虞美人草

夏目漱石




        一

「随分遠いね。元来がんらいどこから登るのだ」
一人ひとり手巾ハンケチひたいを拭きながら立ちどまった。
「どこかおれにも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯からだも四角に出来上った男が無雑作むぞうさに答えた。
 そりを打った中折れの茶のひさしの下から、深きまゆを動かしながら、見上げる頭の上には、微茫かすかなる春の空の、底までもあいを漂わして、吹けばうごくかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然きつぜんとして、どうする気かとわぬばかりに叡山えいざんそびえている。
「恐ろしい頑固がんこな山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜のつえに身をたせていたが、
「あんなに見えるんだから、わけはない」と今度は叡山えいざん軽蔑けいべつしたような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝けさ宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行あるいていれば自然と山の上へ出るさ」
 細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりをあおいでいる。日頃ひごろからなるひさしさえぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広きひたいだけは目立って蒼白あおしろい。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
 相手は汗ばんだ額を、思うまま春風にさらして、ねばり着いた黒髪の、さかに飛ばぬをうらむごとくに、手巾ハンケチを片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、頸窩ぼんのくぼの尽くるあたりまで、くちゃくちゃにき廻した。うながされた事には頓着とんじゃくする気色けしきもなく、
「君はあの山を頑固がんこだと云ったね」と聞く。
「うむ、動かばこそと云ったような按排あんばいじゃないか。こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、いた方の手に栄螺さざえの親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼のかどからななめに相手を見下みおろした。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の洋杖ステッキを、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるやいなや、歩行あるき出した。せた男も手巾ハンケチたもとに収めて歩行き出す。
「今日は山端やまばな平八茶屋へいはちぢゃや一日いちんち遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端はんぱになるばかりだ。元来がんらい頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
 せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく喋舌しゃべり続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも見損みそこなってしまう。つれこそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか見当けんとうがつかんじゃないか」
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。せた男は無言のままあとにおくれてしまう。
 春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横につらぬいて、けぶる柳の間から、ぬくき水打つ白きぬのを、高野川たかのがわかわらに数え尽くして、長々と北にうねるみちを、おおかたは二里余りも来たら、山はおのずから左右にせまって、脚下にはし潺湲せんかんの響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春はけたるを、山をきわめたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰のすそうて、暗き陰に走る一条ひとすじの路に、爪上つまあがりなる向うから大原女おはらめが来る。牛が来る。京の春は牛の尿いばりの尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ちどまりながら、きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそりかんと行き尽して、かやばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高くして、返れ返れと二度ほどゆすって見せる。桜のつえが暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思うもなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋まるきばしを渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに歩行あるいていると若狭わかさの国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女にいて見た。この橋を渡って、あの細い道をむこうへ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
叡山えいざんの上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、おおせに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、歩行あるけるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると一人前いちにんまえだがな」
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとからいて来るかい」
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
 渓川たにがわに危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、かろうじて一縷いちるの細き力にいただきへ抜ける小径こみちのなかに隠れた。草はもとより去年のしもを持ち越したまま立枯たちがれの姿であるが、薄く溶けた雲をとおして真上から射し込む日影にし返されて、両頬りょうきょうのほてるばかりに暖かい。
「おい、君、甲野こうのさん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯からだ真直まっすぐに立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
 振り廻した杖の先の尽くる、はるか向うには、白銀しろかねの一筋に眼を射る高野川をひらめかして、左右は燃えくずるるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりとなすり着けた背景には薄紫うすむらさき遠山えんざん縹緲ひょうびょうのあなたにえがき出してある。
「なるほど好い景色けしきだ」と甲野さんは例の長身をじ向けて、きわどく六十度の勾配こうばいに擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつのに、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近むねちか君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれもくに心得ている」
「ハハハハそれで君は幾歳いくつだったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す了見りょうけんだと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は雑作ぞうさもなく言って退ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
冗談じょうだんを言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと退いてやれ」
 百折ももお千折ちおれ、五間とはすぐに続かぬ坂道を、呑気のんきな顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身のたけに余る粗朶そだの大束を、みどる濃き髪の上におさえ付けて、手もけずにいただきながら、宗近君の横をり抜ける。しげる立ち枯れのかやをごそつかせたうしろ姿のにつくは、目暗縞めくらじまの黒きが中をはすに抜けた赤襷あかだすきである。一里をへだてても、そことゆびの先に、引っ着いて見えるほどの藁葺わらぶきは、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、棚引たなびかすみとこしえに八瀬やせの山里を封じて長閑のどかである。
「この辺の女はみんな奇麗きれいだな。感心だ。何だかのようだ」と宗近君が云う。
「あれが大原女おはらめなんだろう」
「なに八瀬女やせめだ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となくでいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、てい、だのってさまざまな奴があるから」
「なるほど、蕎麦屋そばややぶがたくさん出来て、牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね」
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号はせばよかった」
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足あとあしで石をころがしてはいかん。あとからいて行くものが剣呑けんのんだ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて枯薄かれすすきの中へ仰向あおむけに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号をとなえるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜のつえで、甲野さんのている頭の先をこつこつたたく。敲くたびに杖の先が薄をぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
反吐へどが出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも休息やすみつかまつろう」
 甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子もかさも坂道に転がしたまま、仰向あおむけに空をながめている。蒼白あおじろ面高おもだかけずせる彼の顔と、無辺際むへんざいに浮き出す薄き雲の※(「條の木に代えて栩のつくり」、第3水準1-90-31)ゆうぜんと消えて入る大いなる天上界てんじょうかいの間には、一塵の眼をさえぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
 宗近君は米沢絣よねざわがすりの羽織を脱いで、袖畳そでだたみにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う諸肌もろはだを脱いだ。下から袖無ちゃんちゃんあらわれる。袖無の裏から、もじゃもじゃしたきつねの皮がみ出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。千羊せんようの皮は一狐いっこえきにしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮はまだらにほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほどたちの悪い野良狐のらぎつねに違ない。
御山おやま御登おあがりやすのどすか、案内しまほうか、ホホホけったいとこに寝ていやはる」とまた目暗縞めくらじまが下りて来る。
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然としてそらながめている。
「そう泰然と尻をえちゃ困るな。まだ反吐へどを吐きそうかい」
「動けば吐く」
厄介やっかいだなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万斛ばんこくの反吐皆どうの一字よりきたる」
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君をかついでふもとまで下りなけりゃならんかと思って、内心少々辟易へきえきしていたんだ」
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は愛嬌あいきょうのない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、一分いっぷんでも余計動かずにいようと云う算段だな。しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものをたおやわらかい武器だよ」
「それじゃ無愛想ぶあいそは自分より弱いものを、き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに詭弁きべんろうするね。そんなら僕は御先へ御免蒙ごめんこうむるぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
 宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、毛脛けずねまつわる竪縞たてじますそをぐいと端折はしおって、同じく白縮緬しろちりめん周囲まわりに畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引きけるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる岨路そばみち飄然ひょうぜんとして左へ折れたぎり見えなくなった。
 あとは静である。静かなる事さだまって、静かなるうちに、わが一脈いちみゃくの命をたくすると知った時、この大乾坤だいけんこんのいずくにかかよう、わが血潮は、粛々しゅくしゅくと動くにもかかわらず、音なくして寂定裏じゃくじょうり形骸けいがい土木視どぼくしして、しかも依稀いきたる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶うやむやわずらいを捨てたるは、雲のしゅうを出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘泥こうでいを超絶したる活気である。古今来ここんらいむなしゅうして、東西位とうざいいくしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石かせきになりたい。赤も吸い、青も吸い、黄もむらさきも吸い尽くして、元の五彩にかえす事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、せんずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側こちらがわなるすべてのいさくさは、肉一重ひとえの垣にへだてられた因果いんがに、枯れ果てたる骸骨にいらぬなさけの油をして、要なきしかばね長夜ちょうやの踊をおどらしむる滑稽こっけいである。はるかなる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
 考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また歩行あるかねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の痕迹こんせきを、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いてずいにいって消えぬほどある。いたずらに足の底にふくれ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上になかば掛けたる編み上げのかかとを見下ろす途端とたん、石はきりりとめんえて、乗せかけた足をすわと云うに二尺ほどべらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声にぎんじながら、かさを力に、岨路そばみちを登り詰めると、急に折れた胸突坂むなつきざかが、下から来る人を天にいざな風情ふぜいで帽にせまって立っている。甲野さんは真廂まびさしあおって坂の下から真一文字に坂の尽きるいただきを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色をみなぎらしたるはてもなき空を見上げた。甲野さんはこの時
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
 草山を登り詰めて、雑木ぞうきの間を四五段のぼると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、湿しめっぽく思われる。路は山のを、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。近江おうみの空を深く色どるこの森の、動かねば、そのかみの幹と、その上の枝が、幾重いくえ幾里につらなりて、むかしながらのみどりを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々をうずめ、三百の神輿みこしを埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、三藐三菩提さまくさぼだいの仏達を埋め尽くして、森々しんしんと半空にそびゆるは、伝教大師でんぎょうだいし以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
 右よりし左よりして、行く人を両手にさえぎる杉の根は、土を穿うがち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとするいわお梯子ていしに、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級のかいを、山霊さんれいたまものと甲野さんは息を切らしてのぼって行く。
 行く路の杉にせまって、暗きよりるるがごとくい出ずる日影蔓ひかげかずらの、足にまつわるほどに繁きを越せば、引かれたるつるの長きを伝わって、手も届かぬに、ちかかる歯朶しだの、風なき昼をふらふらとうごく。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で天狗てんぐのような声を出す。朽草くちくさの土となるまで積みるしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、蝙蝠傘かわほりがさを力に、天狗てんぐまで、登って行く。
善哉善哉ぜんざいぜんざい、われなんじを待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
 甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘をほうり出すと、その上へどさりと尻持しりもちを突いた。
「また反吐へどか、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜のつえで、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ隙間すきまに、※(「白+樂」、第3水準1-88-69)てきれき近江おうみうみが光った。
「なるほど」と甲野さんはひとみらす。
 鏡を延べたとばかりではき足らぬ。琵琶びわの銘ある鏡の明かなるをんで、叡山の天狗共が、よいぬすんだ神酒みきえいに乗じて、曇れる気息いきを一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎かげろうを巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷ひとはけなすり付けた、※(「さんずい+艶」、第4水準2-79-53)れんえんたる春色が、十里のほかに糢糊もこ棚引たなびいている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやってもうれしがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、日々にちにち人間と御無沙汰ごぶさたになって……」
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山をうしろにして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって懐手ふところでをしていちゃ、駄目だよ」
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に将門まさかど※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを吐いたのはどこいらだろう」
「何でも向う側だ。京都を瞰下みおろしたんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」
「将門か。うん、気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を吐くより、反吐へどでも吐く方が哲学者らしいね」
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで達磨だるまだね」
「あのけぶるような島は何だろう」
「あの島か、いやに縹緲ひょうびょうとしているね。おおかた竹生島ちくぶしまだろう」
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、ものさえたしかなら構わない主義だ」
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけがまことだよ」
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気うわきはなかなかやまないものだ」
「やまなくって好いから、突き当るのはぴら御免ごめんだ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
小刀細工こがたなざいくすきな人間がさ」
 山を下りて近江おうみの野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くにながめているのが甲野さんの世界である。

        二

 くれない弥生やよいに包む昼たけなわなるに、春をぬきんずるむらさきの濃き一点を、天地あめつちの眠れるなかに、あざやかにしたたらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりもあでやかながめしむる黒髪を、乱るるなと畳めるびんの上には、玉虫貝たまむしかい冴々さえさえすみれに刻んで、細き金脚きんあしにはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒きひとみのさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴はんてきのひろがりに、一瞬の短かきをぬすんで、疾風のすは、春にいて春を制する深きまなこである。このひとみさかのぼって、魔力のきょうきわむるとき、桃源とうげんに骨を白うして、再び塵寰じんかんに帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊もこたる夢の大いなるうちに、さんたる一点の妖星ようせいが、死ぬるまで我を見よと、紫色の、まゆ近くせまるのである。女は紫色の着物を着ている。
 静かなる昼を、静かにしおりいて、はくに重き一巻を、女は膝の上に読む。
「墓の前にひざまずいて云う。この手にて――この手にて君をうずめ参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓をはらい、この手にてこうくべき折々の、とこしえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶ばくやも我らをき難きに、死こそ無惨むざんなれ。羅馬ロウマの君は埃及エジプトに葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬にうずめられんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、きわれにこばめる、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、なさけだにあらば、羅馬の神は、よも生きながらのはずかしめに、いちに引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君があだなる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫えいごうに隠したまえ。」
 女は顔を上げた。蒼白あおしろほおしまれるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重ひとえの底に、余れる何物かをかくせるがごとく、蔵せるものを見極みきわめんとあせる男はことごとくとりことなる。男はまばゆげになかば口元を動かした。口の居住いずまいくずるる時、この人の意志はすでに相手の餌食えじきとならねばならぬ。下唇したくちびるのわざとらしく色めいて、しかも判然はっきと口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。
 女はただはやぶさの空をつがごとくちらとひとみを動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごさきに飛ばして、泡吹くかにと、烏鷺うろを争うは策のもっともつたなきものである。風励鼓行ふうれいここうして、やむなく城下じょうかちかいをなさしむるは策のもっともぼんなるものである。みつを含んで針を吹き、酒をいて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。拈華ねんげ一拶いっさつは、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊躇ちゅうちょする事刹那せつななるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼにまよいと書き、まどいと書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云うに引き上げる。下界万丈げかいばんじょう鬼火おにびに、なまぐさき青燐せいりんを筆の穂に吹いて、会釈えしゃくもなくえがいだせる文字は、白髪しらがたわしにして洗っても容易たやすくは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻すわけには行くまい。
小野おのさん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、くずれた口元を立て直すいとまもない。唇にえみを帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持無沙汰てもちぶさたに草書にくずしたまでであって、崩したものの尽きんとする間際まぎわに、崩すべき第二の波の来ぬのをわずらっていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く咽喉のどすべり出たのである。女はもとより曲者くせものである。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句をいだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものもうつらぬ男の眼には、二の句はもとより愚かである。
 女はまだなんにも言わぬ。とこけた容斎ようさいの、小松にまじ稚子髷ちごまげの、太刀持たちもちこそ、むかしから長閑のどかである。狩衣かりぎぬに、鹿毛かげなるこま主人あるじは、事なきにれし殿上人てんじょうびとの常か、動く景色けしきも見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これがれれば、また継がねばならぬ。男は気息いきらして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面ほそおもてに予期のじょうみなぎらして、重きに過ぐる唇の、ぐうかを疑がいつつも、手答てごたえのあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向ってける弓の、危うくもが頭の上に、瓢箪羽ひょうたんばを舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引きえて、女は始めより、わが前にわれる人の存在を、ひざひらける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、はく美しと見つけた時、今たずさえたる男の手から※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ取るようにして、読み始めたのである。
 男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は羅馬ロウマへ行くつもりなんでしょうか」
 女はに落ちぬ不快の面持おももちで男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく納得なっとくする。小野さんは暗い隧道トンネルかろうじて抜け出した。
沙翁シェクスピヤの書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
 小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗ってけ出そうとする。魚はふちおどる、とびは空に舞う。小野さんは詩のくにに住む人である。
 稜錐塔ピラミッドの空をく所、獅身女スフィンクスの砂を抱く所、長河ちょうが鰐魚がくぎょを蔵する所、二千年の昔妖姫ようきクレオパトラの安図尼アントニイと相擁して、駝鳥だちょう※(「翌の立に代えて妾」、第4水準2-84-92)※(「たけかんむり/捷のつくり」、第4水準2-83-53)しょうしょうに軽く玉肌ぎょっきを払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。
「沙翁のいたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、紫色むらさきいろのクレオパトラが眼の前にあざやかに映って来ます。げかかった錦絵にしきえのなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長きそでを、さっとさばいて、小野さんの鼻の先にひるがえす。小野さんの眉間みけんの奥で、急にクレオパトラのにおいがぷんとした。
「え?」と小野さんは俄然がぜんとして我に帰る。空をかすめる子規ほととぎすの、も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動けるあやしき色は、く収まって、美くしい手は膝頭ひざがしらに乗っている。脈打みゃくうつとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
 ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、恋々れんれんと遠のくあとを追うて、小野さんの心は杳窕ようちょうの境にいざなわれて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息ためいきの恋じゃありません。暴風雨あらしの恋、こよみにもっていない大暴雨おおあらしの恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋をると紫色の血が出るというのですか」
「恋がおこると九寸五分が紫色にひかると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
沙翁シェクスピヤいた所をわたしが評したのです。――安図尼アントニイ羅馬ロウマでオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道しらせを持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が嫉妬しっとで濃く染まったんでしょう」
「紫が埃及エジプトの日でげると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言うもなく長いそでが再びひらめいた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔をながめている。
「そこでクレオパトラがどうしました」とおさえた女は再び手綱たづなゆるめる。小野さんはけ出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、なじり方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のようにせいが高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮ついきゅうします。……」
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ御婆おばあさんね」
 女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しきえくぼのなかにき込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すればいつわりになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。しろい歯に交る一筋の金の耀かがやいてまた消えんとする間際まぎわまで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事をうから知っている。
 美しき女の二十はたちを越えておっとなく、むなしく一二三を数えて、二十四の今日きょうまでとつがぬは不思議である。春院しゅんいんいたずらにけて、花影かえいおばしまにたけなわなるを、遅日ちじつ早く尽きんとする風情ふぜいと見て、こといだいてうらみ顔なるは、嫁ぎおくれたる世の常の女のならいなるに、麈尾ほっすに払う折々の空音そらねに、琵琶びわらしき響を琴柱ことじに聴いて、本来ならぬ音色ねいろを興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。仔細しさいもとより分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々にのぞき込んで、いらざる臆測おくそくに、うやむやなる恋の八卦はっけをひそかにうらなうばかりである。
「年を取ると嫉妬しっとが増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
 小野さんはまた面喰めんくらう。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられるわけがない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に堪能かんのうなる文学者である。
「そうですね。やっぱり人にるでしょう」
 かどを立てない代りに挨拶あいさつは濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに嫉妬しっとなんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
 女の声は静かなる春風はるかぜをひやりとった。詩の国に遊んでいた男は、急に足をはずして下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高いがけの上から、こちらを見下みおろしている。自分をこんな所に蹴落けおとしたのは誰だと考える暇もない。
清姫きよひめじゃになったのは何歳いくつでしょう」
左様さよう、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
安珍あんちんは」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは御何歳おいくつでしたかね」
わたしですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と御同おなどしでした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽどけて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何かおごりましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
可愛想かわいそうに」
「可愛らしいんですよ」
 女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台のきわまりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかはもとより知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものはかならず女である。男は必ず負ける。具象ぐしょうかごの中にわれて、個体のあわついばんでは嬉しげに羽搏はばたきするものは女である。籠の中の小天地で女と鳴くを競うものは必ずたおれる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴きそこねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍あんちんのようなの」
「安珍はひどい」
 許せと云わぬばかりに、今度は受けめた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が御厭おいやなの」
わたしは安珍のように逃げやしません」
 これを逃げ損ねの受太刀うけだちと云う。坊っちゃんはを見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のようにけますよ」
 男は黙っている。
じゃになるには、少し年がけ過ぎていますかしら」
 時ならぬ春の稲妻いなずまは、女を出でて男の胸をするりととおした。色は紫である。
藤尾ふじおさん」
「何です」
 呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷はみどり濃き植込にへだてられて、往来に鳴る車の響さえかすかである。寂寞せきばくたる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁ちゃべりの畳を境に、二尺をへだてて互に顔を見合した時、社会は彼らのかたえを遠く立ち退いた。救世軍はこの時太鼓をたたいて市中を練りるいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息いきを引き取ろうとしている。露西亜ロシアでは虚無党きょむとうが爆裂弾を投げている。停車場ステーションでは掏摸すりつらまっている。火事がある。赤子あかごが生れかかっている。練兵場れんぺいばで新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾のあにさんと宗近君は叡山えいざんに登っている。
 花のさえ重きに過ぐる深きちまたに、呼びわしたる男と女の姿が、死の底にり込む春の影の上に、明らかにおどりあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せきたる心臓のとびらは、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女なんにょを、躍然と大空裏たいくうりえがき出している。二人の運命はこの危うき刹那せつなさだまる。東か西か、微塵みじんだにたいを動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃然べきぜんたる爆発物がげ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体からだ二塊ふたかたまり※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおである。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、砂利じゃりきしる車輪がはたと行き留まった。ふすまを開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢はくずれた。
「母が帰って来たのです」と女はすわったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然はっきと外にあらわさぬうちは罪にはならん。取り返しのつくなぞは、法庭ほうていの証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人なんびと後指うしろゆびす事は出来ぬ。出来れば向うがるい。天下はあくまでも太平である。
御母おっかさんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ちける前に居住いずまいをちょっとつくろい直す。洋袴ズボンひだの崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、っかいぼうに、尻を挙げるための、膝頭ひざがしらそろえた両手は、雪のようなカフスにこうまでおおわれて、くすんだ鼠縞ねずみじまの袖の下から、七宝しっぽう夫婦釦めおとボタンが、きらりと顔を出している。
「まあ御緩ごゆっくりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色けしきもない。男はもとより尻を上げるのはいやである。
「しかし」と云いながら、隠袋かくしの中をぐって、太い巻煙草まきたばこを一本取り出した。煙草の煙は大抵のものをまぎらす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産エジプトさんである。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰をえ直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでもつづめる便たよりが出来んとも限らぬ。
 薄い煙りの、黒い口髭くちひげを越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀ていねいな命令を下した。
 男は無言のまま再びひざくずす。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりでさむしくっていけません」
「甲野君はいつごろ御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
御音信おたよりが有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに御出おいでになればよかったのに」
わたしは……」と小野さんは後をかしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い御馴染おなじみじゃありませんか」
「え?」
 小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的真面目まじめになって、埃及煙草エジプトたばこを肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
御母おっかさんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
わたしはもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在おありになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙ごめんこうむります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
 藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床ひらどこに据えた古薩摩こさつま香炉こうろに、いつき残したる煙のあとか、こぼれた灰の、灰のままにくずれもせず、藤尾の部屋は昨日きのうも今日も静かである。敷き棄てた八反はったん座布団ざぶとんに、ぬしを待つ温気ぬくもりは、軽く払う春風に、ひっそりかんと吹かれている。
 小野さんは黙然もくねん香炉こうろを見て、また黙然と布団を見た。くず格子ごうしの、畳から浮く角に、何やら光るものが奥にはさまっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今まではとんと気がつかなかった。藤尾の立つ時に、絹障きぬざわりのしなやかに、布団ふとんれて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下をのぞいて見た。松葉形まつばがたつなぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七子ななこふちかすかに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
 金は色の純にして濃きものである。富貴ふうきを愛するものは必ずこの色を好む。栄誉をこいねがうものは必ずこの色をえらむ。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石じしゃくの鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨ゴムである。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
 折柄おりから向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、がりえんを伝わって近づいて来る。小野さんはのぞき込んだ眼を急にらして、素知らぬ顔で、容斎ようさいじくを真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
 黒縮緬くろちりめんの三つ紋をがたに着こなして、くすんだ半襟はんえりに、まげばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母おっかさんは軽く会釈えしゃくして、椽に近く座を占める。うぐいすも鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が始終しじゅう御厄介ごやっかいになりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽おらくに――いつも御挨拶ごあいさつを申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に赤児ねんねで、困り切ります、駄々ばかりねまして――でも英語だけは御蔭おかげさまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟はかんものと見えまして――」
 御母さんの弁舌は滾々こんこんとしてみごとである。小野さんは一字の間投詞をさしはさいとまなく、口車くちぐるまに乗ってけて行く。行く先はもとより判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いてつづきを読んでいる。
「花を墓に、墓に口を接吻くちづけして、きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯をこそと召す。ゆあみしたるのち夕餉ゆうげをこそと召す。この時いやしき厠卒こものありて小さきかご無花果いちじくを盛りて参らす。女王の該撒シイザアに送れるふみに云う。願わくは安図尼アントニイと同じ墓にわれをうずめたまえと。無花果いちじくの繁れる青き葉陰にはナイルのつち※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおしたを冷やしたる毒蛇どくだを、そっと忍ばせたり。該撒シイザアの使は走る。たつを排してまなこを射れば――黄金こがねの寝台に、位高きよそおいを今日とらして、女王のしかばねは是非なくよこたわる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王のかしらのあたりに、月黒きの露をあつめて、千顆せんかたまを鋳たるかんむりの、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及エジプト御代みよしろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目をねむる」
 埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、むる錬香ねりこうの尽きなんとしてかすかなる尾を虚冥きょめいくごとく、まったページが淡くかすんで見える。
「藤尾」と知らぬ御母おっかさんは呼ぶ。
 男はやっと寛容くつろいだ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向うつむいている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
 女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪ひさしがみの、白い額につづく下から、骨張らぬ細い鼻をけて、くれないすんに織る唇が――唇をそとすべって、ほおの末としっくり落ち合う※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごが――※(「月+咢」、第3水準1-90-51)ててなよやかに退いて行く咽喉のどが――しだいと現実世界にり出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変奇麗きれいな――よごさないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口をひらいた。
「いえ、あなた、どうもわがままものの寄り合いだもんでござんすから、始終しじゅう、小供のように喧嘩けんかばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある恐喝きょうかつ手段は長者ちょうしゃの好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。玩具おもちゃの九寸五分を突き付けたような気合である。
「兄の本を庭へげたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの眉間みけんへ向けてげつけた。御母さんは苦笑にがわらいをする。小野さんは口をく。
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と御母おっかさんは遠廻しに棄鉢すてばちになった娘の御機嫌をとる。
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、始終しじゅう身体からだが悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして判然はきはきしたらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々をねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出してもらいました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の呑気屋のんきやで、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、御前おまいさっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。
「ここです」と藤尾は、軽く諸膝もろひざななめに立てて、青畳の上に、八反はったん座布団ざぶとんをさらりとべらせる。富貴ふうきの色は蜷局とぐろを三重に巻いた鎖の中に、うずたか七子ななこふたを盛り上げている。
 右手をべて、輝くものを戛然かつぜんと鳴らすよと思うに、たなごころより滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さにめられると、余る力を横に抜いて、はじにつけた柘榴石ガーネットの飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波はくれないたまに女の白きかいなを打つ。第二の波は観世かんぜに動いて、軽く袖口そでくちにあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女はと立ち上がった。
 奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、く動く景色けしきを、茫然ぼうぜんながめていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は
御母おかあさん」とうしろかえりみながら、
「こうすると引き立ちますよ」と云ってもとの席に返る。小野さんの胴衣チョッキの胸には松葉形に組んだ金の鎖が、ボタンの穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に燦爛さんらん耀かがやいている。
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほどく似合いますね」と御母おっかさんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんはけむに巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計をはずしてしまった。

