子どもの頃から、ジャムというも
      のがどうにも好きになれない。妙につぶつぶが残っているのがいけない
      のだ。ジャムの代表はイチゴジャムだろうが、あのつぶつぶは、イチゴ
      の種だ。そういう食用でない部分が存在感を示しているのが許せないの
      だ。だからボクは、チョコレートスプレッドだのピーナツバターだのと
      いった、粒のないさらりとした食感のものが好きだった。だから、ジャ
      ムなんて下らないと思って小学校に通っていた。
       そこに、マーマレードというものが登場した。クラスの友達は大いに
      気に入って、「マーマレードって、おいしいね」と満足げだったが、ボ
      クにとって、オレンジの皮なんて、食べる部分ではない。たいていの人
      は捨てているはずだ。日頃はいやがって残しているのに、ちょっと姿を
      変えるとありがたがって食べるのは、人としてどうかと思うのだった。
       そして何より、「マーマレード」という呼び名が気に入らなかった。
      発音してみると分かるが、2つめの「マ」が、人に媚びた響きを持って
      いるのだ。
       今では何とも思わなくなったジャム類だが、子どもにとってそれは大
      問題である。大人にはない感覚を忘れたくないと思う。
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 3/15  「おいそれと」という言葉遣いは面白い。「おい」と呼ぶと「それ」
      と反応してくれる様子がよく分かるのだ。文法の世界では「おいそれと」
      は副詞に分類されるが、もともと「おい」も「それ」も感動詞である。
      ささやかな感動に命が与えられて言葉は生まれる。そんな静かな営みを
      じっと感じていたい。
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 3/14  ワインの香り用語はすさまじい。そのたとえに使われる物の多様なこ
      とは並大抵ではない。

       グレープフルーツ レモン ブラックベリー ラズベリー 桃
       ストロベリー カシス チェリー アプリコット りんご

       と、この辺りまでは常識の範囲内であろう。しかし、そのほかには、
      次のようなにおい表現が準備されていた。

       草刈り後の草 ピーマン 煙草 バター 醤油 チョコレート
       糖蜜 焦げ臭 燻煙 焼け臭 コーヒー 土 かび かびたコルク
       かび臭 土臭 マッシュルーム ほこり ジーゼル油 灯油
       プラスチック タール 濡れ毛糸 濡れた犬 酸化硫黄 マッチを燃
       やした臭い ゆでキャベツ スカンク にんにく メルカブタ腐卵臭
       硫化水素 ゴム臭  濡れボール紙 ろ紙  石けん臭 魚臭 汗臭
       鼠臭 馬臭

