今日の言の葉 

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10/31   本来無一物

        人はもともと裸で生まれてくる。自分のものは何もない。しかるに、
       やがて欲が出る。お腹がすいてなくても、甘い物がほしくなる。きれ
       いな服も大きな家も、なくても済むのに、ほしいと思う。生活は便利
       な方が良い。新聞は見ないけれどもテレビは見るという人たち。小さ
       いテレビよりは大きな方がよいし、古いテレビより薄型テレビがほし
       くなる。省エネルギーだし、きれいだし、格好がいいし。
        まだ十分使えるのに新しい物がほしくなる。「省エネ」の言葉以前
       に「倹約」の精神があったことを忘れて、お金を使いたくなる。人が

       お金を使うのは、はたして「必要だから」ばかりであろうか。ないの
       が当たり前だった携帯電話が普及して、携帯を忘れた日の心細さ。便
       利な物ほど不便であり、ボクたちがいかに物にしばられて暮らしてい
       るかが分かる。便利なはずのコンピュータに毎日届くスパムメール。
       その処理にかける時間のばからしさ。あ、返事も書かなければ。
        ボクたちに本当に必要な物は、生まれたころの母の愛だ。泣いてい
       る自分を優しく受け止めて、「よしよし」をしてくれる、ただその心
       地よさだ。ぬくもりだ。便利な時代になっても、そればかりは変わら
       ない。
        本来無一物。自分が帰りたい場所は、そういうところなのだと思う。
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10/30   日本語は乱れているか

        こういうことを言うと、たいていの人が「乱れている」と答える時
       期があった。若者言葉が気になって仕方がない中高年世代が中心とな
       り、全国にキャンペーンでも張ったかのように「日本語の乱れ」を指
       摘したものだ。そして若者言葉は「なっとらん」言葉とされた。
        その後に来たのは、「日本語は乱れてなんていない」の意見群だ。
       そもそも言葉は変化するもので、変化がいけないのなら、今でも平安
       時代のような言葉を使っていなければならないじゃないかとする反論
       だ。「過去にも未来にも、言葉とは変化するもの」と受け止めるから、
       若者の不思議な言葉ぐらいに驚くまいとする、賢いご意見である。現
       在は、マスコミの影響もあり、こちらの方が主流をなしているように
       思う。
        しかし、ボクは、「乱れ」という言葉のとらえ方が少々怪しいと思
       うのだ。現代の言葉の変化は、「あまりに短期間に」「次々と」「不
       規則に」「広範囲で一斉に」という特徴を持っている。これは過去に
       なかったことではなかろうか。そう、このような急激な変化のことを
       「乱れ」というのだ。
        言葉が過去と同じく、「ゆったりと変化」していたら、それを「乱
       れ」と指摘する人もないはずだ。流れの中に自分が流されているから
       だ。現代は、その流れがはっきり目に見えるほど速く、気をつけてい
       ないと、分からない言葉だらけになってしまう。こういうことに違和
       感を覚えて「日本語は乱れている」とするのは当然のことだ。

        どこかの大学の偉い先生がテレビに出て、「日本語は乱れてなんて
       いませんよ」などと言うのも、言葉の乱れを助長するものだと思う。
       その意見を聞いた人は安心しておかしな言葉を使い続けるだろうし、
       せっかく乱れを指摘した真面目な大人が返り討ちに遭うことになる。
       そして、「頭の固い大人」の扱いを受けるのだ。こんなに馬鹿なこと
       はない。
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10/29   ペット

        ローマ市議会ではこのほど、動物保護関連の条例が可決された。内
       容が面白いので、紹介しておこう。
        それによれば、条例規約には「伝統的な球状の金魚鉢の使用禁止」
       や「縁日などの懸賞として魚類やその他の動物を与えることの禁止」
       などが盛り込まれている。金魚を愛する者として、縁日で景品にする
       のは言語道断ということなのだろうか。また、金魚鉢も球状のがダメ
       で四角形のは可ということだが、球状の物だと水中に酸素を送り込む
       装置が付けられず、金魚が苦しむからなのだろう。あるいは、四方八
       方から見られることで、金魚にストレスが溜まるからということかも
       しれない。世の中を金魚鉢の内側から見たことがないのでなんとも言
       えないが、素晴らしい動物愛護精神であることだ。
        これほどの条例を通すのがローマ式だとしたら、日本人の食べる鯉
       の洗いや鯛の活け作りなどをローマの市民が見たら、あまりのことに
       卒倒する可能性がある。気をつけねば。
        動物保護の法令としては、わが国では、徳川綱吉の「生類憐れみの
       令」が有名だ。これについては、「犬の保護」ばかりに目がいきがち
       だが、あくまでも「生類」全体についての法令であり、実際に、魚に
       ついても複雑な規定があった。(これについては、故星新一氏の短編
       集「殿様の日」に詳しい)
        イタリアでは昨年7月に、犬や猫を捨てた人に禁固刑や罰金刑を科
       す法も制定され、その後、地方議会では相次いで動物保護に関する法
       が施行された。北西部のチュリン地方では、来年4月から、1日3回
       の犬の散歩を怠ると、最大500ユーロの罰金を支払うことになったとい
       う。1ユーロ=139.5円(2005.10.28現在)だから、犬に散歩をさせな
       い罪で約七万円も払わねばならなくなる。犬を飼うのにも勇気のいる
       時代になりそうだ。
        ボクたちは飼い犬というと、それを「ペット」と思う傾向があるが、
       世界はすでにその時代ではない。犬にも人格のようなものが認められ
       つつあるのだ。犬は人の社会に深く入り込み、様々に人間を助けてい
       る。しかるに、犬が一頭殺されても、罪は茶碗を割ったのと同じで、
       「器物破損罪」でしかない聞いたことがある。茶碗と違うのは、弁償
       する金額のみだとか。日本のこのような状態もいつかは変わっていく
       のだろう。
        ペットは、その呼び名を「コンパニオンアニマル」に変えたが、し
       かし、その名付け方には人間中心の考え方があるように思う。人間の
       コンパニオンとしての動物なのだ。動物そのものの権利を世界が真面
       目に考え始めるのを、ボクはじっと見つめていきたい。
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10/28   古稀のこと

        七十歳が古稀であると知っていても、また、それが杜甫の詩に関わ
       るのだと分かっていても、なかなかその詩のことまで知る人はいない。
       この際、難しい漢詩だが、紹介しておこう。詩の題は「曲江」である。

          曲  江      杜 甫

         朝囘日日典春衣
         毎日江頭盡醉歸
         酒債尋常行處有
         人生七十古來稀
         穿花■蝶深深見 (■は虫偏に「夾」)
         點水蜻蜒款款飛 
         傳語風光共流轉
         暫時相賞莫相違  