        三

 やなぎ※(「享+單」、第4水準2-4-50)れて条々じょうじょうの煙をらんに吹き込むほどの雨の日である。衣桁いこうけたこんの背広の暗く下がるしたに、黒い靴足袋くつたび三分一さんぶいち裏返しに丸く蹲踞うずくまっている。違棚ちがいだなせまい上に、偉大な頭陀袋ずだぶくろえて、締括しめくくりのないひもをだらだらとものうくも垂らしたかたわらに、錬歯粉ねりはみがき白楊子しろようじが御早うと挨拶あいさつしている。立て切った障子しょうじ硝子ガラスを通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と宗近むねちか君は貸浴衣かしゆかたの上に銘仙めいせんの丹前を重ねて、床柱とこばしらの松の木を背負しょって、傲然ごうぜん箕坐あぐらをかいたまま、外をのぞきながら、甲野こうのさんに話しかけた。
 甲野さんは駱駝らくだ膝掛ひざかけを腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔のむきを換えると、くしを入れたてのれた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた靴足袋くつたびといっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へに来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。御母おっかさんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あのがくの字が読めるかい」
「なるほど妙だね。※雨※風せんうしゅうふう[#「にんべん+孱」、51-3][#「にんべん+愁」、51-3]か。見た事がないな。何でも人扁にんべんだから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこのふすまが面白いよ。一面に金紙きんがみを張り付けたところは豪勢だが、ところどころにしわが寄ってるには驚ろいたね。まるで緞帳芝居どんちょうしばい道具立どうぐだて見たようだ。そこへ持って来て、たけのこを三本、景気にいたのは、どう云う了見りょうけんだろう。なあ甲野さん、これはなぞだぜ」
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものがいてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。気狂きちがいの発明した詰将棋つめしょうぎの手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違の画工えかきが描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい事理じりが分ったら煩悶はんもんもなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、昔話むかしばなしにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない執念深しゅうねんぶかい人間だから、……」
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を奉納ほうのうしたところが……」
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車のながえと横木をかずらゆわいた結び目を誰がどうしてもく事が出来ない」
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その結目ノットをアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方のていたらんと云う神託しんたくを聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う了見りょうけんがなくっちゃ駄目だと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど卑怯ひきょうなものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなにえらいと思ってるのか」
 会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐あぐらのまま旅行案内をひろげる。雨はななめに降る。
 古い京をいやが上にびよと降る糠雨ぬかあめが、赤い腹を空に見せていと行く乙鳥つばくらこたえるほど繁くなったとき、下京しもきょう上京かみきょうもしめやかにれて、三十六峰さんじゅうろっぽうみどりの底に、音は友禅ゆうぜんべにを溶いて、菜の花にそそぐ流のみである。「御前おまえ川上、わしゃ川下で……」とせりを洗う門口かどぐちに、まゆをかくす手拭てぬぐいの重きを脱げば、「大文字だいもんじ」が見える。「松虫まつむし」も「鈴虫すずむし」も幾代いくよの春を苔蒸こけむして、うぐいすの鳴くべきやぶに、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門らしょうもんに、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取りこぼたれた。つな※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎとった腕の行末ゆくえは誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨はるさめが降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園ぎおんでは桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
 甲野さんは寝ながら日記をけだした。横綴よことじの茶の表布クロースの少しは汗にごれたかどを、折るようにあけて、二三枚めくると、一ページさんいちほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆をって景気よく、
一奩いちれん楼角雨ろうかくのあめ閑殺かんさつす古今人ここんのひと
と書いてしばらく考えている。転結てんけつを添えて絶句にする気と見える。
 旅行案内をほうり出して宗近君はずしんと畳を威嚇おどかして椽側えんがわへ出る。椽側には御誂向おあつらえむきに一脚の椅子いすが、人待ち顔に、しめっぽくえてある。※(「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19)れんぎょうまばらなる花の間からとなの座敷が見える。障子しょうじは立て切ってある。うちでは琴のがする。
たちまちきく[#「耳+吾」、56-1]弾琴響だんきんのひびき垂楊すいよう惹恨うらみをひいてあらたなり
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙はなぞである。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭はくとう※(「にんべん+亶」、第3水準1-14-43)※(「にんべん+回」、第3水準1-14-18)せんかいし、中夜ちゅうや煩悶はんもんするために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
 宗近君は椅子いす横平おうへいな腰を据えてさっきから隣りのことを聴いている。御室おむろ御所ごしょ春寒はるさむに、めいをたまわる琵琶びわの風流は知るはずがない。十三絃じゅうさんげんを南部の菖蒲形しょうぶがたに張って、象牙ぞうげに置いた蒔絵まきえした気高けだかしと思う数奇すきたぬ。宗近君はただ漫然といているばかりである。
 滴々てきてきと垣をおお※(「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19)れんぎょうな向うは業平竹なりひらだけ一叢ひとむらに、こけの多い御影のいを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に叡山苔えいざんごけわしている。琴のはこの庭から出る。
 雨は一つである。冬は合羽かっぱこおる。秋は灯心が細る。夏はふどしを洗う。春は――平打ひらうち銀簪ぎんかんを畳の上に落したまま、貝合かいあわせの貝の裏が朱と金とあいに光るかたわらに、ころりんとき鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳にくは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥にとらえたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空ほんらいくうの不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」
 琴の手は次第に繁くなる。雨滴あまだれ絶間たえまうて、白い爪が幾度かこまの上を飛ぶと見えて、こまやかなる調べは、太き糸のと細き音をり合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「無絃むげんの琴をいて始めて序破急じょはきゅうの意義を悟る」と書き終った時、椅子いすもたれて隣家となりばかりを瞰下みおろしていた宗近君は
「おい、甲野さん、理窟りくつばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなかうまいぜ」
椽側えんがわから部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっとえんまで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる景色けしきがない。
「おい、どうも東山が奇麗きれいに見えるぜ」
「そうか」
「おや、鴨川かもがわわたやつがある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布団ふとん着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の水嵩みずかさが増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちてもつかえなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の金襖きんぶすまたけのこを横にながめ始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとうを折って部屋の中へ這入はいって来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
幾何いくつだと思う」
幾歳いくつだかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと判然はっきり云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、島田しまだだよ」
「座敷でもいてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り好加減いいかげんな雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そらきたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこのたけのこを研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、せいが低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の唐紙からかみに三本いたのは、どう云う因縁いんねんだろう」
「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」
「筍の真青まっさおなのはなぜだろう」
「食うと中毒あたると云うなぞなんだろう」
「やっぱり謎か。君だって謎をくじゃないか」
「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、あとから頭を下げさせる事にしよう。――あのね、あの琴の主はね」
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話す事もない」
「なければ、いいさ」
「いや好くない。それじゃ話す。昨日きのうね、僕が湯から上がって、椽側えんがわで肌を抜いで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく鴨東おうとう景色けしきを見廻わして、ああ好い心持ちだとふと眼を落して隣家を見下すと、あの娘が障子しょうじを半分開けて、開けた障子にたれかかって庭を見ていたのさ」
別嬪べっぴんかね」
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが糸公いとこうより好いようだ」
「そうかい」
「それっきりじゃ、あんまり他愛たあいが無さ過ぎる。そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかったぐらい義理にも云うがいい」
「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから椽側えんがわまで出て来いと云うのに」
「だって障子は締ってるんじゃないか」
「そのうちくかも知れないさ」
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」
「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」
「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようと云うんだろう」
「春休みに勉強が出来るものか」
「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」
「いえ、単なる文学者と云うものはかすみに酔ってぽうっとしているばかりで、霞をひらいて本体を見つけようとしないから性根しょうねがないよ」
「霞のぱらいか。哲学者は余計な事を考え込んでにがい顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
「君見たように叡山えいざんへ登るのに、若狭わかさまで突きける男は白雨ゆうだちの酔っ払だよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
 甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。光沢つやのある髪で湿しめっぽくし付けられていた空気が、弾力でふくれ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に駱駝らくだ膝掛ひざかけり落ちながら、裏を返して半分はんぶに折れる。下から、だらしなく腰にき付けた平絎ひらぐけの細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元にかしこまった宗近君は、即座に品評を加えた。相手はせた体躯からだを持ち上げたひじを二段にのばして、手の平に胴をささえたまま、自分で自分の腰のあたりをめ廻していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしくかしこまってるじゃないか」と一重瞼ひとえまぶたの長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれは、これで正気なんだからね」
居住いずまいだけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
どてらを着て跪坐かしこまってるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは酔払よっぱらいらしくするがいい」
「そうか、それじゃ御免蒙ごめんこうむろう」と宗近君はすぐさま胡坐あぐらをかく。
「君は感心にを主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど片腹かたはら痛い事はないものだ」
いさめに従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんはさびし気に笑った。勢込いきおいこんで喋舌しゃべって来た宗近君は急に真面目まじめになる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑はいふに入る。面上の筋肉が我勝われがちにおどるためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻いなずまを起すためでもない。涙管るいかんの関が切れて滂沱ぼうだの観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わしてゆかるようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
 毛筋ほどな細い管を通して、とらえがたいなさけの波が、心の底からかろうじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来にころがっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、つらまえた人が勝ちである。捕まえそこなえば生涯しょうがい甲野さんを知る事は出来ぬ。
 甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、そのすみやかなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生はあきらかにえがき出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己ちきである。ったったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点がてんするようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格をえがき出すのは野暮やぼな小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
 春の旅は長閑のどかである。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は駱駝らくだ膝掛ひざかけ馬簾ばれんをひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、独語ひとりごとのように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、阿爺おやじが生きているとかえって面倒かも知れない」
「そうさなあ」と宗近君はなあを引っ張った。
「つまり、うちを藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家をいだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一叔母おばさんが困るだろう」
「母がか」
 甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
 疑がえばおのれにさえあざむかれる。まして己以外の人間の、利害のちまたに、損失の塵除ちりよけかぶる、つらの厚さは、容易にははかられぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う了見りょうけんか。己にさえ、己を欺く魔の、どこにかひそんでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、迂濶うかつには天機をらしがたい。宗近のことは継母に対するわが心の底を見んためのかまか。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌をけるほどの男ならば、思う通りを引き出したあとで、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は真率しんそつなる彼の、裏表の見界みさかいなく、母の口占くちうら一図いちずにそれと信じたる反響か。平生へいぜいのかれこれからして見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしきふちの底に、詮索さぐりおもりを投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損みそくなった母の意をけて、御互に面白からぬ結果を、必然の期程きてい以前に、家庭のなかにける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口はくまい。
 二人はしばらく無言である。隣家となりではまだこといている。
「あの琴は生田流いくたりゅうかな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。
「寒くなった、狐の袖無ちゃんちゃんでも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。
 丹前の胸を開いて、違棚ちがいだなの上から、例の異様な胴衣チョッキを取り下ろして、たいななめに腕を通した時、甲野さんは聞いた。
「その袖無ちゃんちゃんは手製か」
「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。うまいもんだ。御糸おいとさんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」
「いいか、ふん。彼奴あいつが嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと御叔父おじさんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから御母おっかさんの云う通りに君がうちいで……」
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕はいやなんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
 宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「またはもを食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実にな所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の嗅覚きゅうかくは非常に鋭敏だね。鱧の臭がするかい」
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると阿爺おやじも外国で死ななくっても済んだかも知れない。阿爺は嗅覚が鈍かったと見える」
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の佐伯さえきと云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。倫敦ロンドンで買った自慢の時計か。あれは多分来るだろう。小供の時から藤尾の玩具おもちゃになった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。あのくさりに着いている柘榴石ガーネットが気に入ってね」
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」
「あれを御叔父さんの片身かたみに僕にくれ」
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
 甲野さんは、だまって宗近君のまゆの間を、長い事見ていた。御昼のぜんの上には宗近君の予言通りはもが出た。

