今日の言の葉 

     過去文 2003年   2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月

 6/30  「中華風料理」という看板を出した店があった。なんなのだ、君は。
      はっきりと「中華料理」と書けばいいじゃないか。それができないとい
      うのは、何かあやしい。君は中華料理店ではないのか。
       だいたい、「〜風」というところがいけない。この言葉は、大いにあ
      いまいだ。なにか、「真似ましたので」という言い訳めいた気持ちが感
      じ取れるのだ。「田舎風」「日本風」「地中海風」のように、どれもみ
      んないい加減だ。
       アメリカ映画にはときどき、日本人という設定なのに明らかにおかし
      い日本人が登場する。宇宙基地なのに畳で寝るとか、枕許には刀が飾っ
      てあるとか、何かあるとすぐに切腹しようとするとか、そういう見方は
      いい加減にやめてほしい。しかし、それが止まらないのは、アメリカ人
      が考える「日本風」が定着しているからなのだ。
       なお良くないことに、たった今、「やめてほしい」と思ったものの、
      「では、日本らしさとは何なのか」と考えてみると、きちんと答えられ
      る自信がない。だらだら加減のボクである。
----------------------------------------------------------------------------
 6/29  歌詞の文末が気になる。           (箱根シリーズ7)

       かくこそありしか 往時のもののふ(1番)
       かくこそあるなれ 往時のますらお(2番)


       この二つは曲の1番、2番の締めくくりだが、「かくこそ → ありし
      か」「かくこそ → あるなれ」という形で、これは係り結びだ。「こそ」
      に対応して、已然形で結んでいるのだ。
       中学校では、必要があって今でも「係り結び」を教えているが、たい
      ていは連体形で結ぶ形ばかりで、已然形というのはなかなかない。こう
      いう決まり事に日頃から親しんでいたなら、「仰げば尊し」の「今こそ
      別れ目」を、間違いなく「別れむ」の已然形「別れめ」だと感じ取るこ
      とができるのだと思う。
       そんなことを高校に入ってから覚えても、「なんだか変な日本語だ」
      と思うのが関の山だ。そうならないためにも、文語で歌う唱歌の復活を
      強く求めたい。
----------------------------------------------------------------------------
 6/28  天下に旅する 剛毅のもののふ        (箱根シリーズ6)

      ごうき【剛▼毅/豪▼毅】(名・形動)
       意志がしっかりしていて物事にひるまない・こと(さま)。

       そうだろう。そんな人でなければ、天下に旅することなどできまい。
      しかし、そんな無骨さに潤いを与えてくれる著述があった。「論語」で
      ある。

      剛毅木訥(ぼくとつ)仁(じん)に近し 〔論語(子路)〕
       意志がしっかりして、飾りけがないのは道徳の理想である仁に近い。

      「仁」とは、思いやりということだ。剛毅な、飾り気のない人には、実
      は優しさに似たものがあるというのだ。こういうことを言う人がいなく
      なったな
あ。
----------------------------------------------------------------------------
 6/27  一夫 関にあたるや 万夫も開くなし     (箱根シリーズ5)

       函谷関をイメージしたものであろうか。守りやすく攻めにくいことを
      数字を使って表現している。この要衝を守るのにただ一人の兵士さえい
      れば、たとえ一万の兵が攻めてこようが関を開くことはできないという
      のだ。この点、箱根もまた然りであるということか。
       ここまで書いて気がついたが、「函」も「箱」も、ともに「はこ」と
      読むのだ。ただの偶然なのだろうが、妙な一致がうれしい。
----------------------------------------------------------------------------
 6/26  羊腸の小径は苔なめらか           (箱根シリーズ4)

      ようちょう【羊腸】(名)
      (1) ヒツジの腸。乾燥してひも状にしたものを楽器の弦などに用いる。
        ガット。
      (2) ヒツジの腸のように道などの幾重にも折れ曲がっている・こと(さ
        ま)。つづらおり。
        「―の小径」「―たる小道/あめりか物語(荷風)」