       これらはすべて「比喩表現」だ。ワインにこれらの物質が入っている
      ということではない。しかし、「濡れた犬」だの「汗臭」だのと、ワイ
      ンの香りがそういうことで良いのだろうか。「鼠臭」なんて、普段経験
      しない上に、嗅ぎたいものではない。
       高級な趣味を持つということがどんなに特別なことだか、分かってき
      た気がする。
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 3/13  オープンサンドという言葉にぶつかったのは小学生の時のことだ。そ
      れまでの常識を打ち破る表現に圧倒された。「サンドしていないのにサ
      ンドだなんて……」という違和感が強く、ボクはオープンサンドを拒絶
      した。今でも食べないことにしている。にせ物を認めるわけにはいかな
      いのだ。
       チョウザメも、サメとは名ばかりで、あれはサメではない。だから、
      その卵のキャビアも食べない。
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 3/12  月食は不思議だ。月が地球の陰に隠れるのだと分かってはいるが、広
      場や神社でやるかくれんぼとは違って、あまりにも規模が大きくイメー
      ジがつかみづらい。今年は10月17日に月食が見られるらしい。岐阜
      地方は午後8時37分に始まる予定だが、月のはじっこをかすめる程度
      のもののようで、興奮度は小さい。
       先のことになるが、2011年12月10日には、「皆既食」が見ら
      れる。食は9時46分に始まり、11時ごろ皆既となり、深夜までその
      状態が続くという。食の始まりは見たいと思うが、風邪を引くのはいや
      だ。
       さて、「月食」の字は、もともとは「月蝕」と書いた。「月がむしば
      まれる」という意味だ。ボクはこういう生々しい表記の方が好みである。
      「月食」では、天下の一大事にしては健康的だと思うのだ。「日食」も
      「日蝕」の方がドラマティックではないか。
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 3/11  もうすぐお彼岸だ。「彼岸」は「あっちの岸」であり、仏教でいう涅
      槃の世界を呼ぶものだ。では、「こっちの岸」はなんというかといえば、
      ちゃんと「此岸(しがん)」という言葉が用意されている。さて、「西方
      浄土」の言葉があるとおり、阿弥陀仏の極楽浄土は「西」にあるとされ
      ている。そのため、真西に太陽が沈む春分の日と秋分の日は、夕日が極
      楽浄土への道しるべとなると考えられたのだ。
       この日沈む太陽が示す極楽浄土への道を「白道(びゃくどう)」と言い、
      仏の示されるこの白道を信じて進めば必ず極楽浄土に至るという信仰が
      生まれたのだ。
       きわめてロマンチックな話だが、現実には、何日も歩くうちに日没の
      方角がずれてくるので、ゆっくりしているわけにはいかない。チャンス
      は一度である。
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 3/10  昨日、一年の長さや閏年についていろいろ考えたのは、春分の日が接
      近しているからだ。「今年は何日だったかな」と毎年不安になるのだ。
      春分の日は、西暦2000年、2001年には3月20日だったものが、2002年、
      2003年は3月21日になって、2004年は3月20日だ。どうなっている
      のか。
       「春分日」とは、天文学で「春分点」と呼ばれる点を太陽が通過する
      日のことで、だいたいは3月21日あたりになる。しかし、一年の長さ
      が中途半端なので、年によってずれてくるのだ。

       さて、祝日としての「春分の日」(秋分の日も同様)は、国立天文台
      が作成する暦象年表という小冊子に基いて閣議で決定され、官報によっ
      て公報されて正式に決まる。官報に載る時期は2月の最初で、ここに翌
      年の春分の日・秋分の日が記載されるのだ。つまり、天文学としての春
      分日と祝日の春分の日とは、決まり方が違う。だから、3年後の春分日
      は分かるが、その年の春分の日は分からないということになる。
旅行業
      者は何年も先のカレンダーを常備しているが、あれはなんだったのか。
       ボクが政治家だったら、「来年の春分の日は21日との噂だったよう
      だが、ボクの趣味で20日にする」などとだだをこねて騒ぎを起こして
      みたい。
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 3/9   いったい1年は何日あるのか。365日だったり366日だったりと、
      不安定きわまりない。「約365.2422日」が一応の答えなのだそうだが、
      不可解だ。そんなの、誰がどのように決めたのだろう。
       しかし、閏年が4年に1度あることから、1年の日数は次のように求
      められる。

       (365日+365日+365日+366日)÷4=365.25日

       惜しくも調べた日数に一致しない。そこでもっとよく調べると、「4
      年に1度の閏年は、100年目は実施しない」とのこと。そういえば、
      西暦2000年問題でゆれたあの年、実は一年が365日で、肩すかしを食
      らったような感じだった。百年に25回あるはずの閏年は、実際は24
      回なのだ。76回は平年だから、次の計算で一年の日数が求められるは
      ずだ。

       (366日×24+365日×76)÷100=365.24日

       よしよし、少し接近した。閏年のルールには、「百年目には実施しな
      い約束のところ、四百年目にはやっぱり実施する」があるので、1日÷
      400=0.0025日を加算すると、「365.2425日」が求められる。調べたもの
      との差、は 0.0003日まで縮まった。これを秒数に直すと、25.92秒と求
      められる。
       一年の長さが計算より25秒くらい少なくても、ボクは別にもうどうで
      も良い。
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 3/8   今日は「仏滅」だが、別に気にならない。
       その後、あれこれ調べてみたが、六曜は「月」+「日」をもとに計算す
      るので、当然のことだが、毎年一月一日は必ず「先勝」になることが分
      かった。となれば、「七月一日」も「先勝」に決まる。肝心なのは「日
      付」なのだ。毎月一日ばかりの六曜を一覧にすれば、次の通りになる。

