「奥山に猫またといふものありて、人をくらふなる」と、人のいひけるに、「山ならねども、これらにも猫のへあがりて、猫またになりて、人とることはあなるものを」といふ者ありけるを、何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが聞きて、ひとりありかむ身は心すべきことにこそと思ひける頃しも、ある所にて夜更くるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川のはたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふとよりきて、やがてかきつくままに、頸のほどをくはむとす。肝心もうせて、ふせがむとするに力もなく、足もたたず、小川へころび入りて、「助けよや、ねこまた、よや、よや」と叫べば、家々より、松どもともして走りよりて見れば、このわたりに見しれる僧なり。「こは如何に」とて、川の中よりいだきおこしたれば、連歌のかけものとりて、扇、小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。
 飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。