       (訓読)
        朝(ちょう)より回(かえ)りて日日(ひび)春衣を典(てん)し
        毎日江頭(こうとう)に酔(え)ひを尽くして帰る
        酒債は尋常、行く処に有り
        人生七十 古来稀なり
        花を穿(うが)つ■蝶(きょうちょう)は深深(しんしん)として見え
        水に点ずる蜻蜒(せいてい)は款款(かんかん)として飛ぶ
        伝語す、風光、共に流転して
        暫時(ざんじ)相賞して相違(たが)ふこと莫(な)かれと

       (訳)
        朝廷から戻ってくると、毎日のように春着を質に入れ
        いつも、曲江のほとりで泥酔して帰るのである
        酒代の借金は当たり前のことで、行く先々にある
        人生、七十まで長生きすることは滅多にないのさ
        花の間を縫って飛びつつ蜜を吸うアゲハチョウは奥のほうに見え
        水面に軽く尾を叩いているトンボは、ゆるやかに飛んでいる
        風光(自然)に伝えたい。そなたも共に流れて行くのだから
        暫くの間は、愛で合い、背くことのないようにしようではないかと

        着物を質に入れ、ふらふらになるまで酔っぱらった杜甫を想像した
       くはないが、そう書いてあるから仕方ない。杜甫にも面白くないこと
       があったのだ。杜甫は敗戦の責任を問われた宰相を弁護して、皇帝の
       怒りに触れ、朝廷へ出ても面白くない日々が続いていた。その心境で、
       「人は昔から、七十まで生きられる者はめったにないのさ。今を楽し
       まなきゃ」と言いつつ酒を飲むのだ。よほど辛かったのだろう。
        花を渡る蝶、水に遊ぶとんぼなどの風光こそを友のように思い、互
       いに背いたりすることのないように、と語りかけるのは少々切ない。
       人はともかく、自然は裏切らないのだ。
        しんみりした良い詩だが、ボクはこれを、川島英伍の「酒と涙と男
       と女」みたいだと思っている。杜甫もきっと、飲みつぶれるまで飲ん
       で、やがて眠ってしまうのだ。
        長寿の祝いの「古稀」が、ぐっと身近なものになったと思わないか。
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10/27   長寿

        還暦は満六十歳だという覚え方がある。ボクもそう覚えていた。し
       かし、いつしか「数え年の六十一歳」の方が正しいと思うようになっ
       た。人に話すと「同じことじゃないか」と言われる。確かに結果とし
       ては同じだろうが、考え方は同じではない。満年齢は「生まれた日」
       をスタートに考えるが、数え年はどちらかというと、「生まれた年」
       を起点にする。だから、満年齢と違って、正月が来ると、天下の人は
       すべて同時に一つ年を取るのだ。その時、人の誕生日をはっきり覚え
       ていなくてもよい。去年十歳だった子は、年が明ければ十一歳だとい
       う具合だ。考えてみれば、便利なものだ。
        還暦はゴールではなく、長寿の入口だ。日本の行く末を様々に危惧
       する声もあろうが、この国を造り守り続けたことを勲章に、今後いっ
       そうお元気で、どうか長生きしていただきたい。
        今後の通過地点たる年齢を示しておきたい。(数え年で示す)

       還暦(六十一歳)
        赤いちゃんちゃんこ、赤い頭巾、扇子、赤い座布団を贈る。
        別名を「本卦還り(ほんけがえり)」とも呼ばれる。

       古稀(七十歳)
        紫のちゃんちゃんこ、紫の頭巾、扇子を贈る。
        中国唐代の詩人杜甫の「人生七十古来稀なり」の詩の一節に由来。

       喜寿(七十七歳)
        紫のちゃんちゃんこ、紫の頭巾、扇子を贈る。
        「喜」の字の草書体が七十七と読めるところから名付けられた。

       傘寿(八十歳)
        黄色のちゃんちゃんこ、黄色の頭巾、扇子を贈る。
        「傘」の略字が「八十」と読めるところから。

       米寿(八十八歳)
        黄色のちゃんちゃんこ、黄色の頭巾、扇子を贈る。
        「八」「十」「八」を組み合わせると「米」の文字になるところから。

       卒寿(九十歳)
        黄色のちゃんちゃんこ、黄色の頭巾、扇子を贈る。
        卒の俗字「卆」が九十に通じるところから。「卒の祝い」とも。

       白寿(九十九歳)
        白色のちゃんちゃんこ、白色の頭巾、扇子を贈る。
        「百」より一つ少ないという意味から「白」の字が用いられる。

        古稀から後は、文字の遊びみたいなお祝いばかりなのが気にかかる。
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10/26   珍名さん

        「みょうじ」は漢字で「苗字」なのか「名字」なのか。「苗字」だ
       と読んでもらえない気がするし、「名字」と書くとものを知らないと
       思われる気がして使いづらい。どちらでも良いようなのだが。ううむ。
        今日は珍名さんを紹介したい。人名として使われる文字には制限が
       あるが、その字をどう読むかは全く自由であるので、読みのパターン
       は数知れず多い。極端な話が、「勝」と書いて「おとる」と読んだり、
       「上田」と書いて「しもだ」と読んでも、いっこう差し支えないとい
       うことである。
       
        苗字   読み
        小鳥遊  たかなし
        月見里  やまなし
        栗花落  つゆ   ついり  つゆり  つゆいり
        ヽ    しるす  しるし  とどむ
        ◯    まる   まどか

        小鳥が遊ぶのは鷹がいないからなので、「小鳥遊」は「たかなし」。
       月が見えるのは、周りに山がないからなので、「月見里」は「やまな
       し」。栗の花が落ちるといよいよ梅雨の始まりだ。「つゆいり」であ
       る。
        読むのに手間がかかる。なぞなぞのようだ。ひねりを加えてようや
       く読める。日本人は洒落が好きなのだろうか、と他の民族のこともろ
       くに知らないくせに、そう思う。
        ところで、「○」は漢字だっただろうか。これは記号だ。この苗字
       の人が実在するのかどうかについては、さらに調査が必要だ。「○」
       がOKなら、「△」も「□」も良いことになるからだ。果ては「!」
       なんてのも認められそうだ。読み方は「びっくりさん」が良いと思う。
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10/25   啄木の歌から

         愛犬の耳斬りてみぬ
         あはれこれも
         物に倦みたる心にかあらむ       (「一握の砂」より)