       
くねくね曲がった道のことを「羊腸の小径」というのだ。面白い表現
      だが、こうした表現が確立された背景を考えねばなるまい。すなわち、
      羊の腹を割いた経験のある誰かが、くねくね曲がった道を通った折に、
      「これはまるで羊の腸のようだ」と表現したはずなのだ。これを聞いた
      誰かが「へえーっ、うまいことを言うじゃないか」と感心し、やがて世
      間に広まっていった……。そんな流れがなければ、「羊の腸」なんて突
      拍子もない表現が定着するわけがないのだ。
       その最初の誰かのことをボクは尊敬したい。いったい誰だろう。
----------------------------------------------------------------------------
 6/25  前に聳え後方に支う             (箱根シリーズ3)

       これで「まえにそびえしりえにさそう」と読む。目の前に山が高くそ
      びえ、振り向けば……。いや、振り向けばどうなのだろう。「さそう」
      を「誘う」だと思っていたころは、これを「谷に吸い込まれる感覚」と
      勝手に理解していたが、「支ふ」と書くと知ったからには、そんなこと
      は言っていられない。「支える」の意味を調べよう。

      ささ・える 【支える】(動ア下一)[文]ハ下二 ささ・ふ
      (1) 力を加えて、物が倒れたり落ちたりしないように、押さえたりつっ
        ぱったりする。
      (2) 社会・集団を維持する。ある状態をもちこたえる。
      (3) 援助する。支援する。
      (4) 攻撃などを防ぎ止める。
      
(5) 人や物が通ろうとするのを妨げる。さえぎる。
      (6) 中傷する。
       (以上、「大辞林」から。ただし、用例の部分は省略した)

       意外にも、「支える」は意地悪な意味も持っていた。(5)と(6)は当人
      にとってはマイナスの内容である。この意味で言うと、「支えてくれる
      人」なんて、ちっともほしくない。きっと、そもそもの意味が「つっか
      える」辺りにあるのだと思う。そう考えれば、良い意味も悪い意味も理
      解できるのだ。
       で、「後方に支う」とは、そびえる山を前にして下がろうとしても、
      後ろは後ろで険しくて、容易に引き下がりようがないことを表すのでは
      ないかと思う。箱根の山をなめてはいけない。
       そんな理解で良いのかどうか、実はよく分からない。誰か教えてくれ
      まいか。
----------------------------------------------------------------------------
 6/24  万丈の山 千仭の谷             (箱根シリーズ2)

       どんな高さの山であろうか、「万丈の山」。辞書を引いてみよう。

      じょう 【丈】(名)
      (1) 尺貫法の長さの単位。一〇尺。1891年(明治24)100メートルを三
        三丈と定めた。(「大辞林」)

       つまり、100÷33=3.03030303メートル なので、万丈とは、およそ3
      万メートルということになる。一桁多い。やはり「アルプス一万尺」と
      言っておくぐらいがちょうど良い。
       一方の「千仭の谷」とは、どんなスケールか。

      せんじん 【千尋/千▼仞】〔「尋」「仞」ともに長さの単位〕
       山などがきわめて高いこと。谷や海などがきわめて深いこと。ちひろ。
      「―の谷」

       単位の「尋(ひろ)」なら知っている。腕をいっぱいに広げた長さだ。
      子どものころから使っていた。念のために辞書を引いてみよう。

      ひろ【▽尋】〔広(ひろ)の意〕
       両手を左右に広げたときの、一方の指先から他方の指先までの距離。
      長さの単位として用い、縄・釣り糸・水深をはかるのに用いる。江戸時
      代には一尋は、五尺(約1.5メートル)または六尺(約1.8メートル)で
      あったが、明治以降は六尺とする。

       だから、「千仞の谷」といえば、深さ1.8キロメートルにもなる谷
      ということになる。「万丈の山」も「千仭の谷」も、誇張表現であるこ
      とは言うまでもないが、こういうことをあいまいにしておくより、一応
      でも知っておく方がずっと賢い。さらに、「白髪三千丈」とか詩に歌う
      ほどの器量も必要であろうか。
----------------------------------------------------------------------------
 6/23  函谷関もものならず             (箱根シリーズ1)

