安宅の関
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安宅の関
 兄に追われる身となった義経がこの関を訪れたのは、文治三年(1187)のこと。一行はは山伏姿で逃げているらしいと、そんなことまで知られての逃避行であったという。現代で言えば指名手配の状態。奥州を目指す義経主従にとって、この関所の突破は明日の命を分けるものであった。なんとしても成し遂げねばならない。しかし、まさに「難関」である。それをいかになすべきか……。
 関守富樫泰家と弁慶とのやりとりは、歌舞伎の最高の名場面として親しまれている。主君を守ろうとする弁慶の必死の演技と耐える義経、そしてその思いに感じて関を通す富樫の情けが響き合う。「勧進帳」。まさにその舞台となる安宅の関は、日本海に面する砂丘の松原にあった。

安宅関は小松インターチェンジから行くのが近い。
松は風に吹かれて樹勢はばらばらである。こんな松原がずいぶんと続く。

トイレ前で恐縮だが、ここが駐車場。
安宅公園の入り口になっている。

力の強さが強調されたこの男は、弁慶に違いなかろう。
そのとおりであった。立派な生涯である。
ところで、寄贈主は義経と何かゆかりのあるお方なのであろうか。
一帯は整備されて「安宅公園」とされている。
こんな感じで道が続くが、やはりこのあたりは風が強いと見た。訪問日は穏やかな天候であったが、そんな日ばかりではないようだ。
園内を行けば、やがて大きな松に出会う。
「弁慶の逆植の松」ということなのだろうが、美しい筆致とは裏腹に、「弁」の字が間違っている。無理に旧字体を使うと、ときどきこういうことがある。若い世代の文字と見た。「辨」と書くところである。教えてあげたい。
宝物館とおぼしきところ。
ふと、弁慶がこちらをにらんでいる。
眼光が鋭い。名のある作家の作なのであろうか。歌舞伎の「にらみ」とは違うまなざしである。
安宅住吉神社である。ボクが訪問する神社は、このように改築中であることが多く、何か運命のようなものを感じる。
くやしいので、さっきの「弁慶」の文字を書いたのはどちらの巫女さんだろうかなどと考えてみる。いや、これは冗談。
隣接する金毘羅神社。
これは園内の歌碑で、与謝野晶子によるものである。右側に「清きは文治三年の関」、左側に「松立てる安宅の沙丘その中に」と読める。
どうしてこういう配置にしたがるのか、ボクは勉強が足りなくて、理解が及ばない。
小さな廟がひっそりと二つあった。一つは義経公、今ひとつは富樫泰家公のものである。
公園のいいところに三人の主人公。脇役はいない。
あえて言えば、園内には義経の影が少し薄い。
安宅のドラマのテーマをこのように示している。
題字は永井柳太郎だとか。誰かと思って調べると、石川県金沢の士族の家に生まれた昭和の政治家だそうである。
控えめな義経。ここで目立ったことをしてはいけないと覚悟していることがうかがえる。
「ごっつい」印象の弁慶。こんな大男に打擲されてはたまらない。
見守る視線の富樫。あるいは、見極める富樫。いや、見送る富樫であろうか。
園内を行き着くと、どうも入り口とおぼしきところに至った。つまりボクは裏から入ったのであろうか。
この記録も、逆に読むのが良いのかも知れない。
というわけで、これは公園入り口付近から見た全景である。右に見えるのは、安宅ビューテラスという休憩所。土産物も売っている。
振り返れば日本海は大きい。この海を渡って北に行くというアイディアはなかったのだろうか。しかし、そこに安宅のドラマはない。
灯台が見えた。このあたりは北前船で栄えた町であるという。
ビューテラスで見つけたポスター。こういういいものは、分けてほしいものである。
安宅の関や勧進帳についてより詳しく知りたい人は、園内の「勧進帳ものがたり館」へどうぞ。好きな人は行くべし。ただし、さほど広くない内部に見合った展示内容である。

入 館 料 
大人 300円 
高校生以下 150円

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