        芸術は危うい基盤の上に建てられた楼閣かと思わせる一首だ。誰も
       経験しなかった虚構を、読者自らの経験に取り込ませる力がある。足
       下からにじり寄って、「お前にも同じ衝動があったはずだ」と迫って
       くるのだ。実際そんな経験がなくても、読者は自らの感覚の中に啄木
       その人を見つけ出す。そうして啄木の境遇に自らを重ね合わせるのだ。
        この歌は、動物愛護協会が怒り出しそうな内容だし、何か暇だった
       からとか飽き飽きしたからという理由で耳を切られた犬にとってはと
       んだ災難であるが、心のもろさに共感する人は多かったのではないか
       と思う。しかし、共感したからと言って、小動物を虐待してもよいと
       いうことにはならない。そういうことの区別がつかない人が増えてい
       ることには、ため息以外に出るものがない。
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10/24   矯正という言葉

        秋になると、全国各地の刑務所により「矯正展」が行われる。罪を
       犯し、刑に服する人々が作った家具などの品物を展示販売するのだ。
       刑務作業による品は、品質が良く、何より安価であることから、大変
       評判が良い。そもそもがもうけを追求するものではないのだ。刑務所
       が刑務作業で金を儲けたとなれば、世論が黙っていまい。
        その「刑務作業」の趣旨は、次のように説明されている。(「刑務
       作業のご案内」ホームページより)

        ●規律ある生活態度及び共同生活における自己の役割・責任の自
         覚を助長します。
        ●技能の習得により円滑な社会復帰を促進します。
        ●心身の健康を維持し,勤労精神を養成します。

        要するに刑務作業は「服役者のため」のものなのだ。刑期を終え、
       無事、社会復帰を果たすための訓練なのだ。全国の矯正展には、そこ
       で生み出された力作が出品されるわけだ。
        しかし、ボクはこの「矯正展」の名称になじめない。呼び名を変え
       ればいいのにとまで思っている。「矯正」とは、「欠点などを正しく
       改めさせること。まっすぐに直すこと(「大辞林」)」の意味であるが、
       これは受刑者の立場からの言葉ではない。受刑者を取り囲む周囲の者
       が付けた名称であり、社会の厄介者に職を与えてやるという意識と冷
       たい視線を感じる。自分の作品が出品される展覧会が「矯正」を目的
       としたものだと言われて、受刑者は意欲的になるだろうか。
        矯正展の歴史はよく知らないが、この秋開催される矯正展に開催年
       次を明らかにしたものとして「第二十九回ひろしま矯正展」とあるの
       が一番古いようだから、少なくも二十九年前には始まっていたことが
       分かる。今ほど「受刑者の人権」が意識されなかったころのことだ。
        今年開催される矯正展は全国に六十九か所。「矯正展」の名前が付
       いたものばかりだ。しかし、次の四か所は、名称を変えている。

       ・府中刑務所文化祭(府中)・ハーバーランド即売会(神戸市) 
       ・鶴見即売会(横浜市)・呉地区刑務所作業製品展示即売会(呉市)

        府中では堂々と「文化祭」だ。こういうところにボクは祈りと
良識
       を感じる。
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10/23   花

        三番も素晴らしい。

         錦織りなす 長堤に
         暮るればのぼる おぼろ月
         げに一刻も 千金の
         眺めを何に たとうべき
        
        ここで「おぼろ月」が歌われているが、みなさんはこの月の形をど
       のように想像されよう。三日月か、半月か、はたまた満月か、どれに
       一番近いだろうか。
        ボクはこう思う。日の暮れるのと同時に昇る月だとしたら、「月は
       東に日は西に」の状態になる。つまり、地球をはさんで月と太陽とが
       ほぼ百八十度の位置に来るわけだ。となると、月の形は「満月」に近
       いと結論づけられる。その日が「春分の日」に近ければ、ますます満
       月に近いと言える。
        春、いよいよ辺りが暗くなってきたころ、暮れ六つの鐘と同時に昇
       るのは、おぼろ満月。長堤の桜並木を、下駄をころんころん言わせて
       歩くのだ。まさに「春宵一刻値千金」ではないか。
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10/22   花

        二番も素敵だ。

         見ずやあけぼの 露あびて
          われにもの言う 桜木を
         見ずや夕暮れ  手を伸べて
          われさし招く  青柳を

        「見ずや」とは、今の言葉では「見なくていいの?」といったとこ
       ろか。「見るべきだ」と言いたいとき、こんな言い回しをする。「反
       語法」というやつだ。「あけぼの」も「夕暮れ」も見る価値があると
       言っているのだ。
        ん?これは「枕草子」だ。清少納言は、「春はあけぼの」「秋は夕
       暮れ」と言っているが、武島羽衣は、春はそのどちらもいいと言うの
       だ。彼が川端をゆるゆる歩き、桜にも柳にも語りかける姿が目に浮か
       ぶ。いや、そんな姿が本当に見える気がするのだ。彼が「われにもの
       言う」とか「われさし招く」と表現したのは、擬人法を使いたかった
       からではなく、本当にそんな感覚を持っていたからではないかとさえ
       思う。
        受験生の知恵としては、「見ずや」は「反語法」である。その「見
       ずや」が、実は、「桜木を−見ずや」「青柳を−見ずや」の述語が先に
       来た「倒置法」の形だ。そして、前半と後半とは、見事な「対句」を
       なしている。「擬人法」については先に述べた。短い歌詞に古典の知
       恵がぐぐっと詰め込まれた「二番」である。こんなに優れた教材がほ
       かにあろうか。時代の流れに埋もれさせたくない。
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10/21   花

        武島羽衣の詞に滝廉太郎が曲を書いた「花」は、なんと言っても春
       にふさわしいが、春でなくとも歌いたくなる名曲だ。

         春のうららの  隅田川
         上り下りの   舟人が
         櫂のしずくも  花と散る
         眺めを何に   たとうべき

        うららかな春を軽やかに歌うのにふさわしい見事な七五調ではない
       か。ボクは「隅田川」という遠景から「舟人」にズームインし、さら
       に「櫂のしずく」に集まった意識が、「花と散る」の一言で全景に調
       和すると見た。どこを見ても「花」なのだ。
        ところで、ボクは子どものころ、「上り下りの舟人が」まで歌って、
       その続きに舟人が何をするのかと思うと、話は「櫂のしずく」に行っ
       てしまって、置いてけぼりをくった感じを受けたものだ。「舟人
       が主語を表すと感じたからだ。「舟人がどうしたんだよう」とは、ボ
       クだけの感覚ではあるまい。
        この「が」は、「舟人の」と言い換えられる種類の「が」なのだ。
       「上り下りの舟人櫂のしずく」である。ならば初めからそうすれば
       いいのにとも思ったが、この作詞者はそうはしなかった。なぜだろう
       か。
        ふとボクは、この歌詞に「の」が多用されていることに気がついた。
       歌い出しの「春の」から四か所もある。ここに「舟人の」が加わると、
       それはそれは眠気の差す歌詞になってしまう。これは「の」ではいけ
       ない。「が」にするべきなのだ。
        意味を保ち、優しい感じを崩さずにアクセントを付ける、絶妙の感
       覚と知恵が生きた歌詞だと思う。
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10/20   喫煙は病気