               一月  二月  三月  四月  五月  六月
               七月  八月  九月  十月 十一月 十二月
               
先勝  友引  先負  仏滅  大安  赤口

       ますます六曜がバカバカしくなった。こんなものをいつまでも大切に
      している人がかわいそうに思える。しかも、その配列は時代によって少
      しずつ変わってきているのだ。現代を基準にして、過去の六曜を示した
      い。
               一月  二月  三月  四月  五月  六月
               七月  八月  九月  十月 十一月 十二月
      和漢三才図絵   大安  留連  速喜  赤口  小吉  空亡(古)
      天保大雑書万歳暦 先勝  友引  先負  物滅  泰安  赤口 ↓
      安政雑書万暦大成 先勝  友引  先負  物滅  大安  赤口 ↑
      現 在      先勝  友引  先負  仏滅  大安  赤口(新)

       和漢三才図絵は、1712年頃に出版された、全33巻からなる百科事典で
      ある。「天保」は1830年から1844年まで、「安政」は1854年から1860年
      までの年号である。時代によって少しずつ六曜が変わっていることが分
      かる。そして、三百年前の和漢三才図絵にさかのぼると、現代と完全に
      一致するものはなくなってしまう。
       ここに六曜というものの意味の薄さがある。「仏滅」だって昔は「物
      滅」だ。仏さんには関係ないじゃないか。
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 3/7   朝のテレビ番組には、たいてい占いのコーナーがある。ボクは水瓶座
      だが、「今日最も不運なのはも、水瓶座さんです」などとランキングが
      発表されると、ものすごく気分が悪い。そんな占いを信じているわけで
      はないが、信じていなくても嫌な感じだ。占いの星座は十二あるから、
      視聴者の十二分の一が毎日同じ思いをしていることになる。
       ところで、日本には、六曜占いという、根拠のない迷信が長く幅をき
      かせている。「仏滅」や「大安」というのがそれである。

       大安  吉日なり 婚礼 旅行 移転 開店 その他万事よし
       赤口  凶日なれば 何事に用いて悪し 但し正午のみ吉なり
       先勝  万事早きが吉 午後二時より六時までは 凶なり
       友引  この日正午のみ凶 朝夕大いに吉なり 儀式を忌むべし
       先負  この日静かなる事に吉 午前中は凶 午後より吉なり
       仏滅  この日凶日なれば何事も忌む この日病めば長引く

       生まれた月日による星占いと違って、これは国民全員が同じ判断をす
      るものだ。「友引だから葬式は延期」だとかいうのがそれだ。結婚式も
      仏滅には行わないのが通例だった。旧暦の時代、これほど国民に浸透し
      た占いはないと言って良い。
       では、この六曜をどのように決めていたかというと、実は日付の足し
      算と割り算のみなのである。「月」+「日」を6で割った余りによって、
      六曜が決まるのだ。今日、三月七日は旧暦一月二十七日だから、次のよ
      うに計算する。
       (1+27)÷6=4……あまり4 → 次の表から「先負」