       あの有名な函谷関でさえ、比較にならない箱根の山というのだが、函
      谷関とは、中国、河南省西部にあった関所であり、長安・洛陽間の要衝
      である。中国の歴史を左右する高名な関所と箱根の山が勝負になるとは
      思えないが、ボクは行ったことがないので何とも言えない。
       さて、中国の故事に「函谷関の鶏鳴」というものがある。この故事の
      主人公は、孟嘗君(もうしょうくん)という人物で、中国の戦国時代の斉
      の王族である。いろいろと特色ある人物を数千人も養い、勢力を振るっ
      たという。
       その彼が、あるとき、秦の昭王に幽閉されるという一大事が起きた。
      辛くも逃げ出した彼は、追っ手から逃れたいのだが、行く手にはだかる
      のは天下の函谷関である。関は夜間は閉ざされ、一番鶏の鳴くまでは開
      かない。ぐずぐずしていると追っ手に捕らえられてしまう。その時、こ
      の門を、ニワトリの声真似がうまい者の演技で開かせ無事脱出したとい
      う故事が残されている。(「史記(孟嘗君伝)」)
       こういう時のために、ニワトリの声真似のうまい人を一人ぐらいは身
      の回りにおくべきなのだろうが、いつ役に立つか分からないそんな芸人
      を養う経済力はボクにはない。
       というより、そんな芸を磨く人物が家にいたら、うるさくてたまらな
      いから、ボクはたとえお金に余裕があっても、家には上げないと思う。
----------------------------------------------------------------------------
 6/22  「箱根の山は何県か」……答え「天下の険」
       こういうなぞなぞがあった。何故こんなことを言ったのか。それは、
      こんな歌があったからである。

      「箱根八里」

      1 箱根の山は天下の険 函谷関もものならず
        万丈の山 千仭の谷 前に聳え後方に支う
        雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
        昼なお暗き杉の並木
        羊腸の小径は 苔なめらか
        一夫 関にあたるや 万夫も開くなし
        天下に旅する 剛毅のもののふ
        大刀腰に足駄がけ 八里の岩根ふみならす
        かくこそありしか 往時のもののふ

      2 箱根の山は天下の岨 蜀の桟道数ならず
        万丈の山 千仭の谷 前に聳え後方に支う
        雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
        昼なお暗き杉の並木
        羊腸の小径は 苔なめらか
        一夫 関にあたるや 万夫も開くなし
        山野に狩する 剛毅のますらお
        猟銃肩に草鞋がけ 八里の岩根ふみやぶる
        かくこそあるなれ 往時のますらお

       何とすばらしく、教養にあふれた詩であろうか。心地よいスケール感。
      そして細やかだ。さらにこのリズム感は、漢詩・漢文の知識がある人に
      はこたえられないことだろう。出てくる言葉もいい。「函谷関」「剛毅の
      もののふ」などの言葉には、今は亡き人々をこの世に生き生きとよみが
      えらせる力がある。こんなすてきな歌なのに「箱根の山は何県か」とは、
      よく言ったものである。子どもって、いつもこんなものなのだろうか。
       明日からはこの歌詞について考えてみたいと思う。
----------------------------------------------------------------------------
 6/21  ソーセージは太さや腸詰めの袋の材料によって名前が変わる。

      ウィンナーソーセージ
       → 羊腸を使用したもの、又は製品の太さが20mm未満
      フランクフルトソーセージ
       → 豚腸を使用したもの、又は製品の太さが20mm以上36mm未満
      ボロニアソーセージ
       → 牛腸を使用したもの、又は製品の太さが36mm以上

       ううむ、地方によって腸詰めに使う家畜が違うのだ。そして、三つの
      ソーセージの太さの違いが、羊と豚と牛の腸の太さの違いであることに
      思い当たったのだが、これは真実であろうか。いや、おそらく間違いな
      いだろう。羊は細く、牛は太い。当然だ。
       よくない想像をしてしまったかも知れない。
----------------------------------------------------------------------------
 6/20  夏はそうめんだ。漢字では「素麺」または「索麺」と書く。ボクはど
      ちらが正しいのかと悩んだことがあるので、どちらでも良いと分かると
      がっかりだ。クラゲを「海月」と「水母」のどちらで書いても良いとい
      うのと同じだ。
       ところで、「ひやむぎ」と「そうめん」はどう違うのか、気になると
      ころだ。調べてみることにした。JAS(日本農林規格・品質表示基準)
      には次のように定められている。
      