        北アイルランドではパブでも再来年春から禁煙となるらしい。「煙
       が立ちこめる酒場」というイメージは過去のものとなるのだ。他国の
       ニュースながら、大歓迎である。しかし、実施の時期が「再来年」と
       いうところがのんびりしている。すぐに実施できないところにタバコ
       問題の複雑さがあるのだ。急性の毒でもなく、社会に定着したタバコ
       は、規制が難しい。
        だいたい、多くの人が「健康に良くないが、たかがタバコ」と考え
       ているのが甘い。「禁煙なんて簡単。あの人だって禁煙した」と言う
       だろうが、たぶんその人は、タバコで体を壊して禁煙したのだ。自分
       の意志でタバコを断つのは難しい。その意味で、「現在自らの健康に
       不安はないが、周りの人のためにタバコをやめた」という禁煙こそ、
       最も価値がある。
        さて、昨日のニュースによれば、日本循環器学会など9学会からな
       る合同研究班は、たばこを吸うことは「病気」で、「喫煙者=患者」
       と規定し、「積極的治療が必要」とする診療指針をまとめた。もはや
       喫煙者は「自分の判断で吸っている」と考えるべきではない。「タバ
       コに吸わされている」と自覚すべきだろう。
        禁煙を指導すべき医者も禁煙が課題だ。特に男性医師の場合、27パ
       ーセントが喫煙しているという結果が出ている。「医者の不養生」と
       はこのことだ。

        ところで、最近、JT(日本たばこ産業株式会社)は、次のような発
       表をしている。

         昨今、一部報道機関におきまして、たばこのフィルター材料とし
        てアスベストが使用されていたとの報道がなされております。(中
        略)弊社が使用するフィルターには、パルプ及びパルプを原料とし
        たアセテート繊維を使用しており、アスベストを使用したという事
        実は全くございません。

        危険なアスベストは使用していないと言いたいのか。安全宣言だろ
       うか。(興味のある人はこちらも見てほしい)
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10/19   鳴かぬなら

        日本の三英傑の言葉として伝えられる「鳴かぬなら」を並べると、
       それぞれの人柄が分かるという。

        鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス    織田信長

        鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス  豊臣秀吉

        鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス   徳川家康

        短気な信長、実力派の秀吉、苦労人にして策士の家康……。いかに
       もその人らしい台詞である。しかし、日本の歴史を習った人は、こう
       いうことを三人が実際に言ったと受け止めているのではなかろうか。
        夢を砕くようで申し訳ないが、これらは、後の世の誰かが面白がっ
       て作ったに違いないのだ。都合良くこんなことを言うわけがない。だ
       いたい、「殺してしまえ」も「鳴かせて見せよう」も「鳴くまで待と
       う」も、すべて現代語だ。原文を見せたまえ。
        しかし、信長が「殺してしまえ」と言ったというとらえ方は、いか
       にもひどい。これでは信長が単に冷徹な人物であったかのようだ。彼
       が旧弊を破った革新的な人物であったことは、誰もが知るところでは
       ないか。天下を取った家康に比べて信長が劣っていたとか言いたい人
       に都合の良い内容となっているのが臭いと思う。
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10/18   紫陽花は「あじさい」と読む。しかし、「紫陽花亭」というラーメ
       ン屋があるとまでは予想しなかった。北九州市に実在するのだ。イン
       ターネットで見つけたのだが、おいしそうな醤油ラーメンの画像が表
       示されていた。しかし、いかにおいしくても、「味最低」とはこれい
       かに。
        さらに調べてみると、ラーメン屋以外にも紫陽花亭は存在した。し
       かし、こちらは、「『味最低』という洒落を含み、謙遜を表します」
       と堂々と由来を表明している。わざとそんな名前を付けたのだ。
        北九州の「紫陽花亭」が、うっかりして付けてしまった名前であっ
       てほしいと思うのは、意地悪だろうか。ボクは「紫陽花が好きだった
       から付けました」というコメントを聞くために、いつか北九州市に行
       こうと思っている。
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10/17   今日は伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)である。戦前は祝祭日だっ
       た。皇室の大祭で、その年に穫れた新米で造った御酒と神饌(稲・米
       ・餅・魚・鳥・蔬菜・果実・塩・水などの供物)を伊勢神宮に奉る儀
       式である。かつては旧暦9月11日に勅使に御酒と神饌を授け、9月17
       日に奉納していたが、明治12年(1879年)以降は月遅れで10月17日に行
       われるようになった。
        伊勢神宮と言えば思い出すのが、「正式名称は単に『神宮』である」
       というミニ知識。他の「神宮」と区別するために「伊勢神宮」と呼ぶ
       ことが多いが、「伊勢」は付けないのが本当だという。つまり、日本
       各地の「神宮」の本家と考えればよかろう。

        伊勢は津でも    起
        津は伊勢でも    承
        尾張名古屋は     転
        城でも       結

        ボクはこの都々逸を、起承転結のお手本の一つだと思う。内容の構
       成もさることながら、押韻がきちんとしているのに感心する。漢詩の
       押韻と共通しているではないか。転句だけを外すあたりは、まるで七
       言絶句のようだ。
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10/16   「すき焼き」は「好き焼き」だ。おいしい肉、おいしい豆腐、おい
       しいネギやら白滝やらを盛大に鍋に入れてぐつぐつ作るのだ。今日は
       すき焼きだと聞けば、何歳になっても胸が躍る。そんなわけで、ボク
       は、結構大きくなるまで「好き焼き」だと思っていた。だから、「実
       は鋤焼きである」と知った日のショックは大きかった。曰く、かつて
       「鋤」の金属部分で肉を焼いていたことから「鋤焼き」と言うのだと
       か。事の真偽は別として、ボクはせっかくの牛肉を鋤の上なんかで焼
       きたくはない。上等のお肉ならなおのことだ。ボクはこのネーミング
       の由来に納得していない。
        調べてみると、日本人が牛肉を食べていた期間は短くて飛び飛びだ。
       その昔、仏教の伝来がまず「肉食」を禁じた。これが、戦国時代にキ
       リスト教が広められるとともに復活したが、江戸時代になると、徳川
       光圀が再び禁止した。その後は長い間、一部の人を除いては、食べて
       いないのだ。
        明治になると、仮名垣魯文(かながきろぶん)の「安愚楽鍋」に「牛
       肉食わねば、開化不奴」と書かれるなどして、「牛鍋」はずいぶん一
       般化する。どうも、これがすき焼きの祖先であるらしい。
        いやいや、どこに「鋤」が介在しているのか、まるで分からない。
       最初のすき焼きがどんなものだったか、知っている人は教えてほしい。
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10/15   信念は変えたくない