       余り=0  大安    余り=1  赤口    余り=2  先勝
       余り=3  友引    余り=4  先負    余り=5  仏滅

       こんな非科学的なものが全国に広がっていることがバカバカしい。何
      か根拠があると言えるだろうか。
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 3/6   通勤路には田舎道だから、都会では見られないものが見られる。先日
      も、ガードレール付近にカラスがおぼつかない顔つきでうろうろしてい
      ると思ったら、すぐ上をトンビが威嚇するように飛んでいた。普段のの
      んびり飛行ではなく、明らかに緩急の付いた、羽ばたきと急降下の繰り
      返しである。カラスは道ばたの看板を隠れ蓑に、あたりをきょろきょろ
      窺っていた。下手に飛び上がれば、トンビのするどい爪が待っているの
      だ。
       トンビは漢字で「鳶」と書く。この字の上の部分は、「戈」の字の左
      はらいが省略された形だ。「戈」は「ほこ」で、先端の鋭い武器だ。要
      するに「鳶」とは、武装したおっかない鳥なのだ。
       一方のカラスは、「烏」または「鴉」と書く。「烏」の方は、鳥の目
      のない形。一説にはカラスが黒くて目の位置が分からないからこう書い
      たと言う。だからこの字は、「烏鷺」などと使って、色が黒いことを表
      すこともある。「鴉」の方は、くちばしに着目した文字と見える。鴉の
      くちばしは異様に大きい。「牙」+「鳥」=「鴉」なのだ。
       どちらも怖い鳥だとは思うが、自然界ではカラスの方が威張って見え
      る。トンビを追い払っているところを見たこともある。人間を襲ったと
      いうニュースも、カラスにあってトンビにはない。
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 3/5   小学生のころには、日本全国の都道府県名をすべて覚えた。北海道か
      ら沖縄まで、北から順に唱えていくのだ。友達が集まって、「お前言え
      るか」ということにもなった。ギャラリーがあると緊張するもので、最
      後まで言えると「なかなかやるじゃないか」という扱いを受けた。しか
      し、この遊びには、覚えきれないグレー・ゾーンとでも言うべき地域が
      あった。
       申し訳ないことだが、東海地区に住む者にとっては「鳥取県」「島根
      県」はイメージしにくい位置にある。字面が似ていることもあって、ど
      ちらが東でどちらが西かも分かりづらい。「ああ、出雲大社があったな
      あ」と、そこまで思い出しても、それがどっちの県だったかすら
思い出
      せないのが小中学生というものだ。
       ボクは今でも「鳥取県」と書こうとすると「鳥」と「取」のどちらが
      先だったかで、悩んでしまう。どちらも「トリ」と読めるからだ。
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 3/4   このごろ月がものすごく印象的な色をしている。春の色だ。昔の人が
      月を愛でていたことがとてもよく分かる。なんと言っても十五夜が一番
      なのだが、その後の月も見逃せないようで、面白いネーミングがなされ
      ている。

      十六夜 いざよい
        十五夜の翌日の月。「いざよう」とは「ためらう」という意味。早
       く見たいのに満月より少し出るのが遅れるので、「月が出るのをため
       らっている」と、この名が付いた。
      十七夜 たちまち
        「たちまち」は「立ち待ち」の意味。十五夜の2日後の夜の月。月
       が出るのを、まだかまだかと立って待っている、ということからこの
       名が付いた。
      十八夜 いまち
        「いまち」は「居待ち」。十五夜の3日後の夜の月。月が出るのを、
       立って待つにも限界があり、座って待てば出てくる、ということから
       この名が付いた。
      十九夜 ねまち
        「ねまち」は「寝待ち」。十五夜の4日後の夜の月。月が出るのを、
        座って待っていても出ないので、寝て待つということからこの名が
        付いた。臥待ち(ふしまち)ともいう。
      二十夜 ふけまち
        「ふけまち」は「更け待ち」。もう夜も更けた頃まで待たないと出
        てこない。また亥の刻の真ん中ころ(22時頃)に出てくるというの
        で「亥中の月」(いなかのつき)ともいう。

       そんなに月ばかり見てないで、早く風呂に入りなさいと言いたい。テ
      レビとかラジオとかがなかったことは分かるけれど、ほかに何かするこ
      とはなかったのかと思うほどだ。いや、実際には月ばかり見ていたわけ
      ではあるまい。本当に暮らしにゆとりのある人がこんな名を付けたのだ
      ろう。その名付け親が誰なのか、実に気になる。
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 3/3   江戸末期の歌人に橘曙覧(たちばなあけみ)という人物がいる。彼は生
      活に密着した短歌を多く残しているが、有名なのは、「たのしみは」で
      始まる52首の連作「独楽吟」である。