        四

 甲野こうのさんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
 小野さんは色を見て世を暮らす男である。
 甲野さんの日記の一筋にまた云う。
生死因縁しょうしいんねん無了期りょうきなし色相世界しきそうせかい現狂癡きょうちをげんず
 小野さんは色相しきそう世界に住する男である。
 小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。筒袖つつそでを着て学校へ通う時から友達にいじめられていた。行く所で犬にえられた。父は死んだ。外でひどい目にった小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
 水底みなそこは、暗い所にただようて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右にうごこうが、ひだりになびこうがなぶるは波である。ただその時々にさからわなければ済む。れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考えるひまもない。なぜ波がつらくおのれにあたるかは無論問題にはのぼらぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所にえていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
 京都では孤堂こどう先生の世話になった。先生からかすりの着物をこしらえて貰った。年に二十円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。祇園ぎおんの桜をぐるぐるまわる事を知った。知恩院ちおんいん勅額ちょくがくを見上げて高いものだと悟った。御飯も一人前いちにんまえは食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
 東京は目のくらむ所である。元禄げんろくの昔に百年の寿ことぶきを保ったものは、明治のに三日住んだものよりも短命である。余所よそでは人がかかとであるいている。東京では爪先つまさきであるく。逆立さかだちをする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
 きりきりと回ったあとで、眼を開けて見ると世界が変っている。眼をすっても変っている。変だと考えるのはるく変った時である。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計をたまわった。浮かび出したは水面で白い花をもつ。根のない事には気がつかぬ。
 世界は色の世界である。ただこの色をあじわえば世界を味わったものである。世界の色は自己の成功につれてあざやかに眼にうつる。鮮やかなる事錦をあざむくに至って生きて甲斐かいある命はとうとい。小野さんの手巾ハンケチには時々ヘリオトロープのにおいがする。
 世界は色の世界である、形は色の残骸なきがらである。残骸をあげつらって中味のうまきを解せぬものは、方円のうつわかかわって、盛り上る酒のあわをどう片づけてしかるべきかを知らぬ男である。いかに見極みきわめても皿は食われぬ。くちびるを着けぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義のさかずきいだいて、路頭に跼蹐きょくせきしている。
 世界は色の世界である。いたずらに空華くうげと云い鏡花きょうかと云う。真如しんにょの実相とは、世にれられぬ畸形きけいの徒が、容れられぬうらみを、黒※郷裏こくてんきょうり[#「甘+舌」、72-14]に晴らすための妄想もうぞうである。盲人はかなえでる。色が見えねばこそ形がきわめたくなる。手のない盲人は撫でる事をすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の所作しょさである。小野さんの机の上には花がけてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の眼鏡めがねが掛かっている。
 絢爛けんらんの域をえて平淡にるは自然の順序である。我らはむかし赤ん坊と呼ばれて赤いべべを着せられた。大抵たいていのものは絵画にしきえのなかに生い立って、四条派しじょうはの淡彩から、雲谷うんこく流の墨画すみえに老いて、ついに棺桶かんおけのはかなきに親しむ。かえりみると母がある、姉がある、菓子がある、こいのぼりがある。顧みれば顧みるほど華麗はなやかである。小野さんはおもむきが違う。自然の径路けいろさかしまにして、暗い土から、根を振り切って、日のとおる波の、明るいなぎさただようて来た。――あなの底で生れて一段ごとに美しい浮世へ近寄るためには二十七年かかった。二十七年の歴史を過去の節穴ふしあなからのぞいて見ると、遠くなればなるほど暗い。ただその途中に一点のくれないがほのかにうごいている。東京へたてにはこの紅が恋しくて、寒い記憶を繰り返すのもいとわず、たびたび過去の節穴を覗いては、長きを、永き日を、あるは時雨しぐるるをゆかしく暮らした。今は――紅もだいぶ遠退とおのいた。その上、色もよほどめた。小野さんは節穴を覗く事をおこたるようになった。
 過去の節穴をふさぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は薔薇ばらである。薔薇のつぼみである。小野さんは未来を製造する必要はない。つぼんだ薔薇を一面に開かせればそれがおのずからなる彼の未来である。未来の節穴を得意のくだからながめると、薔薇はもう開いている。手を出せばつらまえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳のそばで云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
 論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、かならず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が金色こんじきに燃えている。博士の傍には金時計が天からかかっている。時計の下には赤い柘榴石ガーネットが心臓のほのおとなって揺れている。そのわきに黒い眼の藤尾さんがほそい腕を出して手招てまねぎをしている。すべてが美くしいである。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
 むかしタンタラスと云う人があった。わるい事をしたばちで、ひどい目にうたと書いてある。身体からだは肩深く水にひたっている。頭の上にはうまそうな菓物くだもの累々るいるいと枝をたわわに結実っている。タンタラスは咽喉のどかわく。水を飲もうとすると水が退いて行く。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げて行く。タンタラスの口が一尺動くと向うでも一尺動く。二尺すすむと向うでも二尺前む。三尺四尺は愚か、千里を行き尽しても、タンタラスは腹が減り通しで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っけて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、何だかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。長いまゆを押しつけたように短かくして、きっにらめている事がある。柘榴石がぱっと燃えて、※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなってげながら暗くなる事がある。時計がはるかな天から隕石いんせきのように落ちて来て、割れる事がある。その時はぴしりと云う音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来をえがき出す。
 机の前に頬杖ほおづえを突いて、色硝子いろガラス一輪挿いちりんざしをぱっとおお椿つばきの花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。幾通りもある未来のなかで今日は一層出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと平手ひらてでたたいて、御気の毒様もう約束済ですと云う。じゃ時計は入りません、しかしあなたは……と聞くと、私? 私は無論時計にくっ付いているんですとむこうをむいて、すたすた歩き出す」
 小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り残刻ざんこくなのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなり掛けた※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごを持ち上げると、障子しょうじが、すうといて、御手紙ですと下女が封書を置いて行く。
「小野清三様」と子昂流すごうりゅうにかいた名宛なあてを見た時、小野さんは、急に両肱りょうひじに力を入れて、机に持たしたたいねるようにうしろへ引いた。未来を覗く椿つばきくだが、同時に揺れて、唐紅からくれない一片ひとひらがロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。まったき未来は、はやくずれかけた。
 小野さんは机に添えてひだりの手をしたまま、顔をななめに、受け取った封書をてのひらの上に遠くからながめていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの見当けんとうはついている。ついていればこそ返しにくい。返した暁に推察の通りであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつてかめのこに聞いた事がある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、出来るならばと甲羅こうらの中に立てこもる。打たれる運命を眼前に控えた間際まぎわでも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を一寸いっすんのがれる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違ない。
 ややしばらく眺めていると今度は掌がむずゆくなる。一刻の安きをむさぼったあとは、安きおもいを、なお安くするために、裏返して得心したくなる。小野さんは思い切って、封筒を机の上にぎゃくに置いた。裏から井上孤堂いのうえこどうの四字が明かにあらわれる。白い状袋に墨を惜しまず肉太に記した草字そうじは、小野さんの眼に、針の先を並べて植えつけたように紙を離れて飛びついて来た。
 小野さんはさわらぬ神にたたりなしと云う風で、両手を机から離す。ただ顔だけが机の上の手紙に向いている。しかし机とひざとは一尺の谷で縁が切れている。机から引き取った手は、ぐにゃりとして何だか肩から抜けて行きそうだ。
 封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人をげて見ないうちはどうも柔術家たる所以ゆえんを自分に証明する道がない。弱い議論と弱い柔術は似たものである。小野さんは京都以来の友人がちょっと遊びに来てくれればいいと思った。
 二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は呑気のんきうらやましいと思う。――椿の花片はなびらがまた一つ落ちた。
 一輪挿いちりんざしを持ったまま障子をけて椽側えんがわへ出る。花は庭へてた。水もついでにあけた。花活はないけは手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。ひのきがある。へいがある。むこうに二階がある。乾きかけた庭に雨傘がしてある。じゃの目の黒いふち落花らっか二片ふたひらへばりついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
 小野さんは重い足を引きってまた部屋のなかへ這入はいって来た。坐らずに机の前に立っている。過去の節穴ふしあながすうといて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰をかがめて手を伸ばすや否や封を切った。
「拝啓柳暗花明りゅうあんかめいの好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀がしたてまつりそうろう。小生も不相変あいかわらず頑強がんきょう小夜さよも息災に候えば、乍憚はばかりながら御休神可被下くださるべくそうろう。さて旧臘きゅうろう中一寸申上候東京表へ転住の義、其後そのご色々の事情にてはかどりかね候所、此程に至り諸事好都合にらちあき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知被下度くだされたくそうろう。二十年ぜんに其地を引き払い候儘、両度の上京に、五六日の逗留とうりゅうの外は、全く故郷の消息にうとく、万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。
「年来住みるしたる住宅は隣家蔦屋つたやにて譲り受け度旨たきむね申込もうしこみ有之これあり、其他にも相談の口はかかり候えども、此方こちらに取り極め申候。荷物其他嵩張かさばり候ものは皆当地にて売払い、なるべく手軽に引き移るつもりに御座候。唯小夜所持のこと一面は本人の希望により、東京迄持ち運び候事に相成候。ふるきを棄てがたき婦女の心情御憐察可被下くださるべくそうろう
「御承知のとおり小夜は五年ぜん当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住のすみやかなる事を希望致し居候。同人行末ゆくすえの義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述もうしのべず。追て其地にて御面会の上とくと御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓ざっとうの事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車をえらみたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層いっそ途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報可致いたすべくそうろう。まずは右当用迄匆々そうそう不一」
 読み終った小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂れて、清三様……孤堂とかいたはじが青いカシミヤの机掛の上に波を打って二三段に畳まれている。小野さんは自分の手元から半切れを伝わって机掛の白く染め抜かれているあたりまで順々に見下して行く。見下した眼の行きどまった時、やむを得ず、ひとみを転じてロゼッチの詩集をながめた。詩集の表紙の上に散った二片ふたひらくれないも眺めた。紅に誘われて、右のかどに在るべき色硝子の一輪挿も眺めようとした。一輪挿はどこかへ行ってあらぬ。一昨日おととい挿した椿つばきは影も形もない。うつくしい未来を覗くくだが無くなった。
 小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ちのぼる。一種古ぼけた黴臭かびくさいにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして躊躇ちゅうちょする毛筋の末を引いて、細いえにしに、絶えるほどにつながるる今と昔を、のあたりに結び合わすにおいである。
 半世の歴史を長き穂の心細きまでさかしまに尋ぬれば、さかのぼるほどに暗澹あんたんとなる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れの末に、きりの力のとがれるをさいわいと、記憶の命を突きとおすは要なしと云わんよりむしろ無惨むざんである。ジェーナスの神は二つの顔に、うしろをも前をも見る。幸なる小野さんは一つの顔しか持たぬ。そびらを過去に向けた上は、眼に映るは煕々ききたる前程のみである。うしろを向けばひゅうと北風が吹く。この寒い所をやっとの思いで斬り抜けた昨日今日きのうきょう、寒い所から、寒いものが追っけて来る。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖くあざやかなるうちに、おのれをき込んで、一歩でも過去を遠退とおのけばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かにちりばめられて、動くかとは掛念けねんしながらも、まず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち退いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸をでていた。ところが、昔しながらとたかをくくって、過去のくだを今さら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいて来る。せまって来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗りえて、暗夜やみよを照らす提灯ちょうちんの火のごとく揺れて来る、動いてくる。小野さんは部屋の中を廻り始めた。
 自然は自然を用い尽さぬ。きわまらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵である。小野さんが部屋の中を廻り始めて半分はんぷんと立たぬうちに、障子しょうじから下女の首が出た。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見てみだりに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
 小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
 小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに愛嬌あいきょうがあるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると半文はんもんの価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。今日こんにちまで下女の人望をつないだのも全くこの自覚にもとづく。小野さんは下女の人望をさえみだりに落す事を好まぬほどの人物である。
 同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事あたわずとむかしの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が退いて不安が這入はいる。下女はるいところへぶつかった。愛嬌が退いて不安が這入る。愛嬌が附焼刃つけやきばで不安が本体だと思うのは偽哲学者である。家主いえぬしが這入るについて、愛嬌が示談じだんの上、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪るいところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、い。し好し」
 友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったりうしろへ戻ったりして下女にまで馬鹿にされる時である。
 往来で人と往き合う事がある。双方でちょっとたいわせば、それぎりで御互にもとの通り、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左りへける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向うもこれではならぬと気をえて反対へ出る。反対と反対が鉢合はちあわせをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向うでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の振子ふりこのようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りのるい野郎だと悪口わるくちが云いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪るい野郎だと云われるところであった。
 そこへ浅井君が這入はいってくる。浅井君は京都以来の旧友である。茶の帽子のいささか崩れかかったのを、右の手でつぶすように握って、畳の上へほうり出すや否や
「ええ天気だな」と胡坐あぐらをかく。小野さんは天気の事を忘れていた。
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。昨日きのう行っての、アイスクリームを食うて来た」
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は露西亜ロシア料理を食いに行くつもりだ。どうだいっしょに行かんか」
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く露西亜ロシア料理でも食うて、好うならんと」
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し先刻さっきだった」
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおってっくり話すよ。僕も井上先生には大変世話になったし、僕の力で出来る事は何でも先生のためにする気なんだがね。結婚なんて、そう思う通りに急に出来るものじゃないさ」
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たらゆっくり話そうと思うんだね。そう向うだけで一人ひとりぎめにきめていても困るからね」
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分昔堅気むかしかたぎだからな」
「なかなか自分できめた事は動かない。一徹いってつなんだ」
「近頃は家計くらしの方も余りよくないんだろう」
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に何時なんじかな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
うまい事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
 門口かどぐちで分れた小野さんの足は甲野の邸に向った。

        五

 山門を入る事一歩にして、古き世のみどりが、急に左右から肩を襲う。自然石じねんせき形状かたち乱れたるを幅一間に行儀よく並べて、錯落さくらくと平らかに敷き詰めたるこみちに落つる足音は、甲野こうのさんと宗近むねちか君の足音だけである。
 一条いちじょうの径の細くすぐなるを行き尽さざる此方こなたから、石に眼を添えてはるかなる向うをきわむる行き当りに、あおげば伽藍がらんがある。木賊葺とくさぶきの厚板が左右から内輪にうねって、だいなる両の翼を、けわしき一本の背筋せすじにあつめたる上に、今一つ小さき家根やねが小さき翼をして乗っかっている。風抜かざぬきか明り取りかと思われる。甲野さんも、宗近君もこの精舎しょうじゃを、もっとも趣きある横側の角度から同時に見上げた。
「明かだ」と甲野さんはつえとどめた。
「あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える」
「つまり恰好かっこううまくそう云う風に出来てるんだろう。アリストートルのいわゆる理形フォームかなってるのかも知れない」
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、この辺の寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
舟板塀ふないたべい趣味しゅみ御神灯ごじんとう趣味しゅみとは違うさ。夢窓国師むそうこくしが建てたんだもの」
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を逍遥しょうようする価値があるんだ。ただ見物したって何になるもんか」
「夢窓国師も家根やねになって明治まで生きていれば結構だ。安直あんちょくな銅像よりよっぽどいいね」
「そうさ、一目瞭然いちもくりょうぜんだ」
「何が」
「何がって、この境内けいだい景色けしきがさ。ちっとも曲っていない。どこまでも明らかだ」
「ちょうどおれのようだな。だから、おれは寺へ這入はいると好い気持ちになるんだろう」
「ハハハそうかも知れない」
「して見ると夢窓国師がおれに似ているんで、おれが夢窓国師に似ているんじゃない」
「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは蓮池れんちに渡した石橋せっきょう欄干らんかんに尻をかける。欄干の腰には大きな三階松さんがいまつが三寸の厚さをかして水に臨んでいる。石にはこけが薄青く吹き出して、灰を交えたむらさきの質に深く食い込む下に、枯蓮かれはすじくがすいすいと、去年のしも弥生やよいの中に突き出している。
 宗近君は燐寸マッチを出して、煙草たばこを出して、しゅっと云わせた燃え残りを池の水に棄てる。
「夢窓国師はそんな悪戯いたずらはしなかった」と甲野さんは、※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごの先に、両手でつえかしらを丁寧に抑えている。
「それだけ、おれより下等なんだ。ちっと宗近国師の真似まねをするが好い」
「君は国師より馬賊になる方がよかろう」
「外交官の馬賊は少し変だから、まあ正々堂々と北京ペキンへ駐在する事にするよ」
「東洋専門の外交官かい」
「東洋の経綸さ。ハハハハ。おれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。どうだろう、それとも修業したら、君の阿爺おやじぐらいにはなれるだろうか」
「阿爺のように外国で死なれちゃ大変だ」
「なに、あとは君に頼むから構わない」
「いい迷惑だね」
「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいな事はしてもよかろう」
「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
「元来、君は我儘わがまま過ぎるよ。日本と云う考が君の頭のなかにあるかい」
 今までは真面目の上に冗談じょうだんの雲がかかっていた。冗談の雲はこの時ようやく晴れて、下から真面目が浮き上がって来る。
「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少しうしろへ開いた。
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま風邪かぜなおれば長命だと思ってる」
「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本と露西亜ロシアの戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
「無論さ」
亜米利加アメリカを見ろ、印度インドを見ろ、亜弗利加アフリカを見ろ」
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬに殺されているんだ」
 すべてを爪弾つまはじきした甲野さんは杖の先で、とんと石橋せっきょうたたいて、ぞっとしたように肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。峩山がざんと云う坊主は一椀の托鉢たくはつだけであの本堂を再建したと云うじゃないか。しかも死んだのは五十になるか、ならんうちだ。やろうと思わなければ、横にはしたてにする事も出来ん」
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
 世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右にさっひらいた中を、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。小供が通る。嵯峨さがの春を傾けて、京の人は繽紛絡繹ひんぷんらくえき嵐山らんざんに行く。「あれだ」と甲野さんが云う。二人はまた色の世界に出た。
 天竜寺てんりゅうじの門前を左へ折れれば釈迦堂しゃかどうで右へ曲れば渡月橋とげつきょうである。京は所の名さえ美しい。二人は名物と銘打った何やらかやらをやたらに並べ立てた店を両側に見て、停車場ステーションの方へ旅衣たびごろも七日なのか余りの足を旅心地に移す。出逢うは皆京の人である。二条にじょうから半時はんときごとに花時をあだにするなと仕立てる汽車が、今着いたばかりの好男子好女子をことごとく嵐山の花に向って吐き送る。
「美しいな」と宗近君はもう天下の大勢たいせいを忘れている。京ほどに女の綺羅きらを飾る所はない。天下の大勢も、京女きょうおんなの色にはかなわぬ。
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
るくないね。何となく景気がいい」
「いいえ。あれを見るとほとんど異性セックスの感がない。女もあれほどに飾ると、飾りまけがして人間の分子が少なくなる」
「そうさその理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに厭味いやみがない」
「どうも淡粧あっさりして、活動する奴が一番人間の分子が多くって危険だ」
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。至極しごく御同感だ。御互に無事な所へ遊びに来てまあかったよ」
「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するからいやになっちまう」
「御互は第何義ぐらいだろう」
「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた了見りょうけんを洗った時に、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
「自分の血か、人の血か」
 甲野さんは返事をする代りに、売店にならべてある、抹茶茶碗まっちゃぢゃわんを見始めた。土をねて手造りにしたものか、棚三段を尽くして、あるものはことごとくとぼけている。
「そんなとぼけた奴は、いくら血で洗ったって駄目だろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは……」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げてながめているそでを、宗近君は断わりもなく、力任せにぐいと引く。茶碗は土間の上で散々に壊れた。
「こうだ」と甲野さんが壊れたかけを土の上に眺めている。
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
 甲野さんは土間の敷居をまたぐ。「何だ」と天竜寺の方を振り返る向うは例の京人形の後姿がぞろぞろ行くばかりである。
「何だ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あのことの主さ。君が大いに見たがった娘さ。せっかく見せてやろうと思ったのに、下らない茶碗なんかいじくっているもんだから」
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は無残むざんな事をした。罪は君にある」
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃおっつかない。壊してしまわなけりゃ直らない厄介物やっかいぶつだ。全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。みんな、ひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとくたたき壊してやりたい気がする。何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
 二人は茶碗の代を払って、停車場ステーションへ来る。
 浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨さがより二条にじょうに引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波たんばへ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡かめおかに降りた。保津川ほづがわ急湍きゅうたんはこの駅よりくだおきてである。下るべき水は眼の前にまだゆるく流れて碧油へきゆうおもむきをなす。岸は開いて、里の子の土筆つくしも生える。舟子ふなこは舟をなぎさに寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、こべりは尺と水を離れぬ。赤い毛布けっとに煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭のかずは四人である。真っ先なるは、二間の竹竿たけざおづく二人は右側にかい、左に立つは同じく竿である。
 ぎいぎいとかいが鳴る。粗削あらけずりにたいらげたるかし頸筋くびすじを、太い藤蔓ふじづるいて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手のふしたかきは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんとく力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根くびねを抑えられた櫂が、くごとにしわりでもする事か、こわうなじ真直ますぐに立てたまま、藤蔓とれ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
 岸は二三度うねりを打って、音なき水を、とどまる暇なきに、前へ前へと送る。かさなる水のしじまって行く、こうべの上には、山城やましろ屏風びょうぶと囲う春の山がそびえている。せまりたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも山峡さんきょうに入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭のたいかして岩と岩のせまる間を半丁のむこうに見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、ふなばたから首を出した時、船ははや瀬の中にすべり込んだ。右側の二人はすわと波を切る手をゆるめる。かいは流れて舷に着く。へさきに立つは竿さおよこたえたままである。かたむいて矢のごとく下る船は、どどどときざみ足に、船底に据えた尻に響く。われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君がゆびさうしろを見ると、白いあわが一町ばかり、か落しにみ合って、谷をかすかな日影を万顆ばんかたま我勝われがちに奪い合っている。
さかんなものだ」と宗近君は大いに御意ぎょいに入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
 船頭は至極しごく冷淡である。松を抱くいわの、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、さおあやつり去る。通る瀬はさまざまにめぐる。廻るごとに新たなる山は当面におどり出す。石山、松山、雑木山ぞうきやまと数うるいとま行客こうかくに許さざるき流れは、船をってまた奔湍ほんたんに躍り込む。
 大きな丸い岩である。こけを畳むわずらわしさを避けて、むらさき裸身はだかみに、ちつけて散る水沫しぶきを、春寒く腰から浴びて、緑りくずるる真中に、舟こそ来れと待つ。舟はたても物かは。一図いちずにこの大岩を目懸けて突きかかる。渦捲うずまいて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。けずられて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の行末ゆくえである。岩に突き当って砕けるか、き込まれて、見えぬ彼方かなたにどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波をむ岩の太腹にもぐり込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手ががると共に舟はぐうと廻った。この獣奴けだものめと突き離す竿の先から、岩のすそを尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
 急灘きゅうなんを落ち尽すとむこうから空舟からふねのぼってくる。竿も使わねば、櫂は無論の事である。岩角に突っ張った懸命のこぶしを収めて、肩から斜めに目暗縞めくらじまからめた細引縄に、長々と谷間伝いを根限り戻り舟をいて来る。水行くほかに尺寸せきすんの余地だに見出みいだしがたき岸辺を、石に飛び、岩にうて、穿草鞋わらんじり込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手はかれてそそぐ渦の中に指先をひたすばかりである。うんと踏ん張る幾世いくよの金剛力に、岩は自然じねんり減って、引き懸けて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、牽綱ひきづなをわが勢にさからわぬほどに、すべらすためのはかりごとと云う。
「少しはおだやかになったね」と甲野さんは左右の岸に眼を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山のはるかの上に、なたの音が丁々ちょうちょうとする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿だ」と宗近君は咽喉仏のどぼとけを突き出して峰を見上げた。
れると何でもするもんだね」と相手も手をかざして見る。
「あれで一日働いて若干いくらになるだろう」
「若干になるかな」
「下から聞いてようか」
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつにはしっている。所々にこう云う場所がないとやはり行かんね」
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。ねがわくは船頭のさおを借りて、おれが、舟を廻したかった」
「君が廻せば今頃は御互に成仏じょうぶつしている時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ちった。
「そう困った日にゃほうが付かない。御手本が無くなる訳だ」
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
肝胆相照かんたんあいてらすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものにちがいない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
 甲野さんは黙然もくねんとして、船の底を見詰めた。言うものは知らずとむかし老子が説いた事がある。
「ハハハハ僕は保津川ほづがわと肝胆相照らした訳だ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手をたたく。
 乱れ起る岩石を左右に※(「榮の木に代えて糸」、第3水準1-90-16)めぐる流は、いだくがごとくそと割れて、半ばみどりを透明に含む光琳波こうりんなみが、早蕨さわらびに似たる曲線をえがいて巌角いわかどをゆるりと越す。河はようやく京に近くなった。
「その鼻を廻ると嵐山らんざんどす」と長いさおこべりのうちへし込んだ船頭が云う。鳴るかいに送られて、深いふちすべるように抜け出すと、左右の岩がおのずから開いて、舟は大悲閣だいひかくもとに着いた。
 二人は松と桜と京人形のむらがるなかにい上がる。幕とつらなるそでの下をぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。
 赤松の二抱ふたかかえたてに、大堰おおいの波に、花の影の明かなるを誇る、橋のたもと葭簀茶屋よしずぢゃやに、高島田が休んでいる。昔しのまげを今の世にしばし許せとかぶ瓜実顔うりざねがおは、花に臨んで風にえず、俯目ふしめに人を避けて、名物の団子をながめている。薄く染めた綸子りんず被布ひふに、正しく膝を組み合せたれば、下に重ねるきぬの色は見えぬ。ただ襟元えりもとより燃え出ずる何の模様の半襟かが、すぐ甲野さんの眼に着いた。
「あれだよ」
「あれが?」
「あれがこといた女だよ。あの黒い羽織は阿爺おやじに違ない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
 瓢箪ひょうたんえいを飾る三五の癡漢うつけものが、天下の高笑たかわらいに、腕を振ってうしろから押して来る。甲野さんと宗近さんは、たいを斜めにえらがる人を通した。色の世界は今がさかりである。