        かく言う政治家がいた。苦しい立場に身を置いて、自らの思想の正
       しさを信じる者の弁として、潔く耳に響く言葉である。かく仰せなら
       ば、ぜひ信念を守り通していただきたい。
        しかし、このような言葉にも歯切れの悪さを感じてしまうのは、ボ
       クの良くない癖だろうか。あえて批判を承知で言おう。「変えたくな
       い」と言うのは、すなわち「変えそうなとき」なのである。さもなけ
       れば、いかに苦しくとも、「信念は変えない」と言うはずである。変
       えてしまってから、「いやあ、変えたくなかったんだけど、変えざる
       を得なくて」と責任を周囲に押しつける姿勢が言葉に出ている。
        ついでに苦言を呈すれば、だいたい「信念」とは変わらないものだ。
       変わるようなものならば、それは「信念」ではない。人前で「このた
       び、信念を変えました」と言う人もそうはいないだろう。
        あくまで変えない信念にも、どうしても貫き通せないこともある。
       そんなときは、「信念は曲げたくない」と使うべきだ。政治家なんだ
       から、よく研究して発言してほしい。
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10/14   ながら

        言葉の意味は年齢とともに解るようになってくる。年を取るのも悪
       くない。今日は「ながら」について考えた。

       1.歩きながら食べる
       2.悪口を言われながら、少しも怒らない
       3.リンゴを皮ながら食べる

        ボクたちが「ながら」を覚えるのは、「1」のパターンからではない
       だろうか。二つの動作が並行して行われる場合に「ながら」を使って
       表すのだ。だから、大人が「3」のように使うのはすんなり受け止めら
       れず、何か気になっていた。「2」にしても、「悪口を言われつつ怒ら
       ない」と強引に理解しようとしていた。
        ところが、それは少し違うなと最近思い始めたのだ。「ながら」が
       表すのは、単なる両立ではなく、「両立されるはずがないのに成立し
       た両立」なのだ。この言葉には、両立してしまったことへの驚きや違
       和感が隠されている。先の例をもう一度引けば、次のようになる。

       1.歩きながら食べる=歩いているのに食べる
       2.悪口を言われながら怒らない=悪口を言われている
のに怒らない
       3.皮ながら食べる=皮がついている
のにそのまま食べる

        こう考えると、「ながら勉強」とは、単に「ほかのことをしつつ勉
       強する」ことでないことが分かる。「同時にしてはいけないことをし
       ている」場合が「ながら勉強」なのだ。
        ふと、夏目漱石の「我が輩は猫である」の一節が頭をかすめた。主
       人公が敬愛する友人白君が四匹の子を産んだところ、四匹すべて人間
       に捨てられたというくだりだ。

        ところがそこの家の書生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って
       四疋ながら棄てて来たそうだ。

        まったく、四匹のうち一匹でも生かしておいてくれても良かろうに、
       そんな配慮も容赦もなく、すべて捨てられた、という悲しみが「なが
       ら」にある。納得できない、理不尽であるという思いだ。
        総じて言えば、「ながら」はおおよそ、「なのに」と言い換えられ
       るのだ。我ながらよく考えたと思う。
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10/13   十二日付の中日新聞32面に次のような「訂正」が載せられていた。

         4日付朝刊20面「離婚と年金分割」で、妻が厚生年金に加入して
        いるケースのイラスト中、「Cは(A+B)の2分の1以内」と記
        されていますが、「(A−B)」でした。記事中「妻の報酬比例分
        を足した」とあるのは「引いた」でした。また、「離婚時に三号被
        保険者であること」とあるのは「結婚中に」でした。

        訂正記事はいつも片隅におかれているが、今回もそうだった。ベタ
       記事に並べてひっそりと配置されている。内容に目を通さない人も多
       いここと思う。それにしても、訂正多すぎ。
        年金関連は難解で、「はっきり分かる人はいない」と言われるほど
       複雑だ。だからこそ、「何とかしましょう」ということで本記事が特
       集されたのだろうが、それまでは分かっていた人をも混乱させる間違
       いぶりではないか。公共に物を申すことの難しさを、自ら示すことと
       なってしまった。執筆した人、校閲した人、担当のチーフその他、さ
       ぞ社内で恥ずかしい思いをしたことと思う。
        読者の中には、訂正記事を読まずに人に話して、結局恥をかいてし
       まう人もいるかも知れない。なにせ、新聞に書いてあったのだから。
       「災害で何名亡くなった」とかの緊急報道でもないから、不手際のそ
       しりは免れない。言い訳は効かない。あれこれ考えたが、これは「訂
       正」ではなく、もう、「お詫び」として紙面に載せるべきだったと思
       う。
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10/12   命あっての物種

        この言葉の最後の「ものだね」が、なれなれしいと思ったものだ。
       そう、「命あっての物だネ」と思ったのだ。しかし、これは、「何事
       も生きていればこそできる。死んでは何にもならないということ。命
       が物種(『大辞林』第二版)」という意味の言葉だった。なお、「物
       種」の意味は、「物のもととなるもの。物事の根元」である。
        これをもじった言い方が、「畑あっての芋種」である。「命あって
       の物種」に続けて言う人も意外に多くいるようだ。ふうん、と思いな
       がら、大して面白いとも感じなかった。そんなに面白いだろうか。
        そんなことを思っているうちに、意外な人の俳句に出くわした。