        たのしみはすびつのもとにうち倒れ ゆすり起すも知らで寐し時

       「すびつ」は「炭櫃」、要するに火鉢である。そんなところでうかつ
      に寝ると、今なら一酸化炭素中毒の危険ありと騒がれそうだが、曙覧橘
      の家はすきま風だらけだったのではないかと思われるので、きっと大丈
      夫。なぜそう思うかといえば、次のような歌があるからである。       

        たのしみはあき米櫃に米いでき 今一月はよしといふとき
        たのしみは銭なくなりてわびをるに 人の来りて銭くれし時

       米びつに米がないときは心細かろう。かく言うボクも学生時代は一週
      間を五百円で乗り切ったことがあるから、食べ物と金のない侘びしさは
      身にしみて分かっているつもりだ。橘曙覧は独り者ではなかったから、
      ますます大変だ。こんな歌を読むと、明日の命が心配ということもあっ
      たのではないかと思えてくる。しかし、橘曙覧はただ貧乏だったわけで
      はない。

        たのしみは世に解がたくする書の 心をひとりさとり得し時
        たのしみは珍しき書人にかり 始め一ひらひろげたる時

       金はなくとも、なかなかの文化人である。そしてボクは、次の歌に共
      感する。

        たのしみはそゞろ読ゆく書の中に我とひとしき人をみし時

       ある程度の年齢になるとこういう思いになるものだろうか。世の中が
      見えていない間はそんな感覚は得られないものだと思う。橘曙覧、なか
      なかの人物と見た。ところが……

        たのしみは昼寝目さむる枕べにことことと湯の煮えてある時

       いや、火の始末とか、そういうことにはスキだらけである。枕元なん
      て、そんなところにお湯が沸騰しているのも信じられない。
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 3/2   以前、「連合」と「連盟」について考えたが、「レンゴー」と発音す
      るものに2種類あることを思い出した。「連合」と「聯合」である。ボ
      ク自身、以前は「『聯合』は古い書き方だ」という程度にしか考えてな
      かったが、そういう単純なものではないと思えてきた。そう、『聯合』
      と書いた時代にも、『連合』の表記が見つかったのだ。
       意味が似ていて表記が違うというのは、言葉の世界ではものすごく大
      切なことだ。わざわざ書き分けている理由があるはずだ。気になって眠
      れないから、辞書を頼ってみたい。「大辞林」を見てみよう。

       ▽「連」「聯」を使い分けていたころは、異種のものの場合には「連
        合」、同種のものの場合に「聯合」とする傾向があった。(抜粋)

       異種か同種かの境界はあいまいだから、しっかり線を引けない事情は
      分かる。例えば、デパートとスーパーマーケットが異種か同種かを即座
      に答えられる人はいないだろう。そういうものが目的を一にして協力関
      係を持った場合、「連合」なのか「聯合」なのかで頭を悩ませたはずだ。
       現代には、そういうことの悩みはないが、しかし一方で、似たような
      意味のことを外来語で書き分ける必要があったりと、やはり悩みはつき
      ない。
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 3/1   利息と利子がどう違うか、気になった。一説には、預けた金につくの
      が利息で、借りた金につくのが利子であるとのことだが、辞書ではそう
      いう区別はされていなかった。

      りし【利子】
       他人に金銭を預けまたは貸した場合に、他人がそれを運用した見返り
       として、金額と期間に比例して受け取る金銭。利息。(「大辞林」)

       考えてみれば、こちらが貸した金は、相手から見れば借りた金なのだ。
      それにつく利子(利息)も同様だ。同じものを立場が違うからといちいち
      呼び分ける習慣が一般化しないのは、当然かも知れない。
       利息も利子もやっかいなものだと思っていたら、二つの言葉を合わせ
      ると「息子」の語を生むことに気がついた。世の厄介息子の一人として、
      居たたまれない事実である。
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     過去文 2003年   2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月