        六

 丸顔にうれい少し、さっうつ襟地えりじの中から薄鶯うすうぐいすらんの花が、かすかなるを肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子いとこはこんな女である。
 人に示すときは指を用いる。四つをたなごころに折って、余る第二指のありたけにあれぞとす時、指す手はただ一筋のまぎれなく明らかである。五本の指をあれ見よとことごとく伸ばすならば、西東は当るとも、当ると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五指を並べたような女である。受ける感じが間違っているとは云えぬ。しかし変だ。物足らぬとは指点す指の短かきに過ぐる場合を云う。足り余るとは指点す指の長きに失する時であろう。糸子は五指を同時に並べたような女である。足るとも云えぬ。足り余るとも評されぬ。
 人に指点す指の、ほっそりと爪先つまさきに肉を落すとき、明かなる感じは次第に爪先に集まって焼点しょうてん構成かたちづくる。藤尾ふじおの指は爪先のべにを抜け出でて縫針のがれるに終る。見るものの眼は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得過ぎたものは欄干らんかんを渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れがある。
 藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらく御目にかかりませんね。よくいらしった事」と藤尾は主人役に云う。
「父一人で忙がしいものですから、つい御無沙汰ごぶさたをして……」
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
向島むこうじまは」
「まだどこへも行かないの」
 うちにばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の眼尻には答えるたびに笑の影がす。
「そんなに御用が御在おありなの」
「なに大した用じゃないんですけれども……」
 糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
 二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行くみちである。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の向側むこうがわへ連れて行こうとした。相手は墓に向側のある事さえ知らなかった。
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この眼は、このそでは、この詩とこの歌は、なべ、炭取のたぐいではない。美くしい世に動く、美しい影である。実用の二字をかむらせられた時、女は――美くしい女は――本来の面目を失って、無上の侮辱を受ける。
はじめさんは、いつ奥さんを御貰いなさるおつもりなんでしょう」と話しだけは上滑うわすべりをして前へ進む。糸子は返事をする前に顔をげて藤尾を見た。戦争はだんだん始まって来る。
「いつでも、来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの」
 今度は藤尾の方で、返事をする前に糸子をじっと見る。針は真逆まさかの用意に、なかなかひとみうちには出て来ない。
「ホホホホどんな立派な奥さんでも、すぐ出来ますわ」
「本当にそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へからまってくる。藤尾はちょっと逃げて置く必要がある。
「どなたか心当りはないんですか。はじめさんが貰うときまれば本気にがしますよ」
 黐竿もちざおは届いたか、届かないか、分らぬが、鳥は確かに逃げたようだ。しかしもう一歩進んで見る必要がある。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
 糸子はきわどいところを少し出過ぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出過ぎるとはたかれる。
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる捜索さぐりの綱を、ぷつりと切って、さかさまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
「なぜ?」と首を傾ける。
 放つ矢のあたらぬはこちらの不手際ふてぎわである。あたったのに手答てごたえもなくよそおわるるは不器量ふきりょうである。女は不手際よりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下唇をんだ。ここまでして来てとどまるは、ただ勝つ事を知る藤尾には出来ない。
「あなたはわたしの姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で云う。
「あらっ」と糸子の頬にわれを忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心のうち冷笑あざわらって引き上げる。
 甲野こうのさんと宗近むねちか君と相談の上取りきめた格言に云う。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。両人ふたりの妹は肝胆の外廓そとぐるわで戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と云った。
 ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追いけられて、下宿の部屋のなかをぐるぐると廻った。何度廻っても逃げ延びられそうもない時、過去の友達に逢って、過去と現在との調停を試みた。調停は出来たような、出来ないような訳で、自己は依然として不安の状態にある。度胸を据えて、追っ懸けてくるものをつかまえる勇気は無論ない。小野さんはやむを得ず、未来を望んでけ込んで来た。袞竜こんりょうの袖に隠れると云うことわざがある。小野さんは未来の袖に隠れようとする。
 小野さんは蹌々踉々そうそうろうろうとして来た。ただ蹌々踉々の意味を説明しがたいのが残念である。
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上にせる従容しょうようの紋付を、まだあつらえていない。二十世紀の人は皆この紋付もんつきを二三着ずつ用意すべしと先の哲学者が述べた事がある。
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。便たよる未来がほこさかしまにして、過去をほじり出そうとするのはなさけない。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。大抵たいていうそ渡頭ととうの舟である。あるから乗る。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
 小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの欽吾きんごさんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。――兄なんぞはそりゃ呑気のんきよ。少し寝られなくなればいいと思うわ」
「ホホホホそれでもうちの兄より好いでしょう」
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退けたが、急に気がついて、羽二重はぶたえ手巾ハンケチを膝の上でくちゃくちゃに丸めた。
「ホホホホ」
 唇の動く間から前歯のかどいろどる金の筋がすっと外界にうつる。敵は首尾よくわが術中におちいった。藤尾は第二の凱歌を揚げる。
「まだ京都から御音信おたよりはないですか」と今度は小野さんが聞き出した。
「いいえ」
「だって端書はがきぐらい来そうなものですね」
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが? 御叔母おばさんが? 鉄砲玉でたくさんよ。だから早く御嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか、心配でいけないんです」
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
 藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶるとふるえる。
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、手巾ハンケチを出して、薄い口髭くちひげをちょっとでる。かすかなにおいがぷんとする。強いのは下品だと云う。
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都のかたはじめさんに御世話なさいよ。京都には美人が多いそうじゃありませんか」
 小野さんの手巾はちょっといきおいを失った。
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな奇麗きれいだと書いてあるのよ」
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
無精ぶしょうに似合わない事ね。何と」
隣家となりの琴は御前よりうまいって」
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より別嬪べっぴんだと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんにっちゃかなわない」
「でも、あなたの事はめてありますよ」
「おや、何と」
「御前より別嬪べっぴんだ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだ事」
 藤尾は得意と軽侮の念をまじえたる眼を輝かして、すらりと首をうしろに引く。たてがみに比すべきものの波を起すばかりに見えたるなかに、玉虫貝のすみれのみが星のごとく可憐かれんの光を放つ。
 小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん三条さんじょう蔦屋つたやと云う宿屋がござんすか」
 底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、すがる未来に全く吸い込まれたる人は、刹那せつな戸板返といたがえしにずどんと過去へ落ちた。
 追い懸けて来る過去をがるるは雲紫くもむらさきに立ちのぼ袖香炉そでこうろけぶる影に、縹緲ひょうびょうの楽しみをこれぞと見極みきわむるひまもなく、むさぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶いっさつに、結ばぬ夢はめて、さかしまに、われは過去に向って投げ返される。草間蛇そうかんだあり、容易にせいを踏む事を許さずとある。
蔦屋つたやがどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿とまってるんですって。だから、どんなとこかと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な旅屋はたごやじゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴がきこえて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。小野さんなら、きっと御気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の隣家おとなりで美人が琴をいてるのを、気楽に寝転ねころんで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
 小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、とこの山吹を無意味にながめている。
「好いわね」と糸子が代理に答える。
 詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわねぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴のも、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像すると面白いが出来ますよ。どんな所としたらいいでしょう」
 家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意をしかねる。らぬ事と黙ってひかえているより仕方がない。小野さんは是非共口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――まわえんで、加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょう」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くにけむるように見えるんです。その上に東山が――東山でしたね奇麗なまあるい山は――あの山が、青い御供おそなえのように、こんもりとかすんでるんです。そうして霞のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首をかたげる。
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
 女詩人じょしじんの空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美くしい世をぶち壊しに生れて来たも同様である。藤尾は少しく眉を寄せる。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
 五重の塔がどうもするわけはない。刺身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
 御機嫌にさからった時は、必ず人をもってわびを入れるのが世間である。女王の逆鱗げきりんなべかま味噌漉みそこし御供物おくもつでは直せない。役にも立たぬ五重の塔をかすみのうちに腫物はれもののように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
 藤尾のまゆはぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「御気にさわったの――私が悪るかったわ。本当に五重の塔は面白いのよ。御世辞じゃない事よ」
 針鼠はりねずみでれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬ前にどうかしなければならぬ。
 五重の塔を持ち出せばなおおこられる。琴のは自分に取って禁物である。小野さんはどうして調停したら好かろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に軽蔑けいべつを招く。向うの話題に着いて廻って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手際ではちとむずかし過ぎるようだ。
「小野さん、あなたには分るでしょう」と藤尾の方から切って出る。糸子は分らず屋として取りけられた。女二人を調停するのは眼の前にこころよからぬ言葉の果し合を見るのがいやだからである。文錦あやにしきやさしきまゆに切り結ぶ火花の相手が、相手にならぬと見下げられれば、手を出す必要はない。取除者とりのけものを仲間に入れてやる親切は、取除者の方で、うるさくからまってくる時に限る。おとなしくさえしていれば、取り除けられようが、見下げられようが、当分自分の利害には関係せぬ。小野さんは糸子を眼中に置く必要がなくなった。切って出た藤尾にさえ調子ばつを合せていれば間違はない。
「分りますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね」と云った。小野さんは糸子を軽蔑けいべつする料簡りょうけんではない、ただ藤尾の御機嫌に重きを置いたまでである。しかもその答は真理である。ただ弱いものにつらく当る真理である。小野さんは詩のために愛のためにそのくらいの犠牲をあえてする。道義は弱いもののかしら耀かがやかず、糸子は心細い気がした。藤尾の方はようやく胸がく。
「それじゃ、その続をあなたに話して見ましょうか」
 人をのろわば穴二つと云う。小野さんは是非共ええと答えなければならぬ。
「ええ」
「二階の下に飛石が三つばかり筋違すじかいに見えて、その先に井桁いげたがあって、小米桜こごめざくられ擦れに咲いていて、釣瓶つるべが触るとほろほろ、井戸の中へこぼれそうなんです。……」
 糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだんり落ちて来る。重い雲がかさなり合って、弥生やよいをどんよりと抑えつける。昼はしだいに暗くなる。戸袋を五尺離れて、袖垣そでがきのはずれに幣辛夷してこぶしの花が怪しい色をならべて立っている。木立にかしてよく見ると、折々は二筋、三筋雨の糸が途切れ途切れにうつる。斜めにすうと見えたかと思うと、はや消える。空の中から降るとは受け取れぬ、地の上に落つるとはなおさら思えぬ。糸の命はわずかに尺余りである。
 居は気を移す。藤尾の想像は空と共にこまやかになる。
「小米桜を二階の欄干てすりから御覧になった事があって」と云う。
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜のうしろは建仁寺の垣根で、垣根の向うで琴のがするんです」
 琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと隣家となりの庭がすっかり見えるんです。――ついでにその庭の作りも話しましょうか。ホホホホ」と藤尾は高く笑った。冷たい糸が辛夷の花をきらりとかすめる。
「ホホホホ御厭おいやなの――何だか暗くなって来た事。花曇りがけ出しそうね」
 そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横ぎった、あとからすぐすいと追懸おいかけて来る。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はようやく繁くなる。
「おや本降ほんぶりになりそうだ事」
わたし失礼するわ、降って来たから。御話し中で失礼だけれども。大変面白かったわ」
 糸子は立ち上がる。話しは春雨と共にくずれた。