        命こそ芋種よまた今日の月       

        これは芭蕉の作である。寛文年間、芭蕉は十八歳から二十九歳。伊
       賀上野から江戸移住初期の作だ。名前もまだ「芭蕉」ではなく、「宗
       房」のころだ。「こんな名月を眺められるのも、命あってのことだ。
       その命は芋から授かったようなものだ」という意味合いか。「今日の
       月」は秋の季語で、旧暦八月十五日の満月を指す。この月は、別名を
       「芋名月」というから、掛詞になっている。だから、「芋を食べ続け
       たおかげで今年も芋名月が拝めてうれしい」という内容かと思う。
        芭蕉の句であればすべて素晴らしいというのは思いこみだ。この句
       のようにおかしみをねらった句もあるのだ。芭蕉も若かった。
        しかし、この時期の芭蕉がいなかったら、後の芭蕉はあったのだろ
       うか。そう思うと愛しくも楽しい句ではないか。
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10/11   国語辞典を引いた。「めす」に「雌」「牝」の二字があり、「おす」
       に「雄」「牡」の二つが用意されているのはなぜか、気になったからだ。
       思えばきちんと調べたこともなかった。どう調べたものかと思ったが、
       これらの文字が含まれる熟語にきっとヒントが隠されていると直感し
       た。

        牡 おうし   【牡牛】     おうま   【牡馬】
          おじか   【牡鹿】

        牝 うなめ   【牝牛】      ひんぎゅう 【牝牛】
          ひんけい  【牝鶏】      ひんば   【牝馬】
          ひんぼ   【牝牡】      めうし   【牝牛】
          めうま   【牝馬】     めぎつね  【牝狐】
          めじか   【牝鹿】  
  
        雄 おうし   【雄牛】     おうま   【雄馬】
          おおしい  【雄雄しい】   おかぶ   【雄株】
          おぎ    【雄木】     おしだ   【雄羊歯】
          おしべ   【雄蕊】     おだけ   【雄竹】
          おちょう  【雄蝶】     おとり   【雄鳥】
          おばち   【雄蜂】     おばな   【雄花】
          おひしば  【雄日芝】    おひるぎ  【雄蛭木】
          おまつ   【雄松】     おらん   【雄蘭】
          おんどり  【雄鳥】
  
        雌 しか    【雌花】     しずい   【雌蕊】
          めうし   【雌牛】     めうま   【雌馬】
          めがい   【雌貝】      めかぶ   【雌株】
          めがるかや 【雌刈萱】     めぎ    【雌木】
          めごち   【雌鯒】      めしだ   【雌羊歯】
          めしば   【雌芝】     めしべ   【雌蕊】
          めだけ   【雌竹】     めちょう  【雌蝶】
          めとり   【雌鳥】      めとり-ば 【雌鳥羽】
          めばな   【雌花】      めひしば  【雌日芝】
          めひるぎ  【雌蛭木】     めまつ   【雌松】
          めんどり  【雌鳥】

        「牡」と「牝」の字は、牛、馬、鹿、狐、鶏に用いられ、「雄」「雌」
       は、これらに加えて、鳥や虫、貝、そして植物にも用いられている。
       (「めごち」というのは、若魚はすべて雄で、成長につれて、雌雄同
       体から雌へと性転換をするというややこしい魚だが、名前は雌が代表
       している。)
        さらに調べてみると、こうした使い分けのルールは、文字そのもの
       に理由があった。「旺文社漢和辞典(第五版)」によれば、これらの違
       いは次の通りだ。

        牡……おす牛、ひいて、ひろく動物の「おす」の意。
        牝……牛のめす、ひいて、ひろく動物の「めす」の意に用いる。
        雄……おすの鳥、ひいて、「おす」の意を表す。
        雌……鳥のめす、ひいて「めす」の意を表す。

        「牡」「牝」の項にあった「動物の」の語が、「雄」「雌」にはない。
       なるほど、大まかにはそういうルールがあったのか。最初から漢和辞
       典を見れば良かった。
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10/10   助長

        この言葉の使い方が納得できない。良い意味なのか、悪い意味なの
       か、さっぱり分からない。そもそも、出典たる「孟子・公孫丑・上」
       には、次のように示されている。

        宋人有閔其苗之不長而堰之者。
        芒芒然歸、謂其人曰「今日病矣、予助苗長矣」
        其子趨而往視之、苗則槁矣。

       → 宋の国に、畑の苗がなかなか大きくならないのを心配して、早く
        大きくしようと一つ一つ引っ張った者がいた。疲れ切って家に帰り、
        家族に向かって言うには、「今日は疲れてしまったよ。苗が伸びる
        のを助けてやったんでね。」聞いた息子が驚いて畑に行ってみると、
        苗はすっかり枯れていた。

        つまり、「助けようとして却って損ねる」が本来の意味なのだ。こ
       の話のお父さんも、苗を枯らそうと思って引いたわけじゃない。伸ば
       そうとしたのだ。悪い人じゃないけど、方法が悪かっただけだ。
        さて、この言葉の意味は、現代では次のようになっている。

       じょちょう【助長】名・ス他
         
能力を伸ばすように助けること。また、傾向などが著しくなるよ
        うに力を及ぼすこと。「弊害を―する」
                         (「岩波国語辞典」第五版)

       じょちょう ―ちやう 【助長】(名)スル

       (1) 力を添えて、
成長・発展を助けること。ある傾向をさらに著しく
         すること。
「発言力を―する」「不良性向を―する」
       (2) 〔苗の生長を助けようとして、無理に引き伸ばし、根を抜いてし
         まったという「孟子(公孫丑上)」の故事から〕不要な助力をし
         て、かえってそこなうこと。      (「大辞林」第二版)

        どちらの辞書も、「良い方向に伸ばす」意味を載せている。ボクは
       どうもしっくり来ない。歴史のどこかで意味が取り違えられたのか、
       もともと「援助」の意味があったのか。いずれにしても、新聞に「公
       共事業を助長する」とあっても、「無駄な公共事業ということか」と
       文句が言えないことになる。しかし、ボク自身はこの言葉を良い意味
       で使うことは避けたいと思っている。ほかに「推進」や「奨励」とい
       う言葉を知っているから、それを使えばよいのだ。
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10/9    今日は「世界郵便デー」だ。1874年の今日、「万国郵便連合」が結
       成されたことに由来し、世界郵便デーとしての制定は1984年のことだ。
       次に示すのはこの連合の憲章の一部である。

       第1条 連合の範囲及び目的
        [1]
この憲章を採択する諸国は、通常郵便物の相互交換のため、万
          国郵便連合の名称で、
単一の郵便境域を形成する。継越しの自
          由は、連合の全境域において保障される。
        [2]連合は郵便業務の組織化及び完成を確保し、かつ、この分野に
          おいて国際協力の増進を助長することを目的とする。
        [3]連合は
加盟国が要請する郵便に関する技術援助にできる限り参
          加する。