      「うどん」 直径1.7mm 短径1.0mm〜3.8mm
      「ひやむぎ」直径1.3mm〜1.7mm 短径1.0〜1.7mm
      「そうめん」短径・直径1.3mm未満
      「きしめん」幅4.5mm以上 厚さ2.0mm
       
       こんな基準を見ていたら、一本のうどんの片側を細くして索麺の太さ
      にして、こっちから見たらうどんで、向こうから見たら索麺というもの
      を作りたくなった。
       まだまだ子どものボクである。
----------------------------------------------------------------------------
 6/19  草の名ぞ所によりて変るなり難波の葦は伊勢の浜萩  『莵玖波集』

       昨日、ビスケットとサブレの関係などについて書いたが、所によって
      物の名が変わるということからこんな歌を思い出した。難波で「葦」と
      呼ぶ草が、伊勢では「浜荻」と呼ばれるというのだ。しかし、この歌も
      いい加減なところがあって、「葦」と「浜荻」は別物なのだ。信じては
      いけない。
       ただし、「葦」は発音が「アシ(悪し)」に通じるので、「ヨシ(良し)」
      と呼び変えることが多い。この場合、「葭」の字を使うが、物が同じな
      だけに、実際には、どちらの字を使っても構わないようだ。コンピュー
      タで漢字に変換するときも、「あし」「よし」のどちらも、「葦」「葭」
      になってくれる。さらには「蘆」の字も出てくる始末。中国でもどう書
      いて良いのか一つに決められなかった時代があったのかも知れない。
----------------------------------------------------------------------------
 6/18  クッキーとビスケットとサブレの違いが分からない。調べてみると、
      脂肪分を40パーセント以上含んでいるものがクッキー、それ以下のもの
      がビスケットだという。では、サブレはと言うと、フランスに「サブレ」
      という町があって、ここで焼いたものを「サブレ」と呼ぶのだという。
      ボクの好きな「鳩サブレ」は、あれは実は鎌倉産だが、フランス製でな
      いので、「鳩ビスケット」と改名せねばならない。
----------------------------------------------------------------------------
 6/17  料理屋に行くと、「舌代」という文字を見ることがある。その後にそ
      の店で食べられるものが並んでいるわけで、つまりこれは「メニュー」
      の意味だ。初めて見たときには、「おいしい物を食べさせ、下を満足さ
      せた代金」の意味だと思った。しかし、これは、口で言うべきところを
      代わりに文字で示した、という意味であった。だから、値段表以外にも、
      客に示す挨拶・口上にも使うのだ。で、どう読むかというと、「ぜつだ
      い」である。と思っていたら、辞書には「しただい」ともあった。せっ
      かく覚えたのに。
----------------------------------------------------------------------------
 6/16  「宛」と書いて「ずつ」と読む。きっとそうに違いないと思ってきた
      けれど、なかなか自信がもてなかった。「一人に一つ宛」と書かれてい
      ても、「一つあて」などと読んでしまっていた。学校では習わない読み
      方なのだ。そんなことは自分で調べるしかなかった。
       社会に出てからの学習というのはものすごく大きい。学校での勉強な
      ど何ほどのものであろうかと思うほどだ。「そんなこと学校で習っても、
      社会で役に立つの?」という意見を嫌というほど耳にしてきたが、社会
      生活を経験していない世代には、現実は想像もつかないことだろう。学
      校の勉強では全く足りないのだ。しかし、古い知識は新しい知識の下地
      となって横たわっていく。
       だいたい、人の世が必要なものばかりでできていると思ったら、大間
      違いだ。音楽がないと人は死ぬか。美術品がないと生きていけないか。
      プロ野球はどうだ。テレビはどうだ。どれも、なくても済むものばかり
      ではないか。しかし、そうした、なくても良いものを追い求め、その質
      を高めて、人は「文化」を築いてきた。文化とは、要らないものがどれ
      だけ生活に入っているかということでもあると思うのだ。
      「そんな無駄なことこと、知らなくても生きていける」というのは、み
      すみす宝を捨てる人の呟きだ。「宛」が「ずつ」だとわかった喜びは、
      分かろうとしない人には伝わることがない。ボクがプロ野球を無駄だと
      思っているのと何も変わらないと思う。
----------------------------------------------------------------------------
 6/15  左鮃に右鰈(ひだりひらめにみぎかれい)