        七

 燐寸マッチる事一寸いっすんにして火はやみに入る。幾段の彩錦さいきんめくり終れば無地のさかいをなす。春興は二人ににんの青年に尽きた。狐の袖無ちゃんちゃんを着て天下を行くものは、日記をふところにして百年のうれいいだくものと共に帰程きていのぼる。
 古き寺、古きやしろ、神の森、仏の丘をおおうて、いそぐ事をせぬ京の日はようやく暮れた。倦怠けたるい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも判然はきとは映らぬ。またたくもものうき空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。
 一人いちにんの一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界になまぐさき雨を浴びる。一人の世界を方寸にまとめたる団子だんしと、他の清濁を混じたる団子と、層々相連あいつらなって千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果いんがの交叉点に据えて分相応の円周を右にかくし左に劃す。いかりの中心よりえがき去る円は飛ぶがごとくにすみやかに、恋の中心より振りきたる円周は※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおあと空裏くうりに焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは奸譎かんきつかんをほのめかしてめぐる。縦横に、前後に、上下しょうか四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき秦越しんえつの客ここに舟を同じゅうす。甲野こうのさんと宗近むねちか君は、三春行楽さんしゅんこうらくの興尽きて東に帰る。孤堂こどう先生と小夜子さよこは、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車ではしなくも喰い違った。
 わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界とひとの世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。けて飛ぶ事がある。あるいは発矢はっしと熱をいて無極のうちに物別れとなる事がある。すさまじき喰い違い方が生涯しょうがいに一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくしておのずからなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただうてただ別れるそでだけのえにしならば、星深き春の夜を、名さえびたる七条しちじょうに、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢ちょうたくする。自然その物は小説にはならぬ。
 二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとくまぼろしのごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、いかなる人の運命をいかに東のかたはこび去ろうか、さらに無頓着むとんじゃくである。世をおそれぬ鉄輪てつわをごとりとまわす。あとは驀地ましぐらやみく。離れて合うを待ちび顔なるを、いて帰るを快からぬを、旅に馴れて徂徠そらいを意とせざるを、一様につかねて、ことごとく土偶どぐうのごとくに遇待もてなそうとする。こそ見えね、さかんに黒煙くろけむりを吐きつつある。
 眠る夜を、生けるものは、提灯ちょうちんの火に、皆七条に向って動いて来る。梶棒かじぼうが下りるとき黒い影が急に明かるくなって、待合に入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影でうずまってしまう。残る京都は定めて静かだろうと思われる。
 京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、十把一束じっぱひとからげに夜明までに、あかるい東京へし出そうために、汽車はしきりに煙を吐きつつある。黒い影はなだれ始めた。――一団の塊まりはばらばらにほごれて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて車輛しゃりょうの戸をはたはたと締めて行く。忽然こつぜんとしてプラットフォームは、る人をいて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から眼につく。すると口笛くちぶえはるかのうしろで鳴った。車はごとりと動く。互の世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬに、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可憐なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと廻転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜の中に入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都はさびしいだろう。今頃は」
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。蔦屋つたや隣家となりに住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。随分ひっそり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くと云うから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、うちを畳んで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんはひとごとのように云う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は頭陀袋ずだぶくろたなへ上げた腰をおろしながら笑う。相手は半分顔をそむけて硝子越ガラスごしに窓の外をすかして見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。ごうと云う音のみする。人間は無能力である。
「随分早いね。何マイルくらいの速力か知らん」と宗近君が席の上へ胡坐あぐらをかきながら云う。
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。むこうたなに載せた誰やらの帽子が、傾いたまま、山高のいただきふるわせている。給仕ボーイが時々室内を抜ける。大抵の乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼をねむっていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
 汽車はごうと走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――あんまりだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのはめる時の言葉なんだがな」
「千里の江陵こうりょう一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
 甲野さんは返事を見合せて口をじた。会話はまた途切れる。汽車は例によってごうと走る。二人の世界はしばらくやみの中に揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長いを糸のごとく照らして動く電灯のもとにあらわれて来る。
 色白く、傾く月の影に生れて小夜さよと云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居すまいに、盂蘭盆うらぼん灯籠とうろうを掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊しょうりょうを、東京の苧殻おがらで迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。かかいかりは、おろす絹しなやかになさけすそすべり込む。
 紫におごるものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路につらなるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長たけながふるわせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただしたたる絵筆の勢に、うやむやを貫いてかっと染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底にとおって、当時そのかみを裏返す折々にさえあざやかに煮染にじんで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、春寒はるさむふところに暖めつつ、黒く動く一条の車にせて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものをきしめて行く。車は無二無三に走る。野にはみどりをき、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢をいだく人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇くらやみの遠きより切り放して、現実の前にげ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行きうて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
 隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごの下に白くなる疎髯そぜんを握ってはむかしを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引きこもって容易には出て来ない。漠々ばくばくたる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる。恋々れんれんたるわれを、つれなく見捨て去る当時そのかみに未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は胡麻塩ごましおまじりのひげをぐいと引いた」
「御前が京都へ来たのは幾歳いくつの時だったかな」
「学校をめてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に嵐山あらしやまへ連れていっていただいたでしょう。御母おかあさんといっしょに」
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の団子だんごもまだできなかったようだ」
「いえ御団子はありましたわ。そら三軒茶屋さんげんぢゃやそばべたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。御母おっかさんも丈夫だったがな。ああ早くくなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分あおい顔をしてね、そうして何だか始終しじゅうおどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
「性質が柔和やさしいんですよ」
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う性質たちの好い男でも、あのままほうって置けばそれぎり、どこへどう這入はいってしまうか分らない」
「本当にね」
 明かなる夢は輪をえがいて胸のうちにめぐり出す。死したる夢ではない。五年の底から浮きりの深き記憶を離れて、咫尺しせきに飛び上がって来る。女はただひとみらして眼前にせまる夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親のひげを忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋までむかえにくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
 夢は再びおどる。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちをける。老人は髯から手を放す。やがて眼をねむる。人も犬も草も木も判然はきと映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、まわりつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界をいだいて眠についた。
 長い車は包む夜を押し分けて、やらじとさかう風を打つ。追い懸くる冥府よみの神を、力ある尾にたたいて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青くけぶる向うが一面にり上がって来る。茫々ぼうぼうたる原野のおのずから尽きず、しだいに天にせまって上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、まなこを半天に走らす時、日輪の世は明けた。
 神のを空に鳴く金鶏きんけいの、つばさ五百里なるを一時にはばたきして、みなぎる雲を下界にひらく大虚の真中まんなかに、ほがらかに浮き出す万古ばんこの雪は、末広になだれて、八州のを圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫そうぼううちに、腰から下をうずめている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、むらさきひだあいの襞とをななめに畳んで、白きを不規則なる幾条いくすじに裂いて行く。見上ぐる人はう雲の影を沿うて、蒼暗あおぐら裾野すそのから、藍、紫の深きを稲妻いなずまに縫いつつ、最上の純白に至って、豁然かつぜんとして眼がめる。白きものは明るき世界にすべての乗客をいざなう。
「おい富士が見える」と宗近君が座をすべり下りながら、窓をはたりとおろす。広い裾野すそのから朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝らくだ毛布けっとを頭からかむったまま、存外冷淡である。
「そうか、なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
叡山えいざんよりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変軽蔑けいべつするね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退けて動いた」と宗近君は頭陀袋ずだぶくろたなから取りおろす。へやのなかはざわついてくる。明かるい世界へけ抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
 窓から肉の落ちた顔が半分出る。疎髯そぜんを一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に若干そこばくの銀貨を握って、へぎおりを取る左とかえに出す。御茶は部屋のなかで娘がいでいる。
「どうだね」と折のふたを取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには長芋ながいも白茶しらちゃに寝転んでいるかたわらに、一片ひときれの玉子焼が黄色くつぶされようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子ははしらずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てたはしながめながら、ぐっと飲む。
「もうじきですね」
「ああ、もう訳はない」と長芋ながいもが髯の方へ動き出した。
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗きれいに見えたね」と長芋が髯から折のなかへ這入はいる。
「小野さんは宿をがして置いて下すったでしょうか」
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、喫飯めしと返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で米沢絣よねざわがすりえりを掻き合せる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている手提革鞄てさげかばんまたいだ時、甲野さんは振り返って
「おい、蹴爪けつまずくと危ない」と注意した。
 硝子戸ガラスどを押しけて、隣りの車室へ足を踏み込んだ甲野さんは、真直まっすぐに抜ける気で、中途まで来た時、宗近君がうしろから、ぐいと背広の尻を引っ張った。
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、硬過こわすぎてね。――阿爺おとっさんのように年を取ると、どうもこわいのは胸につかえていけないよ」
「御茶でも上がったら……ぎましょうか」
 青年は無言のまま食堂へ抜けた。
 日ごと夜ごとを入り乱れて、尽十方じんじっぽうに飛びわす小世界の、あまねく天涯てんがいを行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きをいとわず植えつけしかいこの卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半よわを背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世はき落されて、大空の皮を奇麗にぎ取った白日の、隠すなかれと立ちのぼる窓のうちに、四人の小宇宙はぐうを作って、ここぞと互にれ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い卓布たくふを挟んでハムエクスを平げつつある。
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは献立表メヌーながめながら答える。
「いよいよ東京へ行くと見える。昨夕ゆうべ京都の停車場ステーションでは逢わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるであぶらばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は肉刺フォークさかしまにして大きな切身を口へ突き込む。
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々なさけなさそうに白い膏味あぶらみ頬張ほおばる。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
猶太人ユデアじんは豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たる事を云う。
猶太人ユデアじんはともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――給仕ボーイ紅茶を持って来い」
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女をはずしてしまう。
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に懸想けそうして……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手であごささえながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先にえたままぼんやり向うを見ている。
蜜柑みかんが食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」とごうも心配にならない気色けしきで云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と挨拶あいさつも聞く料簡りょうけんはなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を真面目まじめに聞き出した。
「糸公か。あいつは、から赤児ねんねだね。しかし兄思いだよ。狐の袖無ちゃんちゃんを縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ肱突ひじつきでもこしらえてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
 肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面にひろげて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかにれ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる明日あすの世界を擁して新橋の停車場ステーションに着く。
「さっきけて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
 四個の小世界は、停車場ステーションに突き当って、しばらく、ばらばらとなる。

        八

 一本の浅葱桜あさぎざくらが夕暮を庭に曇る。拭き込んだえんは、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の長火鉢ながひばち手取形てとりがた鉄瓶てつびんたぎらして前にはしぼ羽二重はぶたえ座布団ざぶとんを敷く。布団の上には甲野こうのの母がひんよくすわっている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、かんすじが裏を通って額へ突き抜けているらしい上部うわべを、浅黒く膚理きめの細かい皮が包んで、外見だけは至極しごく穏やかである。――針を海綿にかくして、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に膏薬こうやくって創口きずぐちを快よく慰めよ。出来得べくんばくちびるを血の出る局所にけて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨をあらわすものはほろぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。
 静かな椽に足音がする。今おろしたかと思われるほどの白足袋しろたびを張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚い※(「ころもへん+施のつくり」、第3水準1-91-72)ふきの椽に引き擦るを軽く蹴返けかえしながら、障子しょうじをすうと開ける。
 居住いずまいをそのままの母は、濃いまゆを半分ほど入口に傾けて、
「おや御這入おはいり」と云う。
 藤尾ふじおは無言であとを締める。母のむこうに火鉢を隔ててすらりと坐った時、鉄瓶てつびんはしきりに鳴る。
 母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を俯目ふしめに眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
 口多き時にまこと少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春はきつつある。
 藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
 親、子の眼は、はたと行き合った。真は一瞥いちべつこもる。熱にえざる時は骨をあらわす。
「ふん」
 長煙管ながぎせる煙草たばこの殻をちょうとはたく音がする。
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、彼人あのひと料簡りょうけんばかりは御母おっかさんにも分らないね」
 雲井の煙は会釈えしゃくなく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来てもおんなじ事ですね」
「同じ事さ。生涯しょうがいあれなんだよ」
 御母おっかさんのかんの筋は裏から表へ浮き上がって来た。
うちぐのがあんなにいやなんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだからにくいんだよ。あんな事を云って私達わたしたち当付あてつけるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日きょうまでもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。え切らないっちゃありゃしない。彼人あのひとの顔を見るたんびに阿母おっかさん疳癪かんしゃくが起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、不知しらを切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
 藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪をはらむ。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多めったにあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、御廃およしなさい、阿母おっかさんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへこもって寝転んでるしさ。――そうして他人ひとには財産を藤尾にやって自分は流浪るろうするつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
宗近むねちか阿爺おとっさんの所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない性質たちですね。それより早く糸子いとこさんでももらってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの料簡りょうけんはとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
 母は鳴る鉄瓶てつびんおろして、炭取を取り上げた。隙間すきまなくしぶれた劈痕焼ひびやきに、二筋三筋あいを流す波をえがいて、真白ましろな桜を気ままに散らした、薩摩さつま急須きゅうすの中には、緑りを細くり込んだ宇治うじの葉が、ひるの湯にやけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾はく抜け出したかおりのなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底をたたくほどは、さほどとも思えぬが、ふちに近くようやく色を増して、濃き水はあわおもてに片寄せて動かずなる。
 母はらしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉炭さくらずみの白き残骸なきがらまったきをこぼちて、しんに潜む赤きものを片寄せる。ぬくもる穴のくずれたる中には、黒く輪切の正しきをえらんで、ぴちぴちとける。――室内の春光はくまでも二人ふたり母子ぼしに穏かである。
 この作者は趣なき会話を嫌う。猜疑さいぎ不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴かんかそきんの春をつかさどる人の歌めくあめしたに住まずして、半滴はんてき気韻きいんだに帯びざる野卑の言語を臚列ろれつするとき、毫端ごうたんに泥を含んで双手に筆をめぐらしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須きゅうすと、佐倉の切り炭をえがくは瞬時のかんぬすんで、一弾指頭いちだんしとうに脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球はむかしより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。うれしからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者のせつなき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近と云えば、はじめもよっぽど剽軽者ひょうきんものだね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」
 うまや鳥屋とやといっしょにあった。牝鶏めんどりの馬を評する語に、――あれは鶏鳴ときをつくる事も、鶏卵たまごを生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。普通なみのものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
 意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾はなめらかなほおに波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠ほうへいこうしょうの鉄砲玉は鉛をかしてる。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母はくまでも真面目まじめである。母には娘の笑った意味が分からない。
「御前はあの人をどう思ってるの」
 娘の笑は、はしなくも母の疑問を起す。子を知るは親にかずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえどもから天竺てんじくである。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
 母は鋭どきまゆの下から、娘をきっと見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための下拵したごしらえと見える。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。たけのこを輪切りにすると、こんな風になる。はりのあるまゆに風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になおこもる何物かがちょっとはためいてすぐ消えた。母は相槌あいづちを打つ。
「あんな見込のない人は、わたしも好かない」
 趣味のないのと見込のないのとは別物である。鍛冶かじかみかんと打ち、相槌はとんと打つ。されども打たるるは同じつるぎである。
「いっそ、ここで、判然はっきり断わろう」
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども阿爺おとっさんが、あの金時計をはじめにやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を玩具おもちゃにして、赤いたまばかり、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがっていて行くかも知れないが、それでも好いかって、冗談じょうだん半分にみんなの前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だになぞだと思ってるんですか」
「宗近の阿爺おとっさん口占くちうらではどうもそうらしいよ」
「馬鹿らしい」
 藤尾は鋭どい一句を長火鉢のかどたたきつけた。反響はすぐ起る。
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
 鎖の先に燃える柘榴石ガーネットは、蒔絵まきえ蘆雁ろがんを高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。おぼろとも化けぬ浅葱桜あさぎざくらが、暮近く消えて行くべき昼の命を、今少時しばしまもえんに、抜け出した高い姿が、振り向きながら、瘠面やさおもての影になった半面を、障子のうちに傾けて
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。障子しょうじのうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。
 同時に豊かなが宗近家の座敷にともる。静かなる夜を陽に返す洋灯ランプの笠に白き光りをゆかしくめて、唐草からくさを一面に高くたたき出した白銅の油壺あぶらつぼが晴がましくもよいに曇らぬ色を誇る。灯火ともしびの照らす限りは顔ごとににぎやかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この灯火ともしび周囲まわりに起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを恰好かっこうと思う。
「それじゃ相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)そうりんとうも見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられたあごはやむを得ず二重ふたえに折れている。頭はだいぶ禿げかかった。これを時々でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)た何ですか」と宗近君は阿爺おやじの前で変則の胡坐あぐらをかいている。
「アハハハハそれじゃ叡山えいざんへ何しに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、甲野こうのさん」
 甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織のえりを正しく坐っている。甲野さんが問いけられた時、※(「單+展」、第4水準2-4-51)にこやかな糸子の顔はうごいた。
「相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)はなかったようだね」と甲野さんは手をひざの上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
阿爺おとっさん何でも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと若狭わかさの国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは冗談じょうだんさ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に二重瞼ふたえまぶたの波を寄せた。
「一体御前方はただ歩行あるくばかりで飛脚ひきゃく同然だからいけない。――叡山には東塔とうとう西塔さいとう横川よかわとあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。灯火ともしびは明かに揺れる。糸子はそでを口へ当てて、くずしかかった笑顔の収まりぎわつむりを上げながら、ひとみを豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな作略さりゃくはある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
御叔父おじさん、東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか」
「やはり延暦寺えんりゃくじの区域だね。広い山の中に、あすこにかたまり、ここに一と塊まりと坊がかたまっているから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない」
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
とう修羅しゅら西さいは都に近ければ横川よかわの奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り、横川が一番さびしい、学問でもするに好い所となっている。――今話した相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)そうりんとうから五十丁も這入はいらなければ行かれない」
「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の船弁慶ふなべんけいにもあるだろう。――かようにそうろうものは、西塔さいとうかたわら住居すまいする武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ」
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――阿爺おとっさん叡山えいざんの総長は誰ですか」
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
開基かいきかい。開基は伝教大師でんぎょうだいしさ」
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体むかしの男は酔興だよ。ねえ甲野さん」
 甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は御前おまい、叡山のふもとで生れた人だ」
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う棒杭ぼうぐいが坂本に建っていましたよ」
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
 観ずるものは見ず。昔しの人はそうこそ無上むじょうなれと説いた。く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今せて杳然ようぜんと去るを思わぬが世の常である。堂に法華ほっけと云い、石に仏足ぶっそくと云い、※(「木+棠」、第3水準1-86-14)とう相輪そうりんと云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史をして吾事わがことおわると思うはしかばねいだいて活ける人を髣髴ほうふつするようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太上たいじょうは形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが叡山えいざんに登って叡山を知らぬはこの故である。
 過去は死んでいる。大法鼓だいほうこを鳴らし、大法螺だいほうらを吹き、大法幢だいほうとうてて王城の鬼門をまもりしむかしは知らず、中堂に仏眠りて天蓋てんがい蜘蛛くもの糸引く古伽藍ふるがらんを、いまさらのように桓武かんむ天皇の御宇ぎょうから堀り起して、無用の詮議せんぎに、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある閑人ひまじん所作しょさである。現在はこくをきざんでわれを待つ。有為ういの天下は眼前に落ちきたる。双のかいなは風をって乾坤けんこんに鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。
 ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山一刹いっさつの指揮によって、夜来やらい日来にちらいに面目を新たにするものじゃと思いめたように、※(「女+尾」、第3水準1-15-81)びびとして叡山を説く。説くはもとより青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山をえらんで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな贅沢ぜいたくになって行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホイスキーだのと云って……」
 宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外真面目まじめである。
阿爺おとっさん叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで蕎麦そばを食いに行くそうですよ」
「アハハハ真逆まさか
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それはのらくら坊主だろう」
「すると僕らはのらくら書生かな」
「御前達はのらくら以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
到底とてものらくらじゃ出来ない仕事ですよ」
「アハハハハ」と老人は大きな腹をり出して笑った。洋灯ランプかさ喫驚びっくりするくらいな声である。
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、僧侶そうりょにも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。何しろ古い寺だからね。あれは始めは一乗止観院いちじょうしかんいんと云って、延暦寺となったのはだいぶあとの事だ。その時分から妙なぎょうがあって、十二年間山へこもり切りに籠るんだそうだがね」
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする了見りょうけんかな」
と宗近君が今度は独語ひとりごとのように云う。
「修業するのさ。御前達もそうのらくらしないでちとそんな真似まねでもするがいい」
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令にそむく訳になりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へこもったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
 一座はどっとき出した。老人は首を少し上げて頭の禿をさかに撫でる。垂れ懸った頬の肉がふるえ落ちそうだ。糸子は俯向うつむいて声を殺したため二重瞼ふたえまぶたが薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから億劫おっくうだ。――欽吾きんごさんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
 いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでもこもる方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しかし阿母おっかさんが心配するだろう」
 甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人いちにんもない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇然びょうぜんとして天地のあいだかかっている。世界滅却の日をただ一人ひとり生き残った心持である。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
 敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
はじめにも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」
 老人は自分の心で、わが母の心をすいしている。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
 今夕こんせきの会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。