        万国郵便連合結成の志に感動を禁じ得ない。[1]に見るように、連
       合は、「郵便で世界を一つの地域にしたい」との願いから生まれたの
       だ。連絡を取ろうにも手紙一つ届かなかった地域同士が、連合への加
       入によって結ばれるのだ。また、技術的に遅れている国への「技術援
       助」を進めようとする姿勢が[2]に示されているが、こういう精神こ
       そが真に世界をつなぐエネルギーになるのだ。
        日本の加入は1877年(明治10)だ。この年、西南戦争が勃発している
       ことを付記しておきたい。このような大規模の国内の擾乱と同時期に、
       海外への夢を形にする動きがあったことを思いやりたい。
        秋は深まる。たまには電子メールをやめて、「郵便」で葉書でも出
       してみようか。
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10/8    「言い換え語」について、もう一つ言っておきたいことがある。そ
       れは、言い換え語を提案する外来語委員会が、「分かりにくい『外来
       語』について言葉遣いを工夫し提案すること」を活動目的とすること
       に関わっている。
        次の言い換え語例をよく見てほしい。

        カスタムメード     受注生産
        ソフトランディング   軟着陸
        リードタイム      所要時間
        リユース        再使用
        レシピエント      移植患者
        アミューズメント    娯楽
        クライアント      顧客
        ハイブリッド      複合型
        サプリメント      栄養補助食品
        リリース        発表

        難しい外来語を言い換えたはずの「言い換え語」のなんと平明なこ
       とか。いや、これらは「言い換え語」などではなく、以前から日本で
       使ってきた言葉ではないのか。考えてみれば、元々あった日本語を外
       来語にわざわざ呼び換えてきた流れがあるのだ。
        「新曲を発表した」よりも「新曲をリリースした」の方が、歌手の
       イメージが若々しく思える。また、パチンコも「娯楽」だと言ってい
       ると女性客に敬遠されるが、「アミューズメント」と表現することで
       汗臭さやヤニ臭さを軽減している。「遊園地」だって、「アミューズ
       メント・パーク」と言う方が夢がある。だいたいカタカナ言葉は格好
       がいいのだ。すでに開発が進み、熟成の域にある「ハイブリッド・カ
       ー」にしても、今さら「複合型車」と呼ぶのは抵抗がある。何の複合
       なのかがとたんに不透明になる上、未来的ではないからだ。ボクたち
       が「ハイブリッド・カー」と呼ぶとき、それは「電気」と「ガソリン」
       の複合であることをすでに示しているのだ。
        「野暮ったい表現に囚われていないで、新鮮な印象の言葉をどんど
       ん使っていきましょう」というのがこの国の言葉の流れである。言い
       換えの提案も四年目だが、初年度の言い換え提案は果たして受け容れ
       られたと言えるだろうか。(→PDF版FLASH PAPER版
        定着した(これも定義が難しいが)外来語を言い換えることは、民
       意に一致しないと思うのだ。
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10/7    国立国語研究所「外来語」委員会は10月6日付で、「外来語の言
       い換え」を提案している。この提案は、今年で4回目になる。今回の
       提案は次のようなものだ。   (→ 詳細 PDF版FLASH PAPER版

        対象の言葉       言い換え語
       ★☆☆☆
        アクセシビリティー   利用しやすさ
        オーガナイザー     まとめ役
        オーナーシップ     (1)所有権 (2)主体性
        オフサイトセンター   原子力防災センター
        カスタムメード     受注生産
        コージェネレーション  熱電併給
        コンポスト       たい肥 生ゴミたい肥化装置
        サムターン       内鍵つまみ
        センサス        大規模調査
        ソフトランディング   軟着陸
        デポジット       預かり金
        ナノテクノロジー    超微細技術
        ネグレクト       (1)育児放棄 (2)無視
        バイオマス       生物由来資源
        ビオトープ       生物生息空間
        フリーランス      自由契約
        リードタイム      所要時間
        リターナブル      回収再使用
        リデュース       ごみ発生抑制
        リユース        再使用
        レシピエント      移植患者
        ワンストップ      一箇所
       ★★☆☆
        アミューズメント    娯楽
        クライアント      顧客
        ハイブリッド      複合型
        ヒートアイランド    都市高温化
        ワークシェアリング   仕事の分かち合い
       ★★★☆
        オペレーション     (1)公開市場操作 (2)作戦行動
        サプリメント      栄養補助食品
        トラウマ        心の傷
        ドナー         (1)臓器提供者 (2)資金提供国
        バイオテクノロジー   生命工学
        メディカルチェック   医学的検査
        リバウンド       揺り戻し
        リリース        発表

        これらは、どの年代の人にも分かりよい表現とは言えないので、公
       共性が強い場面での言い換えが提案されたものだ。「★」の数は国民
       四人のうち何人まで理解しているかを示している。ニュースでおなじ
       みの「ナノテクノロジー」「アミューズメント」などの言葉も、意外に
       理解度が低いことが分かる。
        眺めていて気づくのは、「はっきり解らないけど、たぶんこんな意
       味じゃないかな」とおそるおそる使ってきた自分自身の存在だ。言い
       換え後の表現を見て、安心したり、後悔したり。「バイオマス」なん
       て、「バイオ鱒」だと真剣に思っていたから、言い間違えた数々の場
       面を思い出して赤面するボクだ。(「ぎふ中部未来博」のバイオテクノ
       ロジーのコーナーで三倍体のイワナやマスを見たのがいけなかったと
       と分析する。)
        「バイオテクノロジー」「トラウマ」など、せっかく覚えた言葉が、
       今になって言い換えられているのも悲しい。「リバウンド」も、これ
       からは「揺り戻し」が一般化していくのだろうか。「せっかく痩せた
       のに、揺り戻しがひどくって」と言うのもどうかと思う。体の肉まで
       ぷるぷると揺れているようだ。
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10/6    学生時代、「昨日」のことを「きのう」と発音して笑われた。田
       舎臭いそうだ。大学は山梨県にあったから、「言うなら『きのう』と
       言わねえと、田舎者みたいじゃんねえ」と丸出しの甲州弁で言われた
       のは忘れられない。しかし、「きのう」が「きんのう」ではおかしい
       のだろうか。母国語を否定されたようなショックがあった。
        考えてみれば、「ないはずの『ん』を補う」現象は、都会の日常に
       も入り込んでいる。

        人に呼ばれて振り向くと……なにも 「なにも」では冷たい
        くるりと輪を描いて飛ぶ……とび  「とび」が正しいはず
        あぜ道走って滑って転ぶ……たぼ  「田圃」のどこに「ん」が?
        一人じゃないんだ……………みな  「みな」でいいのに
        先が鋭くなっている…………とがる 「とがる」でしょ