       魚の格付けからすると、ヒラメの圧勝である。カレイは安い。しかし
      その理由は、実は、味ではなく、そもそも顔の向きからだったらしい。
       日本では、料理に魚を出すとき、頭は左に置くのが基本だ。ヒラメは
      左に頭があるが、カレイは右だ。カレイはたったそれだけで、もう高級
      魚の資格なしだ。
       だから、カレイを出すときには、裏返しにして、目の位置に南天の実
      を置いたりしたのだという。そうするのが礼儀だったようだ。
       ところで、カレイかヒラメかの区別は、実は顔の向きではなく、歯の
      形にあるということを知った。ヒラメは獰猛でイワシやアジを食べ、大
      きな歯が尖っているのに対して、カレイはおとなしく、ゴカイなどをも
      ぐもぐとおちょぼ口で食べるのだという。だから、顔の形が違うのだ。
      ヒラメは口が大きく、カレイは小さい。
       たまに、顔が右にあるヒラメがいたりするが、そんなことでごまかさ
      れないよう、日頃から口の形を見ておくようにしたい。
----------------------------------------------------------------------------
 6/14  きこのこえ、おのれ、つちのと、したにつき
       いすではなかに しみは みなつく

       漢字で書くと、

       己己の声 己己 下に着き
       已已は中に 巳巳は皆着く

       「己・已・巳」の区別は昔から難しかったようだが、こんな風に短歌
      の形で覚える知恵があったのだ。ボクは「つちのと」がどんな字だった
      か思い出せないときに、この歌を思い出すことにしている。
       しかし、こんな歌があっても分からないのは、庖丁の「庖」の字だ。
      この字の中味は、正しくは、巳の形ではなかったか。確か、そうであっ
      たはずだと思う。いつからこんな字になってしまったのだろう。
----------------------------------------------------------------------------
 6/13  道路の「拡幅工事」は、「かくふくこうじ」と読むが、工事現場の表
      示により「幅」の字が「巾」になっていることがある。しかし、「巾」
      は音読みで「キン」なので、これでは、「かくきんこうじ」になってし
      まう。あるいは「かくはば」なのか。
       かくして、読み方は分からないが、「幅を広げたいのだ」という意欲
      だけは十分伝わってくる結果となる。漢字とは、表意文字であるという
      ことを再認識するところだ。
----------------------------------------------------------------------------
 6/12  姑息

       間に合わせの、その場しのぎの、という意味で使われるのがこの言葉
      だ。「姑息な手段」という言い方を聞いたことがあるだろう。「姑」の
      字は、「しゅうとめ」と読むので、この言葉を知ってからは、姑の存在
      が何か嫌なものだという印象を強くしてしまった。
       しかし、この「姑」は、「しばら・く」という訓を持っている。だか
      ら、「姑息」は「その場しのぎ」でいいのだ。

       そうは言っても、「姑」が「しばらく」を表すということに妙な観念
      を持ってしまったことは何ともしがたい。
----------------------------------------------------------------------------
 6/11  田んぼの中にスナックを開いた人がいて、店につけた名が「たんぼ」
      だったという事実がある。これはボクの郷里の話だ。夕刻、ご主人が、
      「ちょっと、田んぼ行ってくるわ」とスナックに出かけても、嘘を言っ
      たことにはならない。都合の良い名前を考えたものだ。
       この「たんぼ」は、「田圃」と書く。「圃」は「ホ」なので、「ん」
      はどこからか迷い込んだものだ。いや、発音上、入った方が自然なのだ。
       ところで、「圃」の字の訓読みが気になって調べたら、なんとこれが
      「はた・はたけ」であった。
       ややこしい話になってしまった。そもそも「たんぼ」とは、どういう
      意味なのか、あいまいになってきたぞ。
----------------------------------------------------------------------------
 6/10  ふたとおりに読める文字は誤解の元だ。「呪い」と書いて、「まじな
      い」とも読む。「まじなう」という動詞の形なら、「呪う」と書く。
       しかし、こんなにイメージの違う言葉が一つの文字に同居しているな
      んて。小さい子が転んで泣いているときに、「痛いの、痛いの、飛んで
      けー」と言うのは「おまじない」だが、漢字で書けば、「お呪い」なの
      だ。なんだか、深夜、神社でわら人形で何かをしようとしている人みた
      いだ。
       徒然草第四十七段に次のような文が見える。