        九

 真葛まくずはら女郎花おみなえしが咲いた。すらすらとすすきを抜けて、くいある高き身に、秋風をひんよくけて通す心細さを、秋は時雨しぐれて冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降るしもに、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕あさゆうに頼み少なくなぐ。冬は五年の長きをいとわず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑にまずしさを知らぬ春の天下にまぎれ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴ふうきに色づくを、ひそかなる黄を、一本ひともとの細き末にいただいて、住むまじき世に肩身狭くはばかりの呼吸いきを吹くようである。
 今まではたまよりもあざやかなる夢をいだいていた。真黒闇まくらやみえた金剛石にわが眼を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左りも気にけるいとまもなかった。ふところに抱く珠の光りをに抜いて、二百里の道を遥々はるばると闇の袋より取り出した時、珠は現実の明海あかるみに幾分か往昔そのかみの輝きを失った。
 小夜子さよこは過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二重の関を隔ててう瀬はない。たまたまに忍んで来れば犬がえる。みずからも、わがる所ではないか知らんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風呂敷にかくしてなおさらにうたがいを路上に受くるような気がする。
 過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ一雫ひとしずくの油は容易に油壺あぶらつぼの中へ帰る事は出来ない。いやでも応でも水と共に流れねばならぬ。夢を捨てようか。捨てられるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨てれば夢の方で飛びついて来る。
 自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自てんでに働き出すと苦しい矛盾が起る。多くの小説はこの矛盾を得意にえがく。小夜子の世界は新橋の停車場ステーションへぶつかった時、劈痕ひびが入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。
 小野さんも同じ事である。打ちった過去は、夢のちりをむくむくとき分けて、古ぼけた頭を歴史の芥溜ごみためから出す。おやと思うに、ぬっくと立って歩いて来る。打ち遣った時に、生息いきの根をめて置かなかったのが無念であるが、生息は断わりもなくむこうで吹き返したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が気紛きまぐれの時節を誤って、暖たかき陽炎かげろうのちらつくなかによみがえるのはなさけない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追いつかれればいたわらねば済まぬ。生れてから済まぬ事はただの一度もした事はない。今後とてもする気はない。済まぬ事をせぬように、また自分にも済むように、小野さんはちょっと未来のそでに隠れて見た。むらさきの匂は強く、近づいて来る過去の幽霊もこれならばと度胸をえかける途端とたんに小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う。
阿父おとっさんは」と小野さんが聞く。
「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす翌日あしたより、親一人に、子一人に春忙がしき世帯は、れやすき髪にくしの歯を入れる暇もない。不断着の綿入めんいりさえ見すぼらしく詩人の眼にうつる。――よそおいは鏡に向ってらす、玻璃瓶裏はりへいり薔薇ばらを浮かして、軽く雲鬟うんかんひたし去る時、琥珀こはくの櫛は条々じょうじょうみどりを解く。――小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。これだから過去は駄目だと心のうちに語るものがある。
御忙おいそがしいでしょう」
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「御手伝に出るつもりでしたが、昨日きのう一昨日おとといも会がありまして……」
 日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただおのれよりは高過ぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は俯向うつむいて、ひざせた右手の中指に光る金の指輪を見た。――藤尾ふじおの指輪とは無論比較にはならぬ。
 小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い天井てんじょうの白茶けた板の、二た所まで節穴ふしあな歴然れっきと見える上、雨漏あまもりみをおかして、ここかしこと蜘蛛くもあざむすすがかたまって黒く釣りをけている。左から四本目の桟の中ほどを、杉箸すぎばしが一本横に貫ぬいて、長い方のはじが、思うほど下に曲がっているのは、立ち退いた以前の借主が通す縄に胸を冷やす氷嚢ひょうのうでもぶら下げたものだろう。次のを立て切る二枚の唐紙からかみは、洋紙にはくを置いて英吉利イギリスめいたあおい幾何きか模様を規則正しく数十個並べている。屋敷らしいふちの黒塗がなおさら卑しい。庭は二た間を貫ぬくえんに沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、幅は茶献上ちゃけんじょうほどもない。じょうに足らぬひのきが春に用なき、去年の葉をかたとがらして、せこけて立つうしろは、腰高塀こしだかべい隣家となりの話が手に取るように聞える。
 家は小野さんが孤堂こどう先生のために周旋したに相違ない。しかしきわめて下卑げびている。小野さんは心のうちにいや住居すまいだと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣そでがき辛夷こぶしを添わせて、松苔まつごけ葉蘭はらんの影に畳む上に、切り立ての手拭てぬぐいが春風にらつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
御蔭おかげさまで、好いうちが手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているならなさけない。ある人に奴鰻やっこうなぎおごったら、御蔭様で始めてうまい鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を軽蔑けいべつしたそうである。
 いじらしいのと見縊みくびるのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露いじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫がたたったからである。祟があると眼玉が三角になる。
「もっと好いうちでないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく恰好かっこうなのがなくって……」
と云いけると、小夜子は、すぐ、
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇けちな事を云うと思った。小夜子は知らぬ。
 細いおもてをちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。久留米絣くるめがすりは背広に変っている。五分刈ごぶがり光沢つやのある毛に変っている。――ひげは一躍して紳士の域にのぼる。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。えりおろし立てである。飾りには留針ピンさえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝ったひんの好い胴衣チョッキ隠袋かくしには――恩賜の時計が這入はいっている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。
 五年の間一日一夜ひとひひとよふところに忘られぬ命より明らかな夢の中なる小野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。西東にしひがし長短のたもとを分かって、離愁りしゅうとざ暮雲ぼうん相思そうしかんかれては、う事のうとくなりまさるこの年月としつきを、変らぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変る事と思い、雨降れば変る事と思い、月に花に変る事と思い暮らしていた。しかし、こうは変るまいと念じてプラット・フォームへ下りた。
 小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、健気けなげに生い立った阿蒙あもうの変りかたではない。色のめた過去をさかじ伏せて、目醒めざましき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急にこしらえ上げたような変りかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変りたくても変られぬ自分がうらめしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変ったと同然である。
 新橋へはむかえに来てくれた。車をやとって宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、蝸牛かたつむり親子して寝るいおりを借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も左様さように云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。
 プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。さい手提てさげの荷にはならず、持って貰うほどでもないのを無理に受取って、膝掛ひざかけといっしょに先へ行った、きざみ足のうしろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、遥々はるばると来た二人を案内するためではなく、時候おくれの親子を追い越してけ抜けるためのように見える。割符わりふとはうり二つを取ってつけてくらべるための証拠しるしである。天にかかる日よりもとうとしとまもるわが夢を、五年いつとせの長き香洩かもる「時」の袋から現在に引き出して、よも間違はあるまいと見較べて見ると、現在ははやくも遠くに立ち退いている。握る割符は通用しない。
 始めは穴を出でてまばゆき故と思う。少しれたらばと、く日をつえに、一度逢い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよ丁寧になる。丁寧になるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。
 やさしく咽喉のどべり込む長いあごを奥へ引いて、上眼に小野さんの姿をながめた小夜子は、変る眼鏡を見た。変るひげを見た。変る髪のふうと変るよそおいとを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息ためいきいた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
 小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶のよりぎゃくに戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと嵐山あらしやまへ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」
「そのくらいでしょう、嵐山あらしやまは早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
 花をる人は星月夜のごとくおびただしい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり阿父おとっさんとですか」
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜかなさけない心持がする。小野さんは出直した。
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。大悲閣だいひかくの温泉などは立派に普請ふしんが出来て……」
「そうですか」
小督こごうつぼねの墓がござんしたろう」
「ええ、知っています」
彼所あすこいらはみんな掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」
毎年まいとし俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」
 近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑沓ざっとうしませんでしたね」
 小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと真向まむきに返る。金縁の眼鏡めがねと薄黒い口髭くちひげがすぐひとみうつる。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話のいとくちの、するすると抜け出しそうな咽喉のどおさえて、黙って口をつぐんだ。調子づいてかどを曲ろうとする、どっこいと突き当る事がある。ひんのいい紳士淑女の対話も胸のうちでは始終しじゅう突き当っている。小野さんはまた口を開く番となる。
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのはとしばかりで、いたずらに育った縞柄しまがらと、用い古るしたことうらめしい。琴はおいのまま床の間に立て掛けてある。
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
 小夜子は何と答えていいか分らない。ひざに手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶みみたぶが、行儀よく、びんの末をくぐり抜けて、ほおくび続目つぎめが、ぼかしたように曲線を陰にいて去る。見事なである。惜しい事に真向まむきすわった小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退き具合、これほどの光線に、これほどの色の付き具合は滅多めったに見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げのかかとを、地にり込むほどにめぐらして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向まむきに坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先にひるがえるそでが、濃きむらさき眉間みけんかすめてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。
「また来ましょう」と背広せびろの胸を合せる。
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞよろしく」
「あの……」と口籠くちごもっている。
 相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ち兼ねる。早くとき立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。
「あの……父が……」
 小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出しにくくなる。
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは没義道もぎどうに離れて行く。未練も会釈えしゃくもなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘然もうぜんとして、えんに近く坐った。
 降らんとして降りそこねた空の奥からかすかな春の光りが、淡き雲にさえぎられながら一面に照り渡る。長閑のどかさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶うっとうしい。どこやらで琴のがする。わがくべきはちりも払わず、更紗さらさの小包を二つ並べた間に、袋のままでさびしく壁に持たれている。いつ欝金うこんおいける事やら。あの曲はだいぶれた手に違ない。片々に抑えて片々にはじく爪の、安らかに幾関いくせきを往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は甲斐甲斐かいがいしくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日きのうのように思う。ちらちらに昼のほたると竹垣にしたた※(「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19)れんぎょうに、朝から降って退屈だと阿父様とうさまがおっしゃる。繻子しゅすの袖口は手頸てくびすべりやすい。絹糸を細長く目にいたまま、針差のくれないをぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、あざやかに眼をませと、の字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度かねた。曲はたしか小督こごうであった。狂う指の、き昼を、くちゃくちゃにみこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、ことの京である。なかでも琴は京によう似合う。琴のすきな自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、やみを破るからすの、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴ピアノでも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父とうさまは女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世はいずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、今日きょう明日あすと、その日にはかる命は、あやあやうい。……
 格子こうしががらりとく。いにしえの人は帰った。
「今帰ったよ。どうもひどほこりでね」
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所はいやな所だ。京都の方がよっぽどいいね」
「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」
「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で足袋たびをはたいて座に直った老人は、
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と云ったが、げて来た大きな包をからげた細縄の十文字を、丁寧に一文字ずつほどき始める。
「今日はね。座布団ざぶとんを買おうと思って、電車へ乗ったところが、つい乗り替を忘れて、ひどい目にった」
「おやおや」と気の毒そうに微笑ほほえんだ娘は
「でも布団は御買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買って来たが、御蔭おかげで大変遅れてしまったよ」と包みのなかから八丈はちじょうまがいの黄なしまを取り出す。
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなた御敷なさいよ」
阿父おとっさんも敷くから、御前も敷いて御覧。そらなかなか好いだろう」
「少し綿が硬いようね」
「綿はどうせ――が価だから仕方がない。でもこれを買うために電車に乗りそくなってしまって……」
「乗替をなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。忌々いまいましいから帰りには歩いて来た」
御草臥おくたびれなすったでしょう」
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭でひげも何もほこりだらけになっちまった。こら」と右手めての指を四本ならべてくしの代りにあごの下をくと、果して薄黒いものが股について来た。
「御湯に御這入おはいんなさらないからですよ」
「なに埃だよ」
「だって風もないのに」
「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」
「ええ随分ひどくってよ」
「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」とひさしの外を下からのぞいて見る。空は曇る心持ちをかして春の日があやふやに流れている。琴のがまだきこえる。
「おや琴を弾いているね。――なかなかうまい。ありゃ何だい」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ろ。ハハハハ阿父おとっさんには分らないよ。琴を聴くと京都の事を思い出すね。京都は静でいい。阿父のような時代後れの人間は東京のようなはげしい所には向かない。東京はまあ小野だの、御前だののような若い人が住まう所だね」
 時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔にえみを浮べて見せる。老人は世にうといわれを憐れむ孝心と受取った。
「アハハハハ本当に帰ろうかね」
「本当に帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ冗談じょうだんを……」
 娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野は何かね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「何にも云わない?――待ってれば好いのに」
「急ぐからまた来るって御帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」
阿父様おとうさま
「何だね」
「小野さんは御変りなさいましたね」
「変った?――ああ大変立派になったね。新橋でった時はまるで見違えるようだった。まあ御互に結構な事だ」
 娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。
「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」
 あとの句は鳴る糸の尾を素足に踏むごとく、孤堂先生の頭に響いた。
「変っていないたって?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。
「小野が何か云ったかい」
「いいえ別に……」
 同じ質問と同じ返事はまた繰返される。水車みずぐるまを踏めば廻るばかりである。いつまで踏んでも踏み切れるものではない。
「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気がふさぐものでね。今日なぞは阿父おとっさんなどにもよくない天気だ」
 気がふさぐのは秋である。もちと知って、酒のとがだと云う。慰さめられる人は、馬鹿にされる人である。小夜子は黙っていた。
「ちっとことでもいちゃどうだい。気晴きばらしに」
 娘は浮かぬ顔を、愛嬌あいきょうに傾けて、床の間を見る。じくむなしく落ちて、いたずらに余る黒壁の端を、たてって、欝金うこんおいが春を隠さず明らかである。
「まあしましょう」
「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。近々きんきん博士論文を出すんだそうで……」
 小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今のおのれには無益である。
「だから落ちついていないんだよ。学問にると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なにゆっくりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? 何だって」
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから一日いちんち都合をして貰って、いっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。御前話したかい」
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口をかなくっちゃいけない」
 口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。阿父おとっさんが手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。叱ったんじゃない。――時に晩の御飯はあるかい」
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに御菜おさいはいらないよ。――頼んで置いた婆さんは明日あしたくるそうだ。――もう少し慣れると、東京だって京都だって同じ事だ」
 小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。

        十

 なぞの女は宗近むねちか家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団たどんが水晶と光る。禅家では柳は緑花はくれないと云う。あるいは雀はちゅちゅでからすはかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人をなべの中へ入れて、方寸ほうすん杉箸すぎばしぜ繰り返す。芋をもってみずからおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石ダイヤモンドのようなものである。いやに光る。そしてその光りの出所でどころが分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽かぐらめんには二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。
 真率なる快活なる宗近家の大和尚だいおしょうは、かく物騒な女があめしたに生をけて、しきりに鍋の底をき廻しているとは思いも寄らぬ。唐木からきの机に唐刻の法帖ほうじょうを乗せて、厚い坐布団の上に、信濃しなのの国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中からはちうたっている。謎の女はしだいに近づいてくる。
 悲劇マクベスの妖婆ようばなべの中に天下の雑物ぞうもつさらい込んだ。石の影に三十日みそかの毒を人知れず吹くよるひきと、燃ゆる腹を黒きかく※(「虫+原」、第3水準1-91-60)いもりきもと、蛇のまなこ蝙蝠かわほりの爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果ててとがれる爪は、世をのろ幾代いくよさびせ尽くしたるくろがね火箸ひばしを握る。煮え立った鍋はどろどろの波をあわと共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。
 それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは真昼間まっぴるまである。鍋の底からは愛嬌あいきょういて出る。ただようは笑の波だと云う。ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからがひんよく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ能掛のうがかりである。大和尚だいおしょうこわがらぬのも無理はない。
「いや。だいぶ御暖おあったかになりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きなてのひらを出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。
「そののちは……」
「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい無人ぶにんだもので、出よう出ようと思いながら、とうとう御無沙汰ごぶさたになりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐあとをつける。
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
 黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々欽吾きんご藤尾ふじおが出まして、御厄介ごやっかいにばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」
 頭はここでようやく上がる。阿父おとっさんはほっと気息いきをつく。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやくあったかになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが
「どうです御宅の桜は。今頃はちょうどさかりでしょう」で結んでしまった。
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日ぜんがちょうど観頃みごろでございましたが、一昨日いっさくじつの風で、だいぶいためられまして、もう……」
「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え? 浅葱桜あさぎざくら。そうそう。あの色が珍らしい」
「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などはすごいような心持が致します」
「そうですか、アハハハハ。荒川あらかわには緋桜ひざくらと云うのがあるが、浅葱桜あさぎざくらは珍らしい」
「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も好事家こうずかに云わせると百幾種とかあるそうだから……」
「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間もはじめが京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気のんきなものでアハハハハ。――どうです粗菓そかだが一つ御撮おつまみなさい。岐阜ぎふ柿羊羹かきようかん
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、うまいものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人ははしを上げて皿の中からぎ取った羊羹の一片ひときれを手に受けて、ひとりでむしゃむしゃ食う。
「嵐山と云えば」と甲野こうのの母は切り出した。
「せんだってじゅう欽吾きんごがまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭おかげ様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者わがままものでございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友ほうゆうと申すものがただの一人もございませんそうで……」
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合つきあいが出来にくくなる。アハハハハ」
「私には女でいっこう分りませんが、何だかふさいでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。うちにさえいるとあなた、いもとにばかりからかって――いや、あれでも困る」
「いえ、誠に陽気で淡泊さっぱりしてて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人あれの病気のせいだから、今さら愚癡ぐちをこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」
「ごもっともで」と宗近老人は真面目まじめに答えたが、ついでに灰吹はいふきをぽんとたたいて、銀の延打のべうち煙管きせるを畳の上にころりと落す。雁首がんくびから、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」
「せんだってうちへ見えた時などはみんなと馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」
「へええ」これは仔細しさいらしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。
「そりゃ、どうも」
彼人あれの病気では、今までどのくらい心配したか分りません」
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
 なぞの女は自分の思う事をひとに云わせる。手をくだしては落度になる。向うですべって転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような泥海ぬかるみを知らぬに用意するばかりである。
「その結婚の事を朝暮あけくれ申すのでございますが――どうっても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国でくなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日いちじつも早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭からねつけられるのみで……」
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母おっかさんだけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人背負しょい込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳いくつになっても心配は絶えませんね」
此方こちら様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶つれあいに合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母おっかさんわたしはこんな身体からだで、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾にむこを貰って、阿母おっかさんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」
 謎の女は和尚おしょうをじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。紫檀したんふたを丁寧にかぶせる。煙管きせるは転がった。
「なるほど」
 和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申してうみの母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口をきますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」
「ふん、困るね」
 和尚は手提てさげの煙草盆の浅い抽出ひきだしから欝金木綿うこんもめん布巾ふきんを取り出して、くじらつる鄭重ていちょうに拭き出した。
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云いにくければ」
「いろいろ御心配を掛けまして……」
「そうして見るかね」
「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気にさわらないように云うつもりですがね」
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそあとが大変な騒ぎになりますから……」
「弱るね、そう、かんが高くなってちゃあ」
「まるで腫物はれものさわるようで……」
「ふうん」と和尚おしょうは腕組を始めた。ゆきが短かいので太いひじ無作法ぶさほうに見える。
 なぞの女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は疾言しつげん遽色きょしょくである。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口をそろえて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の鄭重ていちょうなのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。
「もし彼人あれが断然うちを出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」
むこかね。聟となると……」
「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」
左様さようさね」と和尚は単純な首を傾けたが
「藤尾さんは幾歳いくつですい」
「もう、明けてになります」
「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげたてのひらを下からのぞき込むようにする。
「いえもう、身体なりばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」
「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」
 話はほうって置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。
「こちらでも、糸子さんやら、はじめさんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑気のんきな女だとおぼし召すでございましょうが……」
「いえ、どう致して、実はわたしの方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――はじめも外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、今日明日きょうあすと云う訳にも行かないですが、おそかれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あのかたなら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」
「はい」
「どうでしょう、阿母おっかさんの御考は」
「あのとおり行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」
「御不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったりかなったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ彼人あれに困りますので。一さんは宗近家を御襲おつぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、阿父おとっさんがいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなればくなった人も満足だろう」
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶つれあいさえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくってもよろしい――のでございますが」
 謎の女の云う事はしだいに湿気しっけを帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。かろうじて謎の女の謎をここまで叙しきたった時、筆は、一歩も前へ進む事がいやだと云う。日を作り夜を作り、海とおかとすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。
 日のあたる別世界には二人の兄妹きょうだいが活動する。六畳の中二階ちゅうにかいの、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽しがらきはちに、わだかまる根を盛りあげて、くの字の影をえんに伏せる。一間いっけん唐紙からかみは白地に秦漢瓦鐺しんかんがとうの譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮のとこは、軸を嫌って、籠花活かごはないけに軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
 糸子は床の間に縫物の五色を、あやと乱して、糸屑いとくずのこぼるるほどの抽出ひきだしを二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の行方ゆくえは、一針ごとに春をきざかすかな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
 腹這はらばい弥生やよいの姿、寝ながらにして天下の春を領す。物指ものさしの先でしきりに敷居をたたいている。
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところであんまもうかりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」
「何がって、この松さ。こりゃたしか阿父おとっさん苔盛園たいせいえんで二十五円で売りつけられたんだろう」
「ええ。大事な盆栽よ。転覆ひっくりかえしでもしようもんなら大変よ」
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺おとっさんも阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちらかつぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」
「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」
「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃわたしは無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」
「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」
「だって証拠があるんですもの」
「馬鹿の証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大嫌よ」
「へええ、今度こんだこっちの大発明だ。ハハハハ。きらいなものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」
阿父おとうさまが御自分で持っていらしったのよ」
「何だって」
「日があたって二階の方が松のために好いって」
阿爺おやじも親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」
「なに、そりゃ、ちょっと。発句ほっく?」
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、本当の発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」
「これ? これは伊勢崎いせざきでしょう」
「いやにぴかつくじゃないか。兄さんのかい」
阿爺おとうさまのよ」
阿爺おとっさんのものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の袖無ちゃんちゃん以後御見限おみかぎりだね」
「あらいやだ。あんなうそばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」
「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」
「おや、ひどい襟垢えりあかだ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんはあぶらが多過ぎるんですよ」
「何が多過ぎても、もう駄目だよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」
「新らしいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの親父おとっさんの拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」
「何が」
「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには御古おふるばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある陣笠じんがさをかぶれと云うかも知れない」
「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」
「達者なのは口だけか。可哀想かわいそうに」
「まだ、あるのよ」
 宗近君は返事をやめて、欄干らんかん隙間すきまから庭前にわさきの植込を頬杖ほおづえに見下している。
「まだあるのよ。一寸ちょいと」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんとつまんだ合せ目を、見るけて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。
「まだあるのよ。兄さん」
「何だい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の針孔めど障子しょうじへ向けて、可愛かわいらしい二重瞼ふたえまぶたを細くする。宗近君は依然として長閑のどかな心を頬杖に託して庭をながめている。
「云って見ましょうか」
「う。うん」
 下顎したあごは頬杖で動かす事が出来ない。返事は咽喉のどから鼻へ抜ける。
あし。分ったでしょう」
「う。うん」
 紺の糸をくちびる湿しめして、指先にとがらすは、射損いそくなった針孔を通す女のはかりごとである。
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の阿母おっかさん御出おいでよ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうていかなわない」
「でもひんがいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんがきらいじゃ、世話の仕栄しばえがない」
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の袖無ちゃんちゃんの御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島むこうじまは駄目だが荒川あらかわは今がさかりだよ。荒川から萱野かやのへ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山たんとはないぜ」
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指をしてちょうだい」
「そうして裁縫しごとを勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石ダイヤモンド指環ゆびわを買ってやる」
うまいのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらにはさみはなくって」
「その蒲団ふとんの横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落しゃれかい」
「これ? 奇麗きれいでしょう。縮緬ちりめん御申おさるさん」
「御前がこしらえたのかい。感心にうまく出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」
「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな椽側えんがわへ煙草の灰を捨てるのは御廃およしなさいよ。――これをして上げるから」
「なんだいこれは。へええ。板目紙いためがみの上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。閑人ひまじんだなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる? 糸のくずをかい。へええ」
「兄さんは藤尾さんのようなかたが好きなんでしょう」
「御前のようなのも好きだよ」
「私は別物として――ねえ、そうでしょう」
いやでもないね」
「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」
「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の叔母おばさんはしきりに密談をしているね」
「ことにると藤尾さんの事かも知れなくってよ」
「そうか、それじゃ聴きに行こうか」
「あら、御廃しなさいよ――わたし、火熨ひのしがいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」
「自分のうちで、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」
「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」
「どうも剣呑けんのんだね。それじゃこっちも気息いきを殺して寝転ねころんでるのか」
「気息を殺さなくってもいいわ」
「じゃ気息を活かして寝転ぶか」
「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」
「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
 裁縫しごとの手をめて、火熨に逡巡ためらっていた糸子は、入子菱いりこびしかがった指抜をいて、※(「年+鳥」、第3水準1-94-59)ときいろしろかねの雨を刺す針差はりさしを裏に、如鱗木じょりんもくの塗美くしきふたをはたと落した。やがて日永ひながの窓に赤くなった耳朶みみたぶのあたりを、平手ひらてで支えて、右のひじを針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れたひざを斜めにくずした。襦袢じゅばんの袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なくすべって、くっきりと普通つねよりは明かなる肉の柱が、ちょうと傾く絹紐リボンの下にあざやかである。
「兄さん」
「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」
「藤尾さんは駄目よ」
「駄目だ? 駄目とは」
「だって来る気はないんですもの」
「御前聞いて来たのか」
「そんな事がまさか無躾ぶしつけに聞かれるもんですか」
「聞かないでも分かるのか。まるで巫女いちこだね。――御前がそう頬杖ほおづえを突いて針箱へたれているところは天下の絶景だよ。妹ながら天晴あっぱれな姿勢だハハハハ」
沢山たんと御冷おひやかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」
 云いながら糸子は首をささえた白い腕をぱたりと倒した。そろった指が針箱の角をおさえるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、し付けられた手のあと耳朶みみたぶ共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う二重ふたえまぶたは、涼しいひとみを、長いまつげに隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴をひじねて起き上がる。
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。派出はでな色の絹紐リボンがちらりと前の方へ顔を出す。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」
「そう」と俯目ふしめになった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」
今度こんだの試験の結果はまだ分らないの」
「もうじきだろう」
「今度は是非及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」
かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のあるかたが好きなんですよ」
「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあたとえに云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」
「うん」
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
「そうか。おやおや」
「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉のいたりだ」
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっともにならないようね」
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあそう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
 深い日は障子をとおして糸子の頬を暖かに射る。俯向うつむいた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」とひるがえる襦袢じゅばんそでのほのめくうちを、二本の指に、こことおさえて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、うまく手が届くね。盲目めくらにするとかんの好い按摩あんまさんが出来るよ」
「だってれてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣にことを引く別嬪べっぴんがいてね」
端書はがきに書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山あらしやまへ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚みとれて茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
うそよ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの因縁いんねんだよ」
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんならそう」
「その女のかたは何とおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう真面目まじめにならなくっても好い。実はうそだ。全く兄さんの作り事さ」
にくらしい」
 糸子はめでたく笑った。