        中には辞書にも載るようになったものもあって、「真ん中」は市民
       権を勝ち得ている。これを「まなか」とか発音したのは過去のこと。
       永井荷風(1879−1959)が「あめりか物語」(1908年)で「水の真中に
       直立する自由の女神像」と使っているとだけ言っておこう。
        思うに、「ん」を入れるのは、社会人としては抵抗がある。「皆」
       は「みな」であって「みんな」ではない。「鳶」も「とび」だ。中に
       「ん」を入れるのは、子どもの世界によくあることではないだろうか。
       ないはずの「ん」を入れると可愛く聞こえてしまうのだ。可愛いのが
       似合っていると自認する人だけ使えばよかろう。
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10/5    ボクの知り合いに「一二三(ひふみ)」という名前の人がいる。数字
       でできた名前は珍しいので忘れられないが、苗字が数字ばかりという
       人もいるようだ。一例を紹介しよう。(読みは「ctrl+A」で確認)

        一     にのまえさん
        二     わかるさん
        七五三   しめさん
        九     いちじくさん
        十     みつるさん
        九十九   つくもさん
        百百    とどさん
        百万    ひゃくまんさん
        四月一日  わたぬきさん 
        八月一日  ほずみさん

        なるほど、「一」は「二の前」なのだ。次の「二」は、二つに「分
       かる」から来ているようだ。その次は、「しめ」だ。「注連縄」の方
       が知られているが「七五三縄」と書くと「しめなわ」と読むのを思い
       出した。「九」と書いて「いちじく」と読むのは、一字で「く」と読
       むからであろうか。子どものナゾナゾみたいな名前で愉快だ。
        「四月一日」は「衣替え」である。この日には綿入れの着物から綿
       を抜き、袷(あわせ)にしたため、「わたぬき」と読むようだ。「四月
       朔日」とも書く。しかし、そんな風習がなにゆえ苗字になっているか
       までは分からない。
        「八月一日」とは、旧暦の八月一日のこと。そのころは、稲穂も垂
       れて収穫が始まる時であることから「穂積=ほづみ」になったという
       ことだ。新暦では九月十日頃になる。収穫には少々早くないかと思っ
       たが、山間部はどうかが気になった。調べてみると、岐阜県飛騨市、
       旧大野郡荘川村にもこの苗字が見られることが分かった。飛騨地方で
       はこの頃になると粟や稗などの穂が実り、収穫が行われる。このこと
       から、八月一日と書いて、「ほづみ」と呼んでいたようなのだ。
        荘川といえば、避暑地である。平野部よりも秋の訪れは早い。秋の
       訪れを肌で感じつつ、収穫に感謝する趣を、ボクはこの苗字に感じて
       いる。
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10/4    「お茶」とひとくくりに言うけれど、それには様々な種類があって、
       きちんと呼び分けないと通じない。「一緒にお茶でもどうですか」と
       言うのでついていったら、お茶は出ないでコーヒーが出たということ
       もある。コーヒーでなければ紅茶ということも。この国では、本当に
       「お茶」が飲みたいときには、「日本茶」と言わねばならないのか。
       しかもボクは、ほうじ茶だの麦茶だのといった焦げた匂い(人はそれ
       を香ばしいという)のタイプのお茶はダメなので、「日本茶」ではあ
       いまいだと言える。きちんと「緑茶」と言わねばならない。
        しかし、「日本茶」という言い方はどうなのだろう。単に「お茶」
       と言うだけではダメなのか。他にいろいろ種類があるからといって、
       元々あったものを呼び換える必要はあるのだろうか。         
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10/3    国勢調査が法令に基づいて実施された。五年ぶりである。間違いの
       ない記入のために「調査票の記入の仕方」という手引きがついてきた。
        まず「黒の鉛筆で書くこと」と指示があり、以下、住宅の床面積の
       合計の方法やら世帯員の続柄をどう書いたらよいのかなど、細かなこ
       とがたくさん載せられていた。どうにかきちんと書き終えることがで
       きたが、国民すべてが同じように書けたとは思えない。
        その「記入の仕方」の中に、調査日の直前に生まれたため名前が決
       まっていない新生児をどう記載するかについて、説明があった。「命
       名前」と書くのだそうだ。全国統一のルールである。なるほど、「命
       名前」は、「名前はまだない」ことの印ということだ。考えてみれば、
       命名式が済み役所に届け出があるまでは、自分にも「命名前」の期間
       があったはずだ。

        時空を越えた兄弟たちがいることを感じた次第だ。

       (本稿を書き終えたあとで、「命名前」とは、「いのちなまえ」では
       なく、「めいめいまえ」と読むのだと気づいた。ボクの原稿で読み間
       違いをしてしまった人は、感覚がボクと同じである。)
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10/2    日本人は人を方向で呼ぶと書いたばかりだが、身分の高い人のこと
       は、住んでいる場所の名前でも呼ぶ。「殿様」「宮様」「坊様」「奥様」な
       ど、その人がどこに住んでいるかがそのまま呼び名になっている。
        「殿様」は「御殿」に住み、「宮様」は「宮城」においでになる。
       「坊様」は寺の「坊」に寝起きし、「奥様」とはあくまで家の「奥」
       にいるお方である。外出ばかりしていると、その名を返上せねばなら
       ない。
        そう言えば、ボクの母など、寺に嫁に来たばかりに「お庫裏さん」
       と呼ばれていた。庫裏(=寺の台所)を預かっていたので、親しみと敬
       意を込めてそう呼ばれたのだ。母がそう呼ばれるのを初めて聞いたの
       は、ボクが小学生のころだが、その時は、母の本名は「クリ」だった
       のかと勘違いして、慌てて母に真偽を確認したものだ。
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10/1    あなた

        「あなた」を漢字で書けとなると、「貴方」「貴女」「貴男」などが思
       い浮かぶが、「彼方」が候補に挙がった人はえらい。「彼方」は「か
       なた」とも読むことは周知の通り。要するに自分とはかけ離れた遠く
       尊い存在という持ち上げ方なのだ。

        さて、これに関連した次の熟語が読めるだろうか。(答えを見るに
       は「Ctrl+A」を押す)

        此方 (こなた・こちら) 
        其方 (そなた・そちら)
        何方 (どなた・どちら)

        こういうことだから、「彼方」が「あなた」とも「あちら」とも読
       めることもご理解いただけるだろう。日本人は人のことを直接呼ぶこ
       とを避け、「方向」で呼んでいたのだ。「どちら」に「様」をつけて、
       「どちら様」と言うように、方向で表すことには、相応のの敬意が含
       まれている。「そちら様は」と言うことに冷たさや素っ気なさを感じ
       て、「そちらの方は」と言葉を選ぶのも、方向を大事に使った細やか
       な心そのものだと思う。
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     過去文 2003年   2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
         2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月