       或人、清水へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すが
      ら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前、何事をかくは
      のたまふぞ」と問ひけれども、応へもせず、なほ言ひ止まざりけるを、
      度々問はれて、うち腹立ちて「やゝ。鼻ひたる時、かくまじなはねば
      ぬるなりと申せば、養君の、比叡山に児にておはしますが、たゞ今もや
      鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。
       有り難き志なりけんかし。

       比叡山にいる若君がくしゃみをして死なないように、いつでも代わり
      におまじないをしてあげているという尼の話である。こういう「お呪い」
      には涙が出る。
----------------------------------------------------------------------------
 6/9   生徒の持ち物に「喧嘩上等」と書かれていて、びっくりした。筆入れ
      である。そんな文字を浮き彫りにした筆入れが売られているのだ。しか
      し、それを毎日、毎時間見て授業を受けるのだ。なんともおかしな話だ。
      強がりたい世代なのだとは思うが、喧嘩は決して上等なものではない。
       いや、ボクだって、「喧嘩」という字が書けるようになったころは、
      ノートの端っこに書いてみたりしたものだ。この文字の字面が気に入っ
      ていたのだ。本気で喧嘩がしたいわけではなく、そんな字が書けること
      がうれしかったのだ。これは、大人への小さな階段のようなものだった。
       そして、大人になった今、改めてこの文字を調べてみた。「喧」の字
      は、「かまびすしい」、「嘩」も「かまびすしい」と読む。つまり、ど
      ちらの文字も、つまりは「やかましい」という意味なのだ。騒ぎになっ
      ている様子が喧嘩なのだ。
       「喧嘩」と「口喧嘩」とを区別することがあるが、そもそも「喧嘩」
      とは、口やかましく罵り合う種類のものだったのかも知れない。こう思
      うと、ケンカなんて、ちっとも良いものじゃない。
----------------------------------------------------------------------------
 6/8   吋

       こう書いて「インチ」と読む。日本の尺貫法の「寸」に対応する文字
      だと言える。口偏をつければ良いのだと分かると、「尺」に対応する文
      字があるに違いないと思われた。調べてみると、やはりあった。「呎」
      である。
       読みも予想通りだった。「フィート」だ。さらに「哩」は「マイル」
      であった。なんとも調子の良い話である。しかし、どうして「口偏」な
      のだろう。そういうことにも理由があるのだろうか。
----------------------------------------------------------------------------
 6/7   言葉の意味は時代とともに変化するようである。例えば、「敵」の意
      味を辞書で確かめると、次のとおりの結果である。

      かたき 【敵】
       (1)競い合う相手。競技などの相手。現代では多く、「がたき」の形で
        他の語と複合して用いる。
       「恋―」「商売―」「飲み―」「碁―」「御碁の―に、召し寄す/源
        氏(宿木)」
       (2)(「仇」とも書く)恨みをいだいている相手。仇敵(きゆうてき)。
       「親の―を討つ」「―を取る」
       (3)敵対する相手。てき。
       「―の手にはかかるまじ/平家 11」
       (4)結婚の相手。配偶者。
       「―を得むずるやうは/宇津保(藤原君)」  (大辞林)

       (4)にあるように、「かたき」には、「結婚の相手」という意味がある。
      どうやらこの言葉が、もともと、単に「ものごとの相手」という意味で
      使われていたことから派生したものと思われる。この「相手」に対して、
      どんな感情を抱いていたかは問題ではなかったのだろう。
----------------------------------------------------------------------------
 6/6   久しぶりに漢字検定のテキストを眺めていると、「碍」の字が目に留
      まった。これは、「障碍」などと使う文字だが、それも最近は「障害」
      と書き換えて使われるため、存在感の稀薄な文字になってしまった。
       この字の読みを見ていて妙なことに気づいた。