        十一

 ありは甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる生存せいそんのうちに無聊ぶりょうをかこつ。立ちながら三度の食につくのいそがしきにえて、路上に昏睡こんすいの病をうれう。生を縦横に託して、縦横に死をむさぼるは文明の民である。文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。文明は人の神経を髪剃かみそりけずって、人の精神を擂木すりこぎと鈍くする。刺激に麻痺まひして、しかも刺激にかわくものはすうを尽くして新らしき博覧会に集まる。
 いぬしたい、人は色にはしる。狗と人とはこの点においてもっとも鋭敏な動物である。紫衣しいと云い、黄袍こうほうと云い、青衿せいきんと云う。皆人を呼び寄せるの道具に過ぎぬ。土堤どてを走る弥次馬やじうまは必ずいろいろの旗をかつぐ。担がれて懸命にかいあやつるものは色に担がれるのである。天下、天狗てんぐの鼻より著しきものはない。天狗の鼻は古えより赫奕かくえきとして赤である。色のある所は千里を遠しとせず。すべての人は色の博覧会に集まる。
 とうに集まり、人は電光に集まる。輝やくものは天下をく。金銀、※(「石+車」、第3水準1-89-5)※(「石+渠」、第3水準1-89-12)しゃこ瑪瑙めのう琉璃るり閻浮檀金えんぶだごん、の属を挙げて、ことごとく退屈のひとみを見張らして、疲れたる頭を我破がばね起させるために光るのである。昼を短かしとする文明の民の夜会には、あらわなる肌にちりばめたる宝石がひとり幅をかす。金剛石ダイアモンドは人の心を奪うがゆえに人の心よりも高価である。泥海ぬかるみに落つる星の影は、影ながらかわらよりもあざやかに、見るものの胸にきらめく。閃く影におど善男子ぜんなんし善女子ぜんにょしは家をむなしゅうしてイルミネーションに集まる。
 文明を刺激の袋の底にふるい寄せると博覧会になる。博覧会を鈍きの砂にせばさんたるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気がつく。
 花電車が風をって来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋やましたがんなべあたりおろす。雁鍋はとくの昔にくなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森のかたにぞろぞろ行く。
 岡はからめて本郷から起る。高き台をおぼろに浮かして幅十町を東へなだれるくちは、根津に、弥生やよいに、切り通しに、驚ろかんとするものをますはかって下谷したやへ通す。踏み合う黒い影はことごとくいけはたにあつまる。――文明の人ほど驚ろきたがるものはない。
 松高くして花を隠さず、枝の隙間すきまに夜を照らす宵重よいかさなりて、雨も降り風も吹く。始めは一片ひとひらと落ち、次には二片と散る。次には数うるひまにただはらはらと散る。この間中あいだじゅうは見るからに、万紅ばんこうを大地に吹いて、吹かれたるものの地に届かざるうちに、こずえから後を追うて落ちて来た。忙がしい吹雪ふぶきはいつか尽きて、今は残る樹頭に嵐もようやくおさまった。星ならずして夜をる花の影は見えぬ。同時にイルミネーションはいた。
「あら」と糸子が云う。
「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。
 すすきの穂を丸く曲げて、左右から重なる金のきらめく中に織り出した半月はんげつの数は分からず。幅広に腰をおおう藤尾の帯を一尺隔てて宗近むねちか君と甲野こうのさんが立っている。
「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と宗近君が云う。
糸子いとこさん、驚いたようですね」と甲野さんは帽子をまゆ深くかぶって立つ。
 糸子は振り返る。夜の笑は水の中で詩を吟ずるようなものである。思う所へは届かぬかも知れぬ。振り返る人のきぬの色は黄に似て夜をあざむくを、黒いものが幾筋もたてに刻んでいる。
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
貴所方あなたがたは」と糸子を差し置いて藤尾ふじおが振り返る。黒い髪の陰からさっと白い顔がす。頬の端は遠い火光ひかりを受けてほの赤い。
「僕は三遍目だから驚ろかない」と宗近君は顔一面を明かるい方へ向けて云う。
「驚くうちはたのしみがあるもんだ。女は楽が多くて仕合せだね」と甲野さんは長い体躯からだ真直ますぐに立てたまま藤尾を見下みおろした。
 黒い眼が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指をす。
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」甲野さんがすぐ但書ただしがきを附け加えた。
「ねえ、糸公、まるで竜宮のようだろう」
「本当に竜宮ね」
「藤尾さん、どう思う」と宗近君はどこまでも竜宮が得意である。
「俗じゃありませんか」
「何が、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だと云う御意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容はうまあたると俗になるのが通例だ」
あたると俗なら、中らなければ何になるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。
「だから、詩は実際にはずれる」と甲野さんが云う。
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「するとうまく中った形容が俗で、旨く中らなかった形容が詩なんだね。藤尾さん無味まずくって中らない形容を云って御覧」
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。いて御覧なさい」と藤尾は鋭どい眼のかどから欽吾きんごを見た。眼の角は云う。――無味くって中らない形容は哲学である。
「あの横にあるのは何」と糸子が無邪気むじゃきに聞く。
 ※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおの線をやみに渡して空を横に切るは屋根である。たてに切るは柱である。斜めに切るはいらかである。おぼろの奥に星をうずめて、限りなき夜を薄黒く地ならししたる上に、稲妻いなずまの穂は一を引いて虚空を走った。二を引いて上から落ちて来た。まんじえがいて花火のごとく地に近く廻転した。最後に穂先を逆に返して帝座ていざの真中を貫けとばかりげ上げた。かくして塔はむねに入り、棟はとこつらなって、不忍しのばずいけの、此方こなたから見渡すむこうを、右から左へ隙間すきまなく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。
 あいを含む黒塗に、金を惜まぬ高蒔絵たかまきえは堂を描き、楼を描き、廻廊を描き、曲欄きょくらんを描き、円塔方柱えんとうほうちゅうの数々を描き尽して、なお余りあるを是非に用い切らんために、描ける上を往きつ戻りつする。縦横にくうを走る※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)の線は一点一劃を乱すことなく整然として一点一劃のうちに活きている。動いている。しかも明かに動いて、動く限りは形をくず気色けしきが見えぬ。
「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの恰好かっこうが好い。何と形容するかな」と宗近君はちょっと躊躇ちゅうちょした。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
かんむり紅玉ルビーめたようだ事」と藤尾が云う。
「なるほど、天賞堂の広告見たようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って仰向あおむいた。
 空は低い。薄黒く大地にせまる夜の中途に、煮え切らぬ星が路頭に迷って放下ぶらさがっている。柱とつらなり、甍と積む万点の※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)さかしまに天をひたして、寝とぼけた星のまなこを射る。星の眼は熱い。
「空がげるようだ。――羅馬ロウマ法王の冠かも知れない」と甲野さんの視線は谷中やなかから上野の森へかけて大いなるけんえがいた。
「羅馬法王の冠か。藤尾さん、羅馬法王の冠はどうだい。天賞堂の広告の方が好さそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでも差支さしつかえなしか。とにかく女王クイーンの冠じゃない。ねえ甲野さん」
「何とも云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が奇麗きれいよ」と糸子が突然注意した。対話はクレオパトラを離れる。
 昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影にし付けられて、見渡す限り平かである。動かぬはいつの事からか。静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った池ならば、百年以来動かぬ、五十年の昔ならば、五十年以来動かぬとのみ思われる水底みなそこから、腐ったはすの根がそろそろ青いを吹きかけている。泥から生れたこいふなが、やみを忍んでゆるやかに※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あぎとを働かしている。イルミネーションは高い影をさかしまにして、二丁あまりの岸を、尺も残さず真赤まっかになってこの静かなる水の上に倒れ込む。黒い水は死につつもぱっと色をす。泥にひそむ魚のひれは燃える。
 湿うるおえる※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)は、一抹いちまつに岸をして、明かに向側むこうがわへ渡る。行く道によこたわるすべてのものを染め尽してやまざるを、ぷつりとって長い橋を西から東へける。白い石に野羽玉ぬばたまの波をまたぐアーチの数は二十、欄に盛る擬宝珠ぎぼしゅはことごとく夜を照らす白光のたまである。
「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼はことごとく水と橋とにあつまった。一間ごとに高く石欄干を照らす電光が、遠きこちらからは、行儀よく一列にくうに懸って見える。下をぞろぞろ人が通る。
「あの橋は人でうまっている」
と宗近君が大きな声を出した。
 小野さんは孤堂こどう先生と小夜子さよこを連れて今この橋を通りつつある。驚ろかんとあせる群集は弁天のやしろを抜けてして来る。むこうおかを下りて圧して来る。東西南北の人は広い森と、広い池の周囲まわりを捨ててことごとく細長い橋の上に集まる。橋の上は動かれぬ。真中に弓張を高く差し上げて、巡査が来る人と往く人を左へ右へと制している。来る人も往く人もただまれて通る。足を地に落す暇はない。楽に踏む余地を尺寸せきすんに見出して、安々とかかとを着ける心持がやっと有ったなと思ううち、もううしろから前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとは無論云えぬ。小夜子は夢のように心細くなる。孤堂先生は過去の人間を圧しつぶすためにみんなが揉むのではないかと恐ろしがる。小野さんだけは比較的得意である。多勢たぜいの間に立って、多数よりすぐれたりとの自覚あるものは、身動きが出来ぬ時ですら得意である。博覧会は当世である。イルミネーションはもっとも当世である。驚ろかんとしてここにあつまる者は皆当世的の男と女である。ただあっと云って、当世的に生存せいそんの自覚を強くするためである。御互に御互の顔を見て、御互の世は当世だと黙契して、自己の勢力を多数と認識したるのち家に帰って安眠するためである。小野さんはこの多数の当世のうちで、もっとも当世なものである。得意なのは無理もない。
 得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰が眼にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れの御荷物を丁寧に二人まで背負しょって、幅のかぬ過去と同一体だと当世から見られるのは、ただ見られるのではない、見咎みとがめられるも同然である。芝居に行って、自分の着ている羽織の紋のおおきさが、時代か時代後れか、そればかりが気になって、見物にはいっこう身が入らぬものさえある。小野さんは肩身が狭い。人の波の許す限り早く歩く。
阿爺おとうさん、大丈夫」とうしろから呼ぶ。
「ああ大丈夫だよ」と知らぬ人を間に挟んだまま一軒置いて返事がある。
「何だか危なくって……」
「なに自然じねんに押して行けば世話はない」とはさまった人をやり過ごして、苦しいところを娘といっしょになる。
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い片頬かたほえみを見せる。
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と云ううち二人は前へ出る。巡査の提灯ちょうちんが孤堂先生の黒い帽子をかすめて動いた。
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」と眼元です。手を出せば人の肩でさえぎられる。
「どこに」と孤堂先生は足をそろえる暇もなく、そのまま日和下駄ひよりげたの前歯を傾けて背延せいのびをする。先生の腰が中心を失いかけたところを、後ろから気の早い文明の民がしかかる。先生はのめった。危うく倒れるところを、前に立つ文明の民の背中でようやく喰い留める。文明の民はどこまでも前へ出たがる代りに、背中で人をたすける事を拒まぬ親切な人間である。
 文明の波はおのずから動いてたよりのない親と子を弁天の堂近く押し出して来る。長い橋が切れて、渡る人の足が土へ着くや否や波は急に左右に散って、黒い頭が勝手な方へくずれ出す。二人はようやく胸が広くなったような心持になる。
 暗い底にあいを含むく春の夜をかして見ると、花が見える。雨に風に散りおくれて、八重に咲く遅きを、夜にけん花の願を、人の世のともしびが下から朗かに照らしている。おぼろ薄紅うすくれない螺鈿らでんる。鐫ると云うと硬過かたすぎる。浮くと云えば空を離れる。このよいとこの花をどう形容したらよかろうかと考えながら、小野さんは二人を待ち合せている。
「どうもおそろしい人だね」と追いついた孤堂先生が云う。怖ろしいとは、本当に怖ろしい意味でかつ普通に怖ろしい意味である。
「随分出ます」
「早くうちへ帰りたくなった。どうもおそろしい人だ。どこからこんなに出て来るのかね」
 小野さんはにやにやと笑った。蜘蛛くもの子のように暗い森をおおうて至る文明の民は皆自分の同類である。
「さすが東京だね。まさか、こんなじゃ無かろうと思っていた。怖しい所だ」
 すういきおいである。勢を生む所は怖しい。一坪に足らぬ腐れた水でも御玉杓子おたまじゃくしのうじょうじょく所は怖しい。いわんや高等なる文明の御玉杓子を苦もなくひり出す東京が怖しいのは無論の事である。小野さんはまたにやにやと笑った。
「小夜や、どうだい。あぶない、もう少しではぐれるところだった。京都じゃこんな事はないね」
「あの橋を通る時は……どうしようかと思いましたわ。だってこわくって……」
「もう大丈夫だ。何だか顔色が悪いようだね。くたびれたかい」
「少し心持が……」
「悪い? 歩きつけないのを無理に歩いたせいだよ。それにこの人出じゃあ。どっかでちょいと休もう。――小野、どっか休む所があるだろう、小夜が心持がよくないそうだから」
「そうですか、そこへ出るとたくさん茶屋がありますから」と小野さんはまた先へ立って行く。
 運命は丸い池を作る。池をめぐるものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸である。人の海のき返る薄黒い倫敦ロンドンで、朝な夕なに回り合わんと心掛ける甲斐かいもなく、眼を皿に、足を棒に、尋ねあぐんだ当人は、ただ一重ひとえの壁にさえぎられて隣りの家にすすけた空をながめている。それでもえぬ、一生逢えぬ、骨が舎利しゃりになって、墓に草が生えるまで逢う事が出来ぬかも知れぬと書いた人がある。運命は一重の壁に思う人を終古しゅうこに隔てると共に、丸い池に思わぬ人をはたと行き合わせる。変なものは互に池の周囲まわりを回りながら近寄って来る。不可思議の糸は闇の夜をさえ縫う。
「どうだい女連おんなれんはだいぶ疲れたろう。ここで御茶でも飲むかね」と宗近君が云う。
「女連はとにかく僕の方が疲れた」
「君より糸公の方が丈夫だぜ。糸公どうだ、まだ歩けるか」
「まだ歩けるわ」
「まだ歩ける? そりゃえらい。じゃ御茶はしにするかね」
「でも欽吾きんごさんが休みたいとおっしゃるじゃありませんか」
「ハハハハなかなかうまい事を云う。甲野さん、糸公が君のために休んでやるとさ」
「ありがたい」と甲野さんは薄笑をしたが、
「藤尾も休んでくれるだろうね」と同じ調子でつけ加える。
「御頼みなら」と簡明な答がある。
「どうせ女にはかなわない」と甲野さんは断案をくだした。
 池の水に差し掛けて洋風に作り上げた仮普請かりぶしんの入口をまたぐと、ちいさい卓に椅子いすを添えてここ、かしこにならべた大広間に、三人四人ずつのむれがおのおの口の用を弁じている。どこへ席をとろうかと、四五十人の一座をずっと見廻した宗近君は、並んで右に立っている甲野さんのたもとをぐいと引いた。うしろの藤尾はすぐおやと思う。しかし仰山ぎょうさんに何事かと聞くのは不見識である。甲野さんは別段相図を返した様子もなく
「あすこがいている」とずんずん奥へ這入はいって行く。あとをけながら藤尾の眼は大きな部屋の隅から隅までを残りなく腹の中へ畳み込む。糸子はただ下を見て通る。
「おい気がついたか」と宗近君の腰はまず椅子に落ちた。
「うん」と云う簡潔な返事がある。
「藤尾さん小野が来ているよ。うしろを見て御覧」と宗近君がまた云う。
「知っています」と云ったなり首は少しも動かなかった。黒い眼が怪しいかがやきを帯びて、頬の色は電気灯のもとでは少し熱過ぎる。
「どこに」と何気なにげなき糸子は、やさしい肩をななめにじ向けた。
 入口を左へ行き尽くして、二列目の卓を壁際に近く囲んで小野さんの連中は席を占めている。腰をおろした三人は突き当りの右側に、窓を控えて陣を取る。肩を動かした糸子の眼は、広い部屋に所択ところえらばず散らついている群衆を端から端へ貫ぬいて、はるか隔たった小野さんの横顔に落ちた。――小夜子は真向まむきに見える。孤堂先生は背中の紋ばかりである。春の夜を淋しく交る白い糸を、あごの下に抜くもものうく、世のままに、人のままに、また取る年の積るままに捨てて吹かるるひげは小夜子の方に向いている。
「あら御連おつれがあるのね」と糸子はくびをもとへ返す。返すとき前に坐っている甲野さんと眼を見合せた。甲野さんは何にも云わない。灰皿の上にたてに挟んだ燐寸箱マッチばこの横側をしゅっとった。藤尾も口を結んだままである。小野さんとは背中合せのままでわかれるつもりかも知れない。
「どうだい、別嬪べっぴんだろう」と宗近君は糸子に調戯からかいかける。
 俯目ふしめに卓布をながめていた藤尾の眼は見えぬ、濃い眉だけはぴくりと動いた。糸子は気がつかぬ、宗近君は平気である、甲野さんは超然としている。
「うつくしいかたね」と糸子は藤尾を見る。藤尾は眼を上げない。
「ええ」と素気そっけなく云い放つ。きわめて低い声である。答を与うるにあたいせぬ事を聞かれた時に、――相手に合槌あいづちを打つ事をいさぎよしとせざる時に――女はこの法を用いる。女は肯定の辞に、否定の調子を寓する霊腕を有している。
「見たかい甲野さん、驚いたね」
「うん、ちと妙だね」と巻煙草まきたばこの灰を皿の中にはたき落す。
「だから僕が云ったのだ」
「何と云ったのだい」
「何と云ったって、忘れたかい」と宗近君も下向したむきになって燐寸マッチる。刹那せつなに藤尾のひとみは宗近君の額を射た。宗近君は知らない。くわえた巻煙草に火を移して顔を真向まむきに起した時、稲妻はすでに消えていた。
「あら妙だわね。二人して……何を云っていらっしゃるの」と糸子が聞く。
「ハハハハ面白い事があるんだよ。糸公……」と云い掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。
「いやあ亡国の菓子が来た」
「亡国の菓子とは何だい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。
「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の由緒いわれを」と云いながら角砂糖を茶碗の中へほうり込む。かにの眼のようなあわかすかな音を立てて浮き上がる。
「そんな事知らないわ」と糸子はさじでぐるぐるき廻している。
「そら阿爺おとっさんが云ったじゃないか。書生が西洋菓子なんぞを食うようじゃ日本も駄目だって」
「ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか」
「云わない? 御前よっぽど物覚がわるいね。そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時、そう云ったじゃないか」
「そうじゃないわ。書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのはのらくらものだっておっしゃったんでしょう」
「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺は西洋菓子がきらいだよ。柿羊羹かきようかん味噌松風みそまつかぜ、妙なものばかり珍重したがる。藤尾さんのようなハイカラのそばへ持って行くとすぐ軽蔑けいべつされてしまう」
「そう阿爺おとうさまの悪口をおっしゃらなくってもいいわ。兄さんだって、もう書生じゃないから西洋菓子を食べたって大丈夫ですよ」
「もう叱られる気遣きづかいはないか。それじゃ一つやるかな。糸公も一つ御上おあがり。どうだい藤尾さん一つ。――しかしなんだね。阿爺おとっさんのような人はこれから日本にだんだん少なくなるね。惜しいもんだ」とチョコレートを塗った卵糖カステラを口いっぱいに頬張ほおばる。
「ホホホホ一人で饒舌しゃべって……」と藤尾の方を見る。藤尾は応じない。
「藤尾は何も食わないのか」と甲野さんは茶碗を口へ付けながら聞く。
「たくさん」と云ったぎりである。
 甲野さんは静かに茶碗をおろして、首を心持藤尾の方へ向け直した。藤尾は来たなと思いながら、またたきもせず窓を通してうつる、イルミネーションの片割かたわれを専念に見ている。兄の首はしだいにもとの位地に帰る。
 四人が席を立った時、藤尾は傍目わきめも触らず、ただ正面を見たなりで、女王の人形が歩を移すがごとく昂然こうぜんとして入口まで出る。
「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と宗近君は洒落しゃらくに女の肩をたたく。藤尾の胸は紅茶で焼ける。
「驚ろくうちはたのしみがある。女は仕合せなものだ」と再び人込ひとごみへ出た時、何を思ったか甲野さんはまた前言を繰り返した。
 驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ! うちへ帰って寝床へ這入はいるまで藤尾の耳にこの二句があざけりれいのごとく鳴った。

        十二

 貧乏を十七字に標榜ひょうぼうして、馬の糞、馬の尿いばりを得意気にえいずる発句ほっくと云うがある。芭蕉ばしょうが古池にかわずを飛び込ますと、蕪村ぶそんからかさかついで紅葉もみじを見に行く。明治になっては子規しきと云う男が脊髄病せきずいびょうわずらって糸瓜へちまの水を取った。貧に誇る風流は今日こんにちに至っても尽きぬ。ただ小野さんはこれをいやしとする。
 仙人は流霞りゅうかさんし、※(「さんずい+亢」、第3水準1-86-55)ちょうこうを吸う。詩人の食物は想像である。美くしき想像にふけるためには余裕がなくてはならぬ。美くしき想像を実現するためには財産がなくてはならぬ。二十世紀の詩趣と元禄の風流とは別物である。
 文明の詩は金剛石ダイヤモンドより成る。むらさきより成る。薔薇ばらと、葡萄ぶどうの酒と、琥珀こはくさかずきより成る。冬は斑入ふいりの大理石を四角に組んで、うるしに似たる石炭に絹足袋きぬたびの底をあたためるところにある。夏は氷盤ひょうばんいちごを盛って、あまき血を、クリームの白きなかにとかし込むところにある。あるときは熱帯の奇蘭きらんを見よがしに匂わする温室にある。野路のじや空、月のなかなる花野はなの惜気おしげも無く織り込んだつづれの丸帯にある。唐錦からにしき小袖こそで振袖ふりそでれ違うところにある。――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本分をまっとうするために金を得ねばならぬ。
 詩を作るより田を作れと云う。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。ことに文明の民は詩人の歌よりも詩人のおこないを愛する。彼らは日ごと夜ごとに文明の詩を実現して、花に月に富貴ふうきの実生活を詩化しつつある。小野さんの詩は一文にもならぬ。
 詩人ほど金にならん商買しょうばいはない。同時に詩人ほど金のいる商買もない。文明の詩人は是非共ひとの金で詩を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬ事となる。小野さんがわが本領を解する藤尾ふじおたよりたくなるのは自然のすうである。あすこには中以上の恒産こうさんがあると聞く。腹違の妹を片づけるにただの箪笥たんすと長持で承知するような母親ではない。ことに欽吾きんごは多病である。実の娘に婿むこを取って、かかる気がないとも限らぬ。折々に、解いて見ろと、わざとらしく結ぶ辻占つじうらがあたればいつもきちである。いては事を仕損ずる。小野さんはおとなしくして事件の発展を、おのずから開くべき優曇華うどんげの未来に待ち暮していた。小野さんは進んで仕掛けるような相撲すもうをとらぬ、またとれぬ男である。
 天地はこの有望の青年に対して悠久ゆうきゅうであった。春は九十日の東風とうふうを限りなく得意のひたいに吹くように思われた。小野さんはやさしい、物にさからわぬ、気の長い男であった。――ところへ過去が押し寄せて来た。二十七年の長い夢とそびらを向けて、西の国へさらりと流したはずの昔から、一滴の墨汁ぼくじゅうにもくらぶべきほどの暗いちさい点が、明かなる都まで押し寄せて来た。押されるものは出る気がなくても前へのめりたがる。おとなしく時機を待つ覚悟を気長にきめた詩人も未来を急がねばならぬ。黒い点は頭の上にぴたりととどまっている。仰ぐとぐるぐる旋転せんてんしそうに見える。ぱっと散れば白雨ゆうだちが一度にくる。小野さんは首を縮めてけ出したくなる。
 四五日は孤堂こどう先生の世話やら用事やらで甲野こうのの方へ足を向ける事も出来なかった。昨夜ゆうべは出来ぬ工夫を無理にして、旧師への義理立てに、先生と小夜子さよこを博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一飯漂母いっぱんひょうぼを徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人の義務である。この義務を果して、こまやかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰好かっこうな優しい振舞である。ただ何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。――小野さんは机の前でこう云う論理を発明した。
 小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分のかんがえに間違はないはずだと思う。人が聞けば立派に弁解が立つと思う。小野さんは頭脳の明暸めいりょうな男である。
 ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表紙に豊かな金文字を入れた厚い書物をけた。中からヌーボー式に青い柳を染めて赤瓦の屋根が少し見えるしおりがあらわれる。小野さんは左の手に栞をすべらして、細かい活字を金縁の眼鏡めがねの奥から読み始める。五分ごふんばかりは無事であったが、しばらくすると、いつのにやら、黒い眼はページを離れて、筋違すじかい日脚ひあしの伸びた障子しょうじさんを見詰めている。――四五日藤尾にわぬ、きっと何とか思っているに違ない。ただの時なら四五日が十日とおかでもさして心配にはならぬ。過去に追いつかれた今の身にはくしけずる間も千金である。逢えば逢うたびに願のまとは近くなる。逢わねば元の君と我にたぐり寄すべき恋の綱の寸分だも縮まるえにしはない。のみならず、魔は節穴ふしあなすきにも射す。逢わぬ半日に日が落ちぬとも限らぬ、こも一夜ひとよに月はる。等閑なおざりのこの四五日に藤尾のまゆにいかな稲妻いなずまが差しているかは夢はかりがたい。論文を書くための勉強は無論大切である。しかし藤尾は論文よりも大切である。小野さんはぱたりと書物を伏せた。
 芭蕉布ばしょうふふすまを開けると、押入の上段は夜具、下には柳行李やなぎこうりが見える。小野さんは行李の上に畳んである背広せびろを出して手早く着換きかえ終る。帽子は壁にぬしを待つ。がらりと障子を明けて、赤い鼻緒はなお上草履うわぞうりに、カシミヤの靴足袋くつたびを無理に突き込んだ時、下女が来る。
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。冗談じょうだんか」と行こうとすると、おろし立ての草履が片方かたかた足を離れて、拭き込んだ廊下を洋灯ランプ部屋の方へ滑って行く。
「ホホホホあんまり周章あわてるもんだから。御客様ですよ」
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変真面目まじめですね」と笑いながら、返事も待たず、入口へ引き返す。小野さんは気掛きがかりな顔をして障子のそばに上草履をそろえたまま廊下の突き当りをながめている。何が出てくるかと思う。焦茶こげちゃの中折が鴨居かもいを越すほどの高い背をして、薄暗い廊下のはずれに折目正しく着こなした背広の地味なだけに、胸開むなあきの狭い胴衣チョッキから白い襯衣シャツと白いえりが著るしく上品に見える。小野さんは姿よく着こなした衣裳いしょうを、見栄みばえのせぬ廊下の片隅に、中ぶらりんに落ちつけて、光る眼鏡を斜めに、突き当りを眺めている。何が出てくるのかと思いながら眺めている。両手を洋袴ズボン隠袋かくしし込むのは落ちつかぬ時の、落ちついた姿である。
「そこをまがると真直です」と云う下女の声が聞えたと思うと、すらりと小夜子の姿が廊下のはじにあらわれた。海老茶色えびちゃいろ緞子どんすの片側が竜紋りょうもんの所だけ異様に光線を射返して見える。在来ありきたりの銘仙めいせんあわせを、白足袋しろたびの甲を隠さぬほどに着て、きりりと角を曲った時、長襦袢ながじゅばんらしいものがちらと色めいた。同時にさえぎるものもない中廊下に七歩の間隔を置いて、男女なんにょの視線は御互の顔の上に落ちる。
 男はおやと思う。姿勢だけはくずさない。女ははっと躊躇ためらう。やがて頬に差すくれないを一度にかくして、乱るる笑顔を肩共に落す。油をさぬ黒髪に、さざなみ琥珀こはくに寄る幅広の絹の色があざやかな翼を片鬢かたびんに張る。
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような挨拶あいさつをする。
「どちらへか御出掛で……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落した肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえ何……まあ御這入おはいんなさい。さあ」と片足を部屋のうちへ引く。
「御免」と云いながら、手を重ねたまま擦足すりあしに廊下をすべって来る。
 男は全く部屋の中へ引き込んだ。女もつづいて這入はいる。明かなる日永の窓は若き二人に若き対話をうながす。
「昨夜は御忙おいそがしいところを……」と女は入口に近く手をつかえる。
「いえ、さぞ御疲でしたろう。どうです、御気分は。もうすっかり好いですか」
「はあ、御蔭おかげさまで」と云う顔は何となくやつれている。男はちょっと真面目になった。女はすぐ弁解する。
「あんな人込ひとごみへは滅多めったに出つけた事がないもんですから」
 文明の民は驚ろいて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚ろいてこわがるためにイルミネーションを見る。
「先生はどうですか」
 小夜子は返事を控えてさみしく笑った。
「先生も雑沓ざっとうする所がきらいでしたね」
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から眼をはずして、畳の上に置いてある埋木うもれぎの茶托をながめる。京焼の染付茶碗そめつけぢゃわんはさっきから膝頭ひざがしらっている。
「御迷惑でしたろう」と小野さんは隠袋ポッケットから煙草入を取り出す。やみを照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。派出はでを好む藤尾の贈物かも知れない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入を開く。裏は一面の鍍金ときんに、しろかねえたる上を、花やかにぱっと流す。淋しき女は見事だと思う。
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね」
 忙しがる小野を無理に都合させて、かぬ人込へわざわざ出掛けるのもみんな自分が可愛いからである。済まぬ事には人込は自分も嫌である。せっかくの思に、そで振り交わして、長閑のどかあゆみを、春のよいならんで移す当人は、依然として近寄れない。小夜子は何と返事をしていいか躊躇ためらった。相手の親切に気兼をして、先方の心持を悪くさせまいと云う世態せたい染みた料簡りょうけんからではない。小夜子の躊躇ったのには、もう少し切ない意味がこもっている。
「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った気色けしきをどう解釈したか、小野さんは再び問い掛けた。
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住みれた所が好いそうで」
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心のうちではそれほどしょうに合わない所へなぜ出て来たのかと、自分の都合を考えて多少馬鹿らしい気もする。
「あなたは」と聞いて見る。
 小夜子はまた口籠くちごもる。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋のにおいのする煙草をくゆらしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きもきらいも御前のかじの取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪こうおを支配する人間から、素知らぬ顔ですききらいかを尋ねられるのはうらめしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう豁達はきはきせぬのかと思う。
 胴衣チョッキ隠袋かくしから時計を出して見る。
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」とうまい具合に渡し込む。
 女はまた口籠る。男は少し焦慮じれったくなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、御閑おひまならば、小野さんにいっしょに行っていただいて勧工場かんこうばででも買って来いと申しましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、わたしが帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
 父の好意は再び水泡すいほうに帰した。小夜子は悄然しょうぜんとして帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へせて手早く表へ出る。――同時にく春の舞台は廻る。
 紫を辛夷こぶしはなびらに洗う雨重なりて、花はようやく茶にちかかるえんに、す髪の帯を隠して、動かせば背に陽炎かげろうが立つ。黒きを外に、風がなぶり、日が嬲り、つい今しがたは黄なちょうがひらひらと嬲りに来た。知らぬ顔の藤尾は、内側を向いている。くっきりと肉の締った横顔は、うしろからさす日の影に、耳をおおうて肩に流すびんの影に、しっとりとしてほのかである。千筋ちすじにぎらついて深きすみれを一面に浴せる肩を通り越して、向う側はとのぞき込むとき、まばゆき眼はしんと静まる。夕暮にそれかと思うたでの花の、白きを人は潜むと云った。髪多く余る光を椽にこぼすこなたの影に、有るか無きかのほっそりした顔のなかを、濃く引き残したる眉の尾のみがたしかである。眉の下なる切長の黒い眼は何を語るか分らない。藤尾は寄木よせきの小机にひじを持たせて俯向うつむいている。
 心臓の扉を黄金こがねつちたたいて、青春のさかずきに恋の血潮を盛る。飲まずと口をそむけるものは片輪である。月傾いて山を慕い、人老いてみだりに道を説く。若き空には星の乱れ、若きつちには花吹雪はなふぶき、一年を重ねて二十に至って愛の神は今がさかりである。緑濃き黒髪を婆娑ばさとさばいて春風はるかぜに織るうすものを、蜘蛛くもと五彩の軒に懸けて、みずからと引きかかる男を待つ。引き掛った男は夜光のたまを迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字万字に、魂をさかしまにして、のちの世までの心を乱す。女はただ心地よげに見やる。耶蘇教ヤソきょうの牧師は救われよという。臨済りんざい黄檗おうばくは悟れと云う。この女は迷えとのみ黒いひとみを動かす。迷わぬものはすべてこの女のかたきである。迷うて、苦しんで、狂うて、おどる時、始めて女の御意はめでたい。欄干らんかんほそい手を出してわんと云えという。わんと云えばまたわんと云えと云う。犬は続け様にわんと云う。女は片頬かたほえみを含む。犬はわんと云い、わんと云いながら右へ左へ走る。女は黙っている。犬は尾をさかしまにして狂う。女はますます得意である。――藤尾の解釈した愛はこれである。
 石仏せきぶつに愛なし、色は出来ぬものと始から覚悟をきめているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信にもとづいて起る。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を標榜ひょうぼうしてはばからぬものは、いかなる犠牲をも相手にせまる。相手を愛するの資格をそなえざるがためである。※(「目+分」、第3水準1-88-77)へんたる美目びもくに魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんはあやうい。せんたる巧笑にわが命を托するものは必ず人を殺す。藤尾は丙午ひのえうまである。藤尾はおのれのためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在し得るやと考えた事もない。詩趣はある。道義はない。
 愛の対象は玩具おもちゃである。神聖なる玩具である。普通の玩具はもてあそばるるだけが能である。愛の玩具は互に弄ぶをもって原則とする。藤尾は男を弄ぶ。一毫いちごうも男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則をはずれた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風はるかぜの吹き回しで、あまい潮の満干みちひきで、はたりと天地の前に行きった時、この変則の愛は成就する。
 を立てて恋をするのは、火事頭巾かじずきんかぶって、甘酒を飲むようなものである。調子がわるい。恋はすべてをかす。角張かどばった絵紙鳶えだこ飴細工あめざいくであるからは必ず流れ出す。我は愛の水に浸して、三日三晩の長きにわたってもふやける気色けしきを見せぬ。どこまでも堅く控えている。我を立てて恋をするものは氷砂糖である。
 沙翁シェクスピアは女を評してもろきは汝が名なりと云った。脆きが中に我を通すあがれる恋は、かしぎたる飯の柔らかきに御影みかげの砂を振り敷いて、心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ。み締めるものに護謨ゴムの弾力がなくては無事には行かぬ。我の強い藤尾は恋をするために我のない小野さんをえらんだ。蜘蛛の囲にかかる油蝉あぶらぜみはかかっても暴れて行かぬ。時によると網を破って逃げる事がある。宗近むねちか君をるは容易である。宗近君をらすは藤尾といえども困難である。の女はあごで相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。小野さんはすぐ来るのみならず、来る時は必ず詩歌しいかたまふところいだいて来る。夢にだもわれをもてあそぶの意思なくして、満腔まんこうの誠を捧げてわが玩具おもちゃとなるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むる事は露知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが眼に、わがまゆに、わがくちびるに、さてはわが才に認めてひたすらに渇仰かつごうする。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。
 唯々いいとしてるべきはずの小野さんが四五日見えぬ。藤尾は薄きよそおいを日ごとにしてかどを鏡のうちに隠していた。その五日目の昨夕