      【碍】音 ガイ ゲ
         訓 さまた・げる  ささ・える

       いったい君はどっちなのだ。さまたげたいのか、ささえたいのか。
       そもそも、「妨げる」「支える」の文字があるのだから、そんな字が
      使われなくなるのは当然というものだ。
       準一級の漢字は、使われるチャンスを静かに狙うものばかりだ。
----------------------------------------------------------------------------
 6/5   崇高の「崇」は、山冠に「宗」である。一方、「出」の下に「示」を
      書くと、「祟」という文字だ。二つは酷似しているが、全く別の文字で
      ある。前者は「尊崇」「崇拝」「崇(あが)める」のように敬虔な意味で
      用いるが、後者は、「祟(たた)り」と読み、マイナスの意味で用いられ
      る。
       かつての同僚に「崇代」という女性がいたが、あるとき、人に「祟代」
      と間違えて書かれて激怒していた。
       いたく同感である。
----------------------------------------------------------------------------
 6/4   スモーク・ハラスメント。

       耳新しい言葉だ。上司に受動喫煙を強要される問題をこう呼んでいる
      らしい。吸いたくもないタバコの煙を吸わされる、そんな苦痛を無理強
      いされるのは、本当にたまらない。そういえば、こんな記事を見た。

       上司に「吸っていいか」と聞かれると、約6割は断れない―。

       昨年5月、健康増進法が施行されたが、その後も大して事態は改善さ
      れていないようだ。それどころではない。ファミレスに行くと、茶髪の
      母親たちが赤ん坊や幼児をかたわらに、すぱすぱ吸っている。そんな母
      親に育てられれば、子どもたちは小さいころからニコチンへの依存度が
      高まるかも知れない。よく吸えたものだと思う。我が子へも、周囲へも、
      なんの気配りもない。
       だいたい、ファミレスの禁煙コーナーなんて名ばかりで、喫煙ゾーン
      から煙い空気がどんどん流れてくる。わずかでもタバコの匂いがすると
      食欲は大減退なのに。タバコを吸いたくない客への配慮が十分でない店
      には行きたくもない。
       タバコを吸うことで税金を払っている、と偉そうなことを言う人がい
      るが、喫煙が原因で医者にかかるとき、窓口では医療費の3割しか払わ
      ない事実を承知しているのだろうか。残り七割を人に払ってもらってい
      るのを棚に上げるのは、あまり卑怯というものだ。
----------------------------------------------------------------------------
 6/3   水餃子。

       初めて注文したのはいつのことだったか。普段食べているギョーザと
      違って、茹で上がって出てくるのだろうなどと想像して、「ミズギョー
      ザ下さい」と大きな声で頼んでしまった。
       隣にいた同僚に即座に「ミズギョーザじゃなくて、スイギョーザ」と
      訂正され、己の間違いに気がついた。無知をさらして、恥ずかしい思い
      をしたが、しかし内心は、「そんなの、ミズギョーザでいいじゃないか」
      と反論していた。
       ところが、よく考えてみると、「ギョーザ」はたぶん音読みなので、
      その上の「水」も音読みでなくてはおかしいのだ。「高濃度」「低脂肪」
      「全日本」などと同じつくりの「水餃子」である。
       すると、「蟹炒飯」「海老焼売」などはどうなのか、と再び疑問は持
      ち上がる。どうもボクは中華料理屋にだまされている気がしてならない。
----------------------------------------------------------------------------
 6/2   「歩」の字は、上下に分解できる。上は「止」でこれが左足。下はそ
      の左右を逆にした形で、つまりは右足。なかなかそうは見えないが、象
      形文字のレベルではそうだったのだ。つまり、「左、右」と足を出すの
      が、それが「一歩」なのだ。
       よく、「一歩前へ」と言われて、片足分だけ前へ出るけれど、あれは

      本来は「半歩」であるということだ。
----------------------------------------------------------------------------
 6/1   あみだくじは、ジャンケンよりもどきどきする。一人ずつ順に結果が
      分かっていくのもたまらない。ボクの知る限り、もっとも公平な決定法
      である。
       ところが、このあみだくじ、昔から今の形だったわけではないらしい
      のだ。室町時代には、「阿弥陀の光」というくじが存在したという。こ
      れは、阿弥陀如来の後光のように、放射状に線が引かれたものだったら
      しい。
       今のあみだくじは、線が平行に引かれて、なんだか名前とつながらな
      い。さりとて、放射状に線を引いて、「これが本当の阿弥陀くじだ」と
      子どもたちに教えても、変人扱いをされるのがオチだ。
----------------------------------------------------------------------------

     過去文 2003